薩英戦争
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 薩英戦争 Anglo-Satsuma War | |
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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 320px Illustrated London News 1863年11月3日号のイラスト | |
戦争:薩英戦争(アングロ=サツマ戦争) | |
年月日:1863年8月15日-1863年8月17日 | |
場所:テンプレート:JPN1603、薩摩国 | |
結果:勝敗については諸説あり。 | |
交戦勢力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:UK | 25px 薩摩藩 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:Flagicon ヴィクトリア女王 テンプレート:Flagicon パーマストン子爵 テンプレート:Flagicon ラッセル伯爵 テンプレート:Flagicon2 キューパー提督 |
25px 島津茂久 25px 島津久光 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | イギリス海軍 | 薩摩藩 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 死者13人[1][2] 負傷者50人[1][2] 艦船大破1隻[1] 中破2隻[1] |
死者8人[1] 負傷者1人[1] 大砲8門[2] 弾薬庫x2[2] |
テンプレート:Tnavbar |
薩英戦争(さつえいせんそう、テンプレート:Lang-en、文久3年7月2日(1863年8月15日) - 7月4日(8月17日))は、生麦事件の解決を迫るイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)と薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘である。
鹿児島では「まえんはまいっさ」(前の浜戦)と呼ばれる(城下町付近の海浜が前の浜と呼ばれていた)。薩英戦争後の交渉が、英国が薩摩藩に接近する契機となった。
生麦事件
文久2年8月21日(1862年9月14日) - 生麦事件が発生する。横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で薩摩藩の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士・奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷する(死者が1名、負傷者が2名)。
交渉
交渉までの経緯については、備考を参照のこと。
文久3年5月9日(1863年6月24日)、イギリス公使代理のジョン・ニールは幕府から生麦事件の賠償金10万ポンドを受け取った。
6月22日(8月6日)、ジョン・ニールは薩摩藩との直接交渉のため、7隻の艦隊(旗艦ユーライアラス(艦長・司令J・ジョスリング一等海佐(Captain)[3])、コルベット「パール」(艦長J・ボーレイス一等海佐(Captain)[3])、同「パーシュース」(艦長A・キングストン海尉(Lieutenant-Commander)[4])、同「アーガス」(艦長L・ムーア海尉(Lieutenant-Commander)[4])、砲艦「レースホース」(艦長C・ボクサー海尉(Lieutenant-Commander)[4])、同「コケット」(艦長J・アレキサンダー海尉(Lieutenant-Commander)[4])、同「ハボック」(艦長G・プール海尉(Lieutenant)[4])、指揮官:イギリス東インド艦隊司令長官オーガスタス・レオポルド・キューパー海軍少将)と共に横浜を出港。6月27日(8月11日)にイギリス艦隊は鹿児島湾に到着し鹿児島城下の南約7kmの谷山郷沖に投錨した。薩摩藩は総動員体制に入り、寺田屋事件関係者の謹慎も解かれた。
6月28日(8月12日)、イギリス艦隊はさらに前進し、鹿児島城下前之浜約1km沖に投錨した。艦隊を訪れた薩摩藩の使者に対しイギリス側は国書を提出。生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への「妻子養育料」として2万5000ポンドを要求。薩摩藩側は回答を留保し翌日に鹿児島城内で会談を行う事を提案している。
6月29日(8月13日)、イギリス側は城内での会談を拒否、早急な回答を求める。
薩摩藩は「生麦事件に関して責任はない」とする返答書をイギリス艦隊に提出し、イギリス側の要求を拒否。イギリス艦隊は桜島の横山村・小池村沖に移動した。なお、テンプレート:要出典範囲。
一方、奈良原喜左衛門らはイギリス艦が薪水・食料を求めたのに対して奇襲を計画し、海江田信義、黒田清隆、大山巌らが、国書に対する答使と果物・スイカ売りに変装し艦隊に接近した。使者を装った一部は乗艦に成功したが、艦隊側に警戒されてほとんどの者が乗船を拒まれたため、奇襲作戦は中止され、奈良原らは退去した。
7月1日(8月14日)、ニール代理公使は薩摩藩の使者に対し、要求が受け入れられない場合は武力行使に出ることを通告した。薩摩藩は開戦を覚悟し、藩主・島津茂久と後見役島津久光は、鹿児島城が英艦隊の艦砲の射程内と判断されていたため、新たに本営と定めた鹿児島近在西田村(現・鹿児島市常盤)の千眼寺に移った。
戦闘
イギリス艦隊には積極的な戦意はなく、旗艦には幕府から得た賠償金が積まれていたが、7月2日(8月15日) - 夜明け前、艦隊の5隻は、五代友厚や寺島宗則らが乗船する商用汽船の天佑丸(England)、白鳳丸(Contest)、青鷹丸(Sir George Grey)を脇元浦(現在の姶良市脇元付近)において奪取して桜島に向かう[1]。これをイギリス艦隊の盗賊行為と受け取った薩摩藩は7箇所の砲台(台場)に追討の令を出す[1]。湾内各所に設置した砲台から投錨する艦隊に対敵した砲台(Battery Point)が攻撃を開始、慌てた艦隊は錨を切断して逃走する[1]。
不意を突かれたキューパー提督(海軍少将)は奪取した天佑丸、白鳳丸、青鷹丸を保持したまま戦闘することは不利と判断し、貴重品を持ち出してから薩摩の蒸気船3隻を焼却。イギリス艦隊は戦列を整え、旗艦ユーライアラスは、第8台場(戦況図参照)に向けて自在砲を用いて発砲。その後107門の砲(うち21門が最新式の40ポンド・110ポンドアームストロング砲)などを装備した艦隊で陸上砲台(沿岸防備砲・台場)や民家に対し艦砲射撃による攻撃を行う。これに対して薩摩の台場からの応戦による大砲の発砲は数百発に及び小銃隊も砲撃の合間を縫って狙撃を行った[1]。艦隊の第7台場、第8台場への攻撃では薩摩側の砲8門を破壊した。
イギリス艦隊の艦砲射撃では敵対した台場だけでなく鹿児島城や城下町に対しても砲撃やロケット弾攻撃を加え、城下では、おりからの強風のため大規模な火災が発生した。近代工場群を備えた藩営集成館も破壊された。
薩摩藩の砲はイギリス艦隊に比べると射程距離が短く、性能も劣っていたが、台場に接近する艦隊は午前よりの荒天のため操艦や砲の照準も定まらないなど苦戦を強いられた。その戦闘の際に台場の臼砲の弾丸1発が旗艦ユーライアラスの甲板に落下して軍議室に入り込み破裂・爆発、居合わせた艦長・司令(Captain Josling)や次官司令(Commander Wilmot)などの士官が戦死した[1][2]。キューパー提督も艦長や指揮官などと居合わせたが難を逃れた。
この戦闘では暴発事故で不発が多い事が実戦で判明したためアームストロング砲はイギリス海軍から全ての注文をキャンセルされ、輸出制限も外されて海外へ輸出されるようになり、後に日本にも輸入される原因になったとされる[5]。なお、当時の事件を伝える新聞(1863年8月26日鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳)では[2]、イギリス艦隊側の負傷者氏名と傷の詳細や戦闘の様子が掲載され、戦死者の詳細な負傷状況などからも臼砲弾などの着弾爆発による被害を物語っているなど、この新聞記事(従軍記者の記述)ではアームストロング砲の暴発事故については一切触れられていない。また、旗艦ユーライアラスには薩摩側の臼砲弾などが数発命中し、それらの破裂弾により艦隊全体の死傷者数の4割以上を一つの艦で占めるなど、ユーライアラスでの死傷者は31名に及んでおり[2]、その詳細な状況から砲の暴発があったとしても、被害は限られた範囲の事象と推定できる[6]。
午後5時過ぎ、イギリス艦隊は砲撃をやめ、桜島横山村・小池村沖に戻って停泊した。7月3日(8月16日)、旗艦艦長や次官司令などの戦死者を錦江湾で水葬にする。艦隊は戦列を立て直し、市街地と両岸の台場を砲撃して市街地および島津屋敷を延焼させた。また、砲撃により第11台場および突出台場(Battery Point)の火薬庫が爆発して、突出台場より反撃があったが、その後台場よりの反撃は収まり、沖小島台場からの砲撃に応戦しながら湾内を南下、谷山沖に停泊し艦の修復を行う。薩摩藩により沖小島と桜島の間付近に集成館で製造した水中爆弾3基(地上より遠隔操作)を仕掛けて待ち伏せしていたが、イギリス艦隊は近寄らず失敗した。 7月4日(8月17日)、艦隊は弾薬や石炭燃料の消耗や多数の死傷者を出し、薩摩を撤退した。その中の一艦は艦隊からとも綱を外し、損壊も甚だしく、小根占の洋上に停泊して修理を行っていたが、この艦を7月6日(8月19日)夜に他の艦が来て曳航して行った。[1]。7月11日(8月24日)、艦隊は横浜に帰着。
戦闘の結果
薩摩藩の砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦ユーライアラスの艦長や次官司令の戦死を含む死者13人、負傷者50人)に及んだ。 一方、薩摩藩側の人的損害は什長の調所清太郎、他に7人が死亡、老臣の川上龍衛が負傷した[1]。物的損害は台場の大砲8門、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻が焼失と軍事的な施設以外への被害は甚大であった。
朝廷は薩摩藩の攘夷実行を称えて薩摩藩に褒賞を下した。横浜に帰ったイギリス艦隊内では、戦闘を中止して撤退したことへの不満が兵士の間で募っていた。
当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退した結果となったのは西洋には驚きであり、当時のニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう」とも評している。[7]
本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。
イギリス艦艇一覧
1863年8月15日、鹿児島攻撃時の戦闘隊列でのイギリス艦隊を一覧で表す。死傷者の無かったハボック(Havock)は単独で琉球船(LoochooI. Junks)5隻を襲う。
艦名 | 艦種 | 建造年 | トン数 | 乗員 | 出力 | 備砲 | 死傷者[2] |
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ユーライアス Euryalus |
フリゲート 蒸気スクリュー |
1853年 (改造) |
積載量2371トン(bmトン) 排水量3125英トン |
540 | 400NHP | 110ポンドアームストロング砲x5 40ポンドアームストロング砲x8 その他22門 鹿児島砲撃時にカロネード砲x16を追加 |
戦死10名 負傷21名 |
パール Pearl |
コルベット 蒸気スクリュー |
1855年 | 積載量1469トン(bmトン) 排水量2187英トン |
400 | 400NHP | 68ポンド砲x1 10インチ砲x20 |
負傷7名 |
コケット Coquette |
砲艦 蒸気スクリュー |
1855年 | 積載量677トン(bmトン) | 90 | 200NHP | 110ポンドアームストロング砲x1 10インチ砲x1 32ポンド砲x1 20ポンド砲x2 |
戦死2名 負傷4名 |
アーガス Argus |
スループ 蒸気外輪 |
1852年 | 積載量981トン(bmトン) 排水量1630英トン |
175 | 300NHP | 110ポンドアームストロング砲x1 10インチ砲x1 32ポンド砲x4 |
負傷6名 |
パーシュース Perseus |
スループ 蒸気スクリュー |
1861年 | 積載量955トン(bmトン) 排水量1365英トン |
175 | 200NHP | 40ポンドアームストロング砲x5 32ポンド砲x12 |
戦死1名 負傷9名 |
レースホース Racehorse |
砲艦 蒸気スクリュー |
1860年 | 積載量695トン(bmトン) 排水量877英トン |
90 | 200NHP | 110ポンドアームストロング砲x1 10インチ砲x1 32ポンド砲x1 20ポンド砲x2 |
負傷3名 |
ハボック Havock |
ガンボート 蒸気スクリュー |
1856年 | 積載量232トン(bmトン) | 37 | 60NHP | 68ポンド砲x2 | なし |
戦争の処理
10月5日(11月15日) - 幕府と薩摩藩支藩佐土原藩の仲介により代理公使ニールと薩摩藩の重野安繹らが横浜のイギリス大使館で講和。薩摩藩は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払ったが、これを幕府に返さなかった。また、講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されず。
英側は、講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、関係を深めていく(2年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩士と個人的な関係を築く)。薩摩藩側も、欧米文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていった。
備考
生麦事件発生以前にも2度にわたるイギリス公使館襲撃(東禅寺事件)などでイギリス国内の対日感情が悪化している最中での生麦事件の発生にジョン・ラッセル外相(後の首相)は激怒し、ニール代理公使及び当時艦隊を率いて横浜港に停泊していた東インド・極東艦隊司令官のジェームズ・ホープ中将に対して対抗措置を指示していた。実は2度目の東禅寺襲撃事件の直後からニールとホープは連絡を取り合い、更なる外国人襲撃が続いた場合には関門海峡・大坂湾・江戸湾などを艦隊で封鎖して日本商船の廻船航路を封鎖する制裁措置を検討していた。当時、日本には砲台は存在していたが、それらの射程距離は外国艦隊の艦砲射撃の射程距離よりも遙かに短く、ホープはそれらの砲台さえ無力化できれば巨大な軍艦の無い江戸幕府や諸藩にはもはや封鎖を解くことは不可能であると考えていた。
実際に文久2年11月20日(1863年1月9日)にヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で対日海上封鎖を含めた武力制裁に関する勅令が可決されている。だが、ニールもホープもこの海上封鎖作戦を最後の手段であると考えていた。ニールは、ホープに代わって東インド・極東艦隊司令官となったキューパー少将を横浜に呼び寄せ、文久3年2月4日(3月22日)、幕府に生麦事件と東禅寺事件の賠償問題(合計11万ポンド)について最後通牒を突きつけたが、この際に日本を海上封鎖する可能性をわざわざ仄めかしている。
江戸幕府は、フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールに英国との仲介を依頼し、文久3年5月9日(6月24日)にニールと江戸幕府代表の小笠原長行との間で賠償交渉がまとまった。このため、ニールとキューパーは、日本に対する海上封鎖作戦を直前に中断した。幕府との交渉が決着したため、続いて実行犯である薩摩藩との交渉のため、ニールとキューパーは薩摩に向かったが、この時点では戦闘の可能性は低いと考えていた。
なお、ホープは海上封鎖を行っても賠償に応じない場合を想定して陸軍と協議して京都・大坂・江戸を占領する計画をも検討していたが、仮に占領可能であったとしても天皇や将軍が山岳部に逃げ込んでゲリラ戦に持ち込まれた場合は不利であると結論しており、事実上断念している。また、当時の英国に十分な数の陸兵を日本に派遣する余裕はなかった。実際ニールは横浜防衛のために2000人の陸兵派遣要請をしたが、それすらも拒否されている。
脚注
参考文献
- アジア歴史資料センターRef.A07060050900(国立公文書館)、鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳・全、1863年8月26日(文久3年7月13日)
- 石井孝著『明治維新と自由民権』(有隣堂、1993年) ISBN 4-89660-115-7
- 編者:日本史籍協会『島津久光公實記(二)』(財団法人 東京大学出版会、1997年)。ISBN-10: 4130978888
- 鵜飼政志著『幕末におけるイギリス海軍の対日政策ー日本における軍艦常駐体制成立の経緯ー』明治維新史学会編『明治維新と西洋国際社会』(吉川弘文館、1999年)、P92 - 115
- 鵜飼政志著『一八六三年前後におけるイギリス海軍の対日政策』学習院史学(学習院大学史学会)第37号、P40 - 58、1999年
- 萩原延壽著『旅立ち 遠い崖1 アーネスト・サトウ日記抄』 (朝日新聞社、2007年)。ISBN 978-4022615435
- 同『薩英戦争 遠い崖2 アーネスト・サトウ日記抄』 (朝日新聞社、2007年)。ISBN 978-4022615442
- 泉江三著『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦』下(グランプリ出版、2001年) ISBN 4-87687-222-8