「生類憐れみの令」の版間の差分
(→歴史上での生類保護政策) |
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2014年8月4日 (月) 16:03時点における最新版
テンプレート:独自研究テンプレート:出典の明記テンプレート:Amboxテンプレート:DMCA 生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい、生類憐令)は江戸時代の元禄期に出された多数のお触れ(法令)のことである。
概要
「生類憐みの令」は、そのような名前の成文法として存在するものではなく、複数のお触れを総称してこのように呼ぶ。「犬」が対象とされていたかのように思われているが、実際には犬だけではなく、猫や鳥、魚類・貝類・虫類などの生き物、さらには人間の幼児や老人にまで及んだ。ただ、綱吉が丙戌年生まれの為、特に犬が保護されたとも一般には言われている。
また、やむなく殺傷した場合においても適用されたため「苛烈な悪法」「天下の悪法」として人々に認識されている。
江戸幕府第5代将軍徳川綱吉は、貞享4年(1687年)殺生を禁止する法令を制定した。生類憐みの令が出された理由について従来、徳川綱吉が跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで出したとされる[1]。生類憐みの令が出された理由については、他に長寿祈祷のためという説もあった。
当初は「殺生を慎め」という意味があっただけのいわば精神論的法令であったのだが、違反者が減らないため、ついには御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて、犬への虐待が取り締まられ、元禄9年(1696年)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。このため単なる精神論を越えた監視社会と化してしまい、その結果、「悪法」として一般民衆からは幕府への不満が高まったものと見られている。
地方では、生類憐みの令の運用はそれほど厳重ではなかったようである。『鸚鵡籠中記』を書いた尾張藩士の朝日重章は魚釣りや投網打を好み、綱吉の死とともに禁令が消滅するまでの間だけでも、禁を犯して76回も漁場へ通いつめ、「殺生」を重ねていた。大っぴらにさえしなければ、魚釣りぐらいの自由はあったらしい[2]。また、長崎では、もともと豚や鶏などを料理に使うことが多く、生類憐みの令はなかなか徹底しなかったようである。長崎町年寄は、元禄5年(1692年)および元禄7年(1694年)に、長崎では殺生禁止が徹底していないので今後は下々の者に至るまで遵守せよ、という内容の通達を出しているが、その通達の中でも、長崎にいる唐人とオランダ人については例外として豚や鶏などを食すことを認めていた[3]。
また、厳罰説を正しいと仮定した上での弁護論もある。生類憐みの令は処罰された側から見ると悪法に見えるが、当時、まだ戦国時代の「人を殺して出世する(賃金を得る)」がごとき風習が未だ根強く、病人や牛馬などを山野に捨てる風習や、宿で旅人が病気になると追い出されるなどの悪習などを改めるための法律であったと考えれば、厳罰を以って処すことの是非を軽々しく評価はできない。また、捨て子や口減らし禁止とその保護も生類憐みの令には含まれていた。
綱吉の死後、宝永6年(1709年)早速犬小屋の廃止の方針などが公布され、犬や食用、ペットなどに関する多くの規制が順次廃止された(ただし牛馬の遺棄の禁止、捨て子や病人の保護などは継続した)。
年表
先述の通り生類憐れみの令は複数のお触れに及ぶが、その流れは以下の通り。
- 貞享4年(1687年)2月27日:魚鳥類を生きたまま食用として売ることを禁止(鶏と亀と貝類も含む)
- 貞享4年(1687年)4月9日:病気の馬遺棄者が遠流に処される(武蔵国村民10人)
- 貞享4年(1687年)4月30日:持筒頭下役人が鳩に投石したため遠慮処分
- 貞享4年(1687年)6月26日:旗本の秋田采女季品(中奥小姓秋田淡路守季久の嫡男)が吹矢で燕を撃ったため、代理として同家家臣多々越甚大夫が死罪
- 元禄元年(1688年)2月1日:屋号の鶴屋および鶴の紋は禁止される
- 元禄元年(1688年)5月29日:旗本大類久高が法令違反を理由に処罰される
- 元禄元年(1688年)10月3日:鳥が巣を作った木を切り、武蔵国新羽村の村民が処罰される
- 元禄2年(1689年)2月27日:病馬を捨てたとして陪臣14名・農民25名が神津島へ流罪
- 元禄2年(1689年)10月4日:評定所の前で犬が争い、死んだため旗本坂井政直が閉門
- 元禄4年(1691年)10月24日:犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止
- 元禄8年(1695年)5月23日:大久保・四谷に犬小屋が作られる。住民は強制的に立ち退き
- 元禄8年(1695年)10月16日:法令違反として大阪与力はじめ11人が切腹。子は流罪
- 元禄9年(1696年)8月6日:犬殺しを密告した者に賞金30両と布告。
- 元禄13年(1700年):鰻、ドジョウの売買禁止
歴史上での生類保護政策
5世紀頃の中国では、大乗仏教の偽経『梵網経』の第3に食肉戒より、動物の命を絶つことを理由に、肉食を完全に禁止している。また、中国、宋代、徽宗は、1102年、犬肉食禁止令を出した。
7世紀後半から8世紀にかけての律令体制下での日本では、安定した税収の確保を目的とした稲作の促進の為に、牛馬など稲作の労働力となる動物の肉食が稲作の妨げと見なされ、これらの肉食の制限もしくは禁止を目的とした法令が散見される。
- 『日本書紀』(675年、691年)・・・ただし、675年の法令は、稲作の期間に当たる4月から9月までのウシ・ウマ・イヌ・サル・ニワトリの肉食を禁じたものであり、稲作の害獣と見なされたシカとイノシシの肉食は禁止されてはいない。
- 『続日本紀』(732年から794年の計11回)
日本と同じく大乗仏教の影響が強かった朝鮮半島においても、高麗時代まで同様の法令が発布されている。