こどもの国 (横浜市)
テンプレート:基礎情報 テーマパーク こどもの国(こどものくに)は、神奈川県横浜市青葉区奈良町(敷地の一部は東京都町田市三輪町)に所在する、社会福祉法人こどもの国協会が運営する総合的な児童厚生施設。
概要
戦時中は、旧・日本軍最大規模の弾薬組み立て・格納などを目的とした弾薬製造貯蔵施設(東京陸軍兵器補給廠・田奈部隊填薬所)であった。敗戦後は田奈弾薬庫として米軍に接収されるが、後に返還された。1959年の当時の皇太子(今上天皇)の成婚を記念して、主に、国費と雪印乳業など民間からの寄贈により施設跡地を整備し、1965年5月5日(こどもの日)に開園した。
シンボルマークは5色の風車と思われていることが多いが、これは、五輪旗にヒントを得て、おとぎの国の小人たちが歌ったり踊ったりしているところをイメージして、小人の三角帽子を組み合わせて図案化したもの[1]である。建設に際して、公募により決定された。
園内には多数の施設があり、自然の中での動物との触れ合いや、冒険、体験したり、作ってみるといった素朴な味わいの遊び体験を重視している。そのため園内には、基本的に観覧車やジェットコースターのような大型の電動の遊具はない。例外として、太陽光発電で動くミニSLや、足漕ぎのジェットコースター等が敷設されている。また、デイキャンプやマラソン大会など、周辺の学校の行事にも利用されている。
園名や開園日にちなみ、5月5日のこどもの日には中学生以下の入園料が無料となる。
なお、園内へのアルコール類の持ち込みは禁止されている。
沿革
- 1960年(昭和35年):着工。
- 1961年(昭和36年)5月5日:旧日本軍田奈弾薬庫(アメリカ第八軍司令部火薬廠)が米軍より返還され、横浜市が維持管理を委託される。
- 1962年(昭和37年)9月:建設資金の募集と建設協力の為、財団法人こどもの国建設協会が設立される。
- 1962年(昭和37年):起工式。
- 1965年(昭和40年)5月5日:田奈弾薬庫跡地に「こどもの国」が開園し、開園式に皇太子明仁親王・皇太子妃美智子が巡幸啓された。
- 1966年(昭和41年)7月20日:「こどもの国協会法」が公布施行される。
- 1966年(昭和41年)11月1日:特殊法人こどもの国協会が設立される。
- 1967年(昭和42年)4月28日:弾薬庫への引込線跡を利用し、来園客の輸送を目的として、長津田駅とこどもの国駅を結ぶこどもの国線が開業。
- 1968年(昭和43年)6月:浩宮徳仁(現皇太子)親王が学習院初等科2年の遠足でこどもの国に来園。付き添いで、皇太子妃美智子も礼宮文仁(現:秋篠宮)親王を伴い行啓。
- 1972年(昭和47年):皇太子記念館[2]完成。
- 1981年(昭和56年):運営が社会福祉法人こどもの国協会に移管され、特殊法人こどもの国協会は解散[3]。
- 1985年(昭和60年)5月6日:開園20周年記念式典に皇太子同妃美智子が紀宮清子内親王を伴い行啓。当日、営団地下鉄と東急電鉄はお三方のため、青山一丁目駅~こどもの国駅間に特別編成の「御乗用電車」を往復運転。(往路は鷺沼で一旦乗り換え、更に長津田からは一般乗客も乗車)
- 1997年(平成9年)8月1日:こどもの国線の第3種鉄道事業免許を、社会福祉法人こどもの国協会から横浜高速鉄道に譲渡。
- 周辺地域の宅地開発の進展に伴い、来園客輸送路線であったこどもの国線の通勤線への転換に際し、通勤線化した同線を保有することは社会福祉法人としての目的から逸脱する虞れがあったため。
- 2005年(平成17年):開園40周年を迎え、これを記念するイベントが行われた。また、6月9日には今上天皇と皇后美智子がこどもの国を行幸啓された。
- 2009年(平成21年):今上天皇・皇后美智子が行幸啓され[4]、陛下の成婚50年のため皇太子徳仁親王・皇太子妃が巡幸啓、秋篠宮文仁親王・秋篠宮妃・眞子内親王・佳子内親王・悠仁親王がお成りされ、黒田慶樹・黒田清子も参加された[5]。
施設
約100ヘクタールの広大な敷地に、多摩丘陵の自然を生かした施設などがある。 園内の牧場で飼育している乳牛からとった牛乳を使って作ったソフトクリームと特別牛乳「サングリーン」がこどもの国の名物である。 牧場の運営はこどもの国協会が雪印乳業(現在の雪印メグミルク)に業務委託しており、同社の関係会社である株式会社雪印こどもの国牧場が行っている。
- 自然研修センター
団体での宿泊利用可。 - バーベキュー場
※ ここで購入した缶ビールをバーベキュー場内で飲むことは許されている(酒類の園内持ち込み及び場外での飲酒は禁止)。 - 白鳥湖
貸しボート・貸しいかだがある。 - つばきの森
資生堂が安達潮花のコレクションを買い取り寄贈。 - 皇太子記念館
客席数420席のホールで、音楽発表会や式典に使用されている。 - 遊具広場
ここを含む園内の遊具類は主に日本宝くじ協会が寄贈。 - 屋外プール・アイススケート場
二つの深いプールと四つの浅いプール、スライダー二種、水泳用25mプールを備え、冬には大屋根下の休憩スペースがスケート場として使用されている。 - ミルクプラント
牧場やミルクプラントは雪印乳業が寄贈。
- 温室
- 梅林
- 食堂
- つり橋
- 中央広場
- ポニー牧場
- テニスコート
- 野外ステージ
- こども遊牧場
- こども動物園
- 牛舎・緬羊舎
- 児童センター
- 総合グラウンド
- 少年サッカー場
- ディスクゴルフ
- キャンプ場・野外炊事場
- 自転車乗り場 (サイクリングコース)
弾薬庫遺構
1938年国家総動員法によりこの地を強制的に買収し工事を開始、1941年に旧陸軍の弾薬庫として本格的な使用が始まった。敗戦後は米軍に接収され米軍弾薬庫として引き続き利用された後、1961年に返還された。敷地内に弾薬庫は33か所あったといわれるが、終戦後「こどもの国」開園までにほとんどが埋められたりしており、現在確認できるのは10基のみである。これら遺構は、電気設備等の園内施設に転用されている。現在、旧弾薬庫の内部には原則として立ち入り禁止となっているが、開園記念行事などで一般公開されることもある。[6]
弾薬庫時代には、旧・日本国有鉄道(国鉄)横浜線長津田駅より引き込み線が引かれていた。園内のトンネルは鉄道に使われたとの説があるが当時学徒動員で弾薬庫に動員されていた旧制高等女学校の卒業生の話では園内のトンネルは鉄道に利用されていたのではなくトラック用の道路に利用されていたという。引き込み線の一部経路は東急こどもの国線として現在も利用されている。こどもの国線にはかつての軍用線の痕跡は、ほとんど残っていないが、線路脇にある道路敷地の境界石は旧帝国陸軍の物が多数残されている。また、引き込み線は現在の入口ゲート近くまで伸び、弾薬の積み下ろしのための駅があったといわれるが特に遺構はない。
1944年、学徒動員による移動の際にトラックごと川へ転落する事故があり、男子学生6名が亡くなった。 また、1945年にはゲート近くの広場で弾薬運搬中の爆発事故が起きた。この爆発事故では軍属6名が亡くなり、たまたま付近にいた学徒動員中の女学生1名も片足切断の重傷を負った[7]。
こどもの国付近にある住吉神社のそばには男子学生の同級生より慰霊碑が、また、入口ゲート付近には学徒動員された女学生らによって「平和の碑」が立てられている。
アクセス
自家用車や貸切バスでの来園者のために正門前駐車場と牧場付近の臨時駐車場があるが、休日(とくにゴールデンウィーク期間中など)は駐車場が混雑し周辺の道路も渋滞するため、できるだけ公共交通機関を利用することが推奨される。
鉄道
バス
こどもの国(小田急)、こどもの国入口(横浜市営・東急)停留所(どちらも正門付近にある。市営と東急は停留所を共用。)
こどもの国駅停留所(こどもの国駅前バスロータリーにある。)