戸沢村
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テンプレート:Infobox 戸沢村(とざわむら)は、山形県の北部にある人口約6千人の村。 日本における国民健康保険発祥の地である。
目次
地理
村の西側は出羽山地、東側は新庄盆地で、村の中央を最上川が西進する。最上川に沿って、国道47号と陸羽西線が走っており、西に庄内町、東に新庄市がある。
歴史
戸沢村は、最上川とともにあった村であった。
戸沢村が最初に歴史に登場するのは、延喜式の兵部省「諸国駅伝馬条」である。多賀城から庄内地方を経由して日本海沿岸を秋田城へ向かう官道に、「佐藝(さぎ)駅 駅馬四疋、船十隻」の記述が出てくる。この駅亭は水駅と思われ、現在の津谷地内の最上川と鮭川の合流地点付近にあったと推定されている。(鮭川村真木新田という説もある)
古くから庄内地方と最上地方を結ぶ水運の要であったが、俳人松尾芭蕉が『板敷山』と称した、最上峡の厳しい地形にさえぎられ、道路の開削はできなかった。江戸時代には、現在の村の中心である古口集落に新庄藩の船番所が置かれ、舟の往来の監視を行っていた。明治時代に、難工事の末に「磐根街道」(現国道47号)と呼ばれる道路が開削され、大正時代に陸羽西線が開通し、舟運の歴史に幕を閉じた。現在は、川下りでは日本最大の規模である「最上川舟下り」を中心に、草薙温泉、道の駅とざわなどの観光業が中心の村である。
沿革
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、最上郡のうち後の本村域に下記の2村が発足。
- 戸沢村(第1次) ← 岩清水村、名高村、津谷村、神田村、松坂村
- 古口村 ← 古口町村、蔵岡村、角川村
- 1892年(明治25年)7月8日 - 古口村の一部(大字角川)が分立して角川村が発足。
- 1955年(昭和30年)
- 4月1日 - 古口村・戸沢村(第1次)・角川村が合併し、改めて古口村が発足。
- 5月1日 - 古口村が改称して戸沢村(第2次)となる。
行政
経済
産業
郵便局
- 古口郵便局(集配局)
- 戸沢郵便局
- 角川郵便局
- 神田簡易郵便局
金融機関
姉妹都市・提携都市
- 国内
- 海外
地域
人口
教育
交通
周辺の空港
鉄道路線
バス路線
道路
観光ほか
- 温泉
- 道の駅
- 最上川舟下り
その他
- かつて、高屋駅に隣接して国設最上川スキー場があったが、閉鎖された。2006年(平成18年)からこのスキー場を自然に復帰させる事業が行われる。
- 昭和時代に野口集落で油田の掘削を行ったことがあった。温泉と原油の混合物が噴出したが、油田はすぐに枯渇。噴出した温泉を使って日帰り温泉施設「ぽんぽ館」が作られた。
- 村の中心部と村西部の高屋・草薙集落との間は最上峡にさえぎられ、電柱が敷設されていない。そのため、村西部へは庄内地方から電気が供給され、電話回線も庄内地方と繋がっているため、最上地方では唯一酒田市・飽海郡の市外局番である。村の中心部に電話をかけるときには、同じ村内にもかかわらず市外局番から押さなければならない。
- 山形放送ラジオで「精密同一周波数放送実用化試験局」を運用していた頃、山形送信局と鶴岡中継局の中間地点に当たる古口集落で、聴取レベルが均衡になるように調整が行われた。
- 戦前の大凶作の時代に、日本で初めて「健康保険」のシステムを整えた自治体である。この保険は、共助の精神により、村民の出資で行われたものであり、現金収入の無い人は農作物や山菜を供出することもできた。
- 同村の教育政策はとても独特なものであり、「村民が皆共に育てる」と言う意味で役場には「共育課」という部署が創設された。
- 近年の嫁不足問題解消のため、村を挙げて韓国からの花嫁としての来村を募って成功した村であり、韓国からの花嫁が道の駅とざわにてキムチソフトクリームなどを提供している。しかし、この動きを事実上の韓国人による日本の乗っ取りだとして非難する声も少なからず存在する[2]。
関連項目
脚注
外部リンク
テンプレート:Navbox- ↑ 税について - 戸沢村
- ↑ 韓国人の割合が高くなりすぎてそのまま乗っ取られた村 山形県 戸沢村 http://www.asyura2.com/09/ishihara13/msg/514.html 2014年3月12日閲覧