野尻湖
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野尻湖(のじりこ)は、長野県上水内郡信濃町にある湖。古くは信濃尻湖(しなのじりこ)と呼ばれた。芙蓉湖(ふようこ)とも呼ばれる。ナウマンゾウ化石が出土する湖としても知られており、発掘調査が行われる。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。天然湖で、妙高高原、黒姫高原とともに上信越高原国立公園に指定されている。
目次
地理
東の斑尾山と西の黒姫山に挟まれた標高654メートルの高原に位置する。面積は4.56平方キロメートルで、長野県の天然湖としては諏訪湖に次いで2番目に大きい。水深は38.5メートルもあり、貯水量では諏訪湖を上回る。湖の水は池尻川を通じて流出し、関川へ合流して日本海に注ぐ。
成因には諸説が存在し、斑尾山の噴出物によってせき止められたという説と、黒姫山の噴火により発生した、池尻川泥流によりせき止められ、その後、湖の西側が隆起したと言う説がある[1][2]。
野尻湖という名称は、古く信濃尻湖と呼ばれたものが変化したものであり、また湖の形状から芙蓉湖という別名が付けられた。以下に『角川日本地名大辞典』より引用する[3]。
1933年(昭和8年)4月付の「史蹟名勝天然紀念物調査報告 第拾四輯」に収録されている「名勝野尻湖」の項(八木貞助著)には以下のようにあるので引用する[4]。
1937年(昭和12年)発行の『高日本風光』には芙蓉湖のほか蓮湖とも呼ばれるとあるので以下に引用する[5]。
また、『信濃町誌』では芙蓉の「葉」に由来するとあるので当該部分を引用する[6]。
なお、野尻湖の西には「野尻」という地名があるが、これは山に囲まれた野尻湖で唯一西側のみが開けており、そこからまず「沼尻」という地名が生まれ、やがて野尻に変化したとされる[7]。
利用
農業
笹ヶ峰ダム(乙見湖)とともに、関川下流域に広がる農地に灌漑する農業用水の水源として利用されている。
漁業
約80年前にはナマズ、ギギ、ドジョウ、フナ、タナゴ、コイ、ウグイ等15種類の生息が記録されている。地元漁協は遊漁などを目的としてワカサギ、ヒメマス、ヘラブナなどを放流している。1980年代後半にオオクチバス、1990年代にブルーギルとコクチバスが確認されている。特定外来生物のオオクチバス及びコクチバスは、長野県内水面漁場管理委員会指示により平成21年4月1日から3年間再放流禁止指示が解除されている[8]。
1900年代初頭には車軸藻類、ホシツリモ、コカナダモなど20数種類もの豊富な水草が確認されていた。1978年には増え過ぎた水草が船の航行や漁業の障害になるとして、水草除去を目的に5,000匹のソウギョが放流された。3年間で水草は食べ尽くされ、ホシツリモは全滅したが、同時にエビやフナ類も激減した。1996年に水草を復元をしようと長野県衛生公害研究所、野尻湖ナウマンゾウ博物館を中心に地元ボランティアが参加して活動を開始した[9]。ソウギョは野尻湖では自然繁殖しないが寿命が長く、水草の復元に対して大きな影響力を与え続けている。現在野尻湖に生息しているソウギョが放流当初の個体なのかは確認されていない。
水力発電
東北電力の水力発電所・池尻川発電所は、野尻湖の水を取り入れ、最大2,340キロワットの電力を発生したのち、関川に放流する。野尻湖に流入する水が少なくなる冬の間は、発電所の運転により野尻湖の水位が低下してしまう。野尻湖は関川下流域の農地を潤す水がめであるから、春先に関川を流れる豊富な雪解け水を発電所に設置されたポンプで野尻湖にくみ上げ、農業用水が必要となり始める時期を前に水位を回復させる。こうした運用ができる水力発電所を揚水発電所という。1932年(昭和7年)、東北電力の前身となった企業の一つ・中央電気の国友末蔵が、自身の経験(ヨーロッパを流れるライン川における水力発電所の視察)をもとに内務省からの助言を得つつ池尻川発電所建設計画を立案し、日本初の揚水発電所として1934年(昭和9年)に完成した。
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野尻湖に設けられた取水口
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池尻川発電所
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関川沿いに設けられた池尻川調整池
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野尻湖空撮[10]
- 20090621野尻湖広域.jpg
野尻湖広域空撮画像
- Kunitomo Suezo.JPG
国友末蔵(1953年)
観光
夏季にはマリンスポーツが盛ん。他方、寒冷地にあるにもかかわらず冬季でも結氷しない湖であり、冬季には「ドーム船」と呼ばれるストーブを備えた船で行うワカサギ釣りが楽しめる。湖畔の一部に日本三大外国人避暑地の1つに数えられる[[[:テンプレート:座標URL]]36_49_20.42_N_138_12_7.35_E_scale:10000 神山国際村]がある。
野尻湖観光汽船・野尻湖定期船会社によって3隻の遊覧船とレンタルボートが運営されており、これを利用することによって湖上に浮かぶ琵琶島を訪れることが出来る。同島には、宇賀神社と戦国武将の宇佐美定満のものとされる墓が存在する。
- Lake Nojiri Biwa Island.jpg
野尻湖に浮かぶ琵琶島
学術調査
この湖底遺跡は出土した石器の特徴から見て、中期石器時代の末に位置づけられ、堆積層を上部・中部・下部に分けると約50,000年前から3,3000年前までに形成されたと考えられている。
ナウマンゾウなどの発掘調査
1948年に地元住民が偶然ナウマンゾウの臼歯を発見(発見当初は、凸凹の形状から「湯たんぽの化石」と言っていた)したことにより、1962年から湖底や湖畔での発掘調査が始まった。発掘が行われるのは、野尻湖の西岸の立が鼻という岬付近の湖底とその周辺である。地名を取って「立が鼻遺跡」と呼ばれるキルサイト(狩猟した大型哺乳動物の解体場)の遺跡である。発掘調査は3年に一回3月に行われ、発電所の取水による湖水面の低下のため湖岸が沖合に後退する時期に合わせて、世界的にも珍しい「大衆発掘」という形態で行われている[11]。
発掘の歴史
1962年の70名が参加した第1次発掘では、ナウマンゾウとヤベオオツノジカの化石発掘により、3 - 5万年前の最後の氷河時代のものであることが確認された。1964年の第3次発掘では、旧石器の剥片が発見され、ナウマンゾウと人類の関係が問題となった。1973年の第5次発掘では、参加者が千人を超えた。ナウマンゾウの切歯とオオツノジカの掌状角をはじめ、ナイフ形石器、骨製基部加工剥片(ナイフ形骨器)などが発見され、ナウマンゾウと旧石器時代の人類が共存していたことが証明された。
2008年の第17次の発掘までに約22,800人が参加し、約67,000点の化石遺物が発見されており[12]、出土品のほとんどは湖畔の野尻湖ナウマンゾウ博物館に収蔵され、一部が展示されている。
発掘を組織しているのは、野尻湖発掘調査団(本部は野尻湖ナウマンゾウ博物館)で、民間の学術団体である。 全国23カ所に、発掘の参加者を募集し、そのための学習を行う「野尻湖友の会」という組織が作られ、老若男女誰でも友の会の会員になれば発掘に参加できる。発掘の運営は、参加者の参加費によって賄われている。
1997年12月、長野県信濃町の野尻湖発掘調査団は、同年3月の第13次発掘調査で約4万年前の中期旧石器時代の地層から発見された「木葉型尖頭器(もくようがたせんとうき)」が偽物だったと公表した。調査の結果、95年夏、近くの別の遺跡で発掘直後に盗まれたものだったと判明した。 調査団長の酒井潤一・信州大教授らは、再発防止策を2年半かけて検討した。その結果、2000年3月の第14次発掘調査から『確かめ掘り』を採用した。遺物を掘り当てた時点で作業を止め、周辺の地層を複数の人間が入念に調査し、地層と遺物の関係を現場で確認する。 偽物を見抜けなかった責任を取り、酒井教授は再発防止の道筋がついた1999年11月、団長を辞任した。
考古遺物
この遺跡からは、珍しく人類遺物と動物遺体が同一層中から出土している。多くの小型の削片石器が主体のナイフ形石器、ナウマンゾウの象牙を加工したビーナスの骨器、ナウマンゾウやヤベオオツノシカの化石などが出土した。これらの大型哺乳動物が人類によって狩猟の対象にされた可能性が指摘されている。この外に、ニホンジカ、イノシシ、アナグマ、ノウサギなどの中・小型の哺乳動物の化石も発見されている。また、遺跡やその周辺から検出されたマツ科のチョウセンゴヨウの花粉及び植物遺体は旧石器人の植物食料源となったと推測されており、オニグルミ、ツノハシバミも出土している[13]。
その他、ナウマンゾウの足跡や貝のもぐり跡などの生痕化石と思われるものも見つかっている。また、地層中の珪藻、花粉の微化石を採取したり古地磁気を測定するための湖底堆積物のサンプリングや火山灰の分析などを通して、年代測定や古環境の研究も行われた。これらのことからも、今から約4万年前の旧石器時代に、野尻湖の周辺には人が住んでおり、大型哺乳類の狩猟をしていたとみられていることが判明した。
湖底堆積物
地球環境的な観点から重要な研究対象で、周辺で大きな工業活動がされていない為人間の活動の影響が少ないと考えられるほか、大きな流入河川が無く数万年間の気候変動と、周辺環境の変化を湖底に堆積物として残しているため多くの研究がされている。 その主な成果として、
- 野尻湖の湖面水位変動は過去4.5万年間で8回の大きな変動があり+5mから-30mの変動幅で、地球規模の気候変動に対応しており、寒冷期には周辺降雪量が増加するため水位上昇していたこと考えられている[14]。
- 湖底の泥の分析により、人口密集域に近い湖底ほど、銅、鉛、亜鉛などの濃度が高く離れるほど濃度が低くなる。つまり、野尻湖に於いても人間の経済活動による影響が大きいことを示した。
交通アクセス
- JR信越本線の黒姫駅から長電バス(信濃町新交通バス)による路線バスとアルピコ交通(川中島バス)による特急バスが運行されている。
脚注
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編著『角川地名大辞典 20 長野県』角川書店、1990年。
- 信濃町誌編纂委員会編集『信濃町誌』信濃町、1968年12月25日。
- 長野県文化財保護協会復刻『長野県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第四巻』長野県文化財保護協会、1974年11月20日。
- 曽武川政雄編、東北電力株式会社高田営業所監修『ながれ 上越地方電気事業のあゆみ』電友会上越連合会、1982年。
- 藤原鎌兄著『高日本風光』高日本社、1937年8月14日。
関連項目
外部リンク
- (湖底堆積物)
- 野尻湖湖底堆積物に記録された千年規模の高分解能湖水面変動史
- テンプレート:PDFlink
- 野尻湖湖底堆積物の古生態学的研究
- 野尻湖底堆積物の有機炭素・窒素含有率から見た完新世後半の気候変動
- 野尻湖地質グループ に関する なかよし論文データベース