佐々木高秀

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佐々木 高秀/京極 高秀(ささき たかひで/きょうごく たかひで)は、南北朝時代室町時代初期)の守護大名室町幕府評定衆侍所所司、出雲飛騨隠岐守護。

生涯

嘉暦元年(1328年)、室町幕府の成立に大きく貢献する佐々木道誉の3男として生まれ、興国6年/康永4年(1345年)に行われた後醍醐天皇を弔う天龍寺の法要に参列している。長兄の秀綱正平8年/文和2年(1353年)に、次兄の秀宗は正平3年/貞和4年(1348年)にそれぞれ戦死したため、佐々木氏支流京極氏の嗣子となる。

正平16年/康安元年(1361年)には侍所所司を務めており、父の諫言により失脚し南朝方として京に攻め入ろうとしていた細川清氏摂津忍常寺において500余騎を持って対するが、戦わずにこれを通した。

正平20年/貞治4年(1365年)、佐々木氏一門の宗家である六角氏の当主六角氏頼が唯一の跡取を早世により失ったため、高秀は嫡男である高経(後の高詮)を養嗣子として六角氏に出し、次男の秀満(満秀とも)を京極氏の跡取りと定めた 。これで京極氏は順風満帆と思われたが、六角氏頼は4年後に新たに亀寿丸(後の満高)を儲け、翌年に死去してしまう。このため跡目争いが生じ、細川頼之管領を務めていた幕府は高経に対して亀寿丸が成人するまでの後見役を命じ、六角氏が代々務めていた近江守護へと任じて争いを収めるが、わずか7年後の天授3年/永和3年(1377年)に高経は近江守護職を解かれる。この一件は高秀と頼之との確執を深め、後の康暦の政変へと繋がっていったと言われている。

なおこの間、正平23年/応安元年(1368年)に評定衆へと加わり、従四位下大膳大夫に任ぜられ、文中2年/応安6年(1373年)には父道誉が亡くなり家督を継いでいる。

天授5年/康暦元年(1379年)に起こった康暦の政変では、美濃土岐頼康と共に政敵である頼之の管領罷免を求め近江で兵を挙げ、3代将軍足利義満から追討令を受けた六角氏と近江で戦う。そうした中、鎌倉公方足利氏満も反乱の構えを見せたため、恐れをなした義満は高秀らを許した。高秀は京に上り服従を誓うが、翌日になって斯波義将、土岐頼康らと共に大軍で花の御所を包囲し、再び頼之の罷免を迫り成し遂げる。しかし京極氏の領国は全て取り上げられて高秀・秀満は失脚、2年後の弘和元年/永徳元年(1381年)には赦されたものの飛騨一国しか返還されなかった。

その後は幕府に仕え、元中7年/明徳元年(1390年)には義満の命により土岐頼康の甥の美濃守護土岐康行を追討した(土岐康行の乱)。翌年の元中8年/明徳2年(1391年)に64歳で亡くなり、長男の高詮が後を継いだ。高詮は同年に起こった明徳の乱で功績を上げて出雲・隠岐を取り戻し、京極氏の勢力回復に努めた。一方、高秀の存命中に後継者と目されていた次男秀満は、家督を継げなかったことに不満を持ったのか高詮と対立し、応永6年(1399年)に勃発した応永の乱において反幕府方につき挙兵したが、敗れて没落している。

高秀は和歌を好み新千載和歌集新拾遺和歌集新後拾遺和歌集に入集している。また、3男の高久には近江尼子郷を与えている。高久は後に出雲の戦国大名となる尼子氏の祖となった(一説に高久に尼子郷を与えたのは高秀ではなく、その父である道誉であるとも)。

史料

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