洞爺丸台風
テンプレート:台風 (画像なし) 洞爺丸台風(とうやまるたいふう、昭和29年台風第15号、国際名:マリー〔Marie〕)は、1954年(昭和29年)9月26日に来襲した台風である。
解説
この台風は九州地方、中国地方を上陸通過し、日本海へ抜けた後に更に発達しながら北上し、函館港沖では洞爺丸事故を、岩内町では3,300戸を焼失させる大火を引き起こすなど、北海道を中心に多数の犠牲者を出した台風である。
豪雨による水害をほとんど起こさなかった反面、強風による被害を大量にもたらした、いわゆる「風台風」であった。
1954年の15番目に発生した台風という意味で、普通は台風第15号と呼ばれるが、1954年は台風第2号と台風第10号が後の調査(事後解析)で台風勢力に達していなかったとされて台風のリストから外されているため、実際は13番目の台風である。
概要
台風第15号は、9月18日にカロリン諸島付近で熱帯低気圧として発生し、21日には台風となったが、すぐに勢力が衰えた。しかし23日には台風に復活、23日9時には中心気圧992ミリバール、24日9時990ミリバール、25日9時には975ミリバールと次第に発達しながら台湾の南東海上で転向、急激に加速しながら北東に進み、9月26日未明に鹿児島県大隅半島に上陸、このときの勢力は中心気圧965ミリバール、最大風速40メートルであった。台風は時速75キロから80キロで九州を斜走し、朝には中国地方から日本海に出て時速100キロの高速で北東から北北東に進んだ。
台風15号は上陸しても勢力を保ち続け、日本海北上中は逆に発達した。
9月26日9時には964ミリバール、15時には960ミリバール、北海道西岸に達した21時には956ミリバールとなっている。その後、北海道からオホーツク海を進み、9月28日9時にカムチャツカ半島付近で温帯低気圧に変わった。なお、その後の研究で台風は日本海で再発達している上、時速100キロという異常な高速度で日本海を北上していることから、台風は九州に上陸した頃からすでに温帯低気圧に性質を変えていたと考えられている。
台風第15号は、北海道に接近した頃に最盛期を迎え、同時に一時的に速度を時速40キロ以下に落としたため、北海道を中心とする北日本では猛烈な暴風による被害が大きかった。すなわち、最大風速は寿都で42.0メートル(最大瞬間風速53.2メートル)、室蘭で37.2メートル(55.0メートル)、留萌で35.2メートル(45.8メートル)に達したほか、各地で30メートル以上となった。
そのため家屋の全半壊や倒木などの風害が顕著だった。岩内町では火鉢の飛び火が原因による大火で、3000戸あまりが焼失。森林が受けた風害はすさまじく、支笏湖周辺などでは全山の大木が根こそぎ倒された。かつてはほぼ全土が原生林に覆われていた北海道だが、明治以来の開拓と木材生産、そしてこの台風により、かつての威容は失われたと言われるほどである。また、青函連絡船洞爺丸の遭難では1,139名の犠牲者が出た。これは1912年の北大西洋における「タイタニック号」、1865年のミシシッピ川での「サルタナ号」の事故に次ぎ、戦争による爆撃を除けば世界海難史上3番目の規模であった。洞爺丸以外にも青函連絡船の4隻が沈没し、多数の犠牲者を出しているほか、台風が通過した西日本でも大きな被害が出ている。
気象庁は、1958年9月26日に東日本に上陸して伊豆半島狩野川流域に大水害を起こした台風第22号を、同年11月に「狩野川台風」と命名し、同時に1954年の台風第15号も、さかのぼって「洞爺丸台風」と命名した。
被害状況
- 死者・行方不明 - 1,761名
- 住家の全・半壊・流出 - 207,542戸
- 住家の床上・下浸水 - 103,533戸
- 耕地被害 - 82,963ha
- 船舶被害 - 5,581隻
- 岩内町では3,300戸焼失