松竹芸能

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松竹芸能株式会社(しょうちくげいのう)は、大阪府大阪市中央区道頓堀に本社を置く芸能事務所松竹連結子会社である。吉本興業と並び、上方演芸界の二大プロダクションのひとつ。

沿革

1958年大阪歌舞伎座の地階にあった歌舞伎地下演芸場に芸人を配給していた新生プロダクション[1]と上方演芸[2]が合併。新たに松竹の資本参加を得て、前身会社である松竹新演芸が設立される。

以降、道頓堀角座(演芸の角座)を中心に、神戸松竹座新世界新花月に芸人を配給し、隆盛を極めるが、1980年前半に起こった「漫才ブーム」以降は吉本興業直営の花月劇場チェーンに観客を奪われ、1984年に角座は3年間にわたり閉鎖される。このことが発表された時、今は亡き6代目笑福亭松鶴がテレビで『その3年間、私ら芸人はどこに出ればいいんですか。代替の席も用意せずに閉館するなんて無茶だ』と訴えたことがある。その際彼の後ろに松竹芸能所属の芸人たちが居並んでいたことから、この時多くの所属芸人が同様の不満を持っていたと推測される。実際この間に松竹芸能を離脱した芸人もおり、契約で角座に出演していた他の事務所の所属芸人たちも軒並み吉本に流れ、未だに松竹芸能の興行には戻ってきていない。

角座閉鎖後、松竹は1987年1月に同じ道頓堀の映画館・浪花座の一部を演芸場に改装して「演芸の浪花座」を開場し、松竹芸能所属芸人の本拠地としたが、遠のいた客足を取り戻すことはできず、浪花座は2002年1月に閉館した。因みにこの浪花座閉館の際、サンケイスポーツ大阪本社版での「浪花座閉館」を報じた記事の中で正司敏江は、「角座(ビル)に映画館が2つあるから、どちらかを演芸場にできんやろか」という、「私案」とも言うべき興味深いコメントを残している。

2002年4月、道頓堀のパチンコ店「四海樓道頓堀店」4階の小ホール・「ミナミのど真ん中ホール」を間借りし、演芸興行を再開する。このホールは、パチンコ店の4階にあるというだけでなく、3階で券をもぎり、すぐに階段を上り、屋上を通過してホールへ入るという、まるで隠し部屋のような場所だった。

この「ミナミのど真ん中ホール」での興行から、若手芸人が中心となった日替わりのお笑いライブ「ナイトイベント」を新たに導入、昼は「とんぼり一番館」と銘打った従来からの寄席興行、夜は若手芸人によるライブという2部構成で、演芸興行を行うようになった。この「寄席」と「お笑いライブ」の『二部構成』というスタイルは、後述の「B1角座」以降にも継承されている。なお「とんぼり一番館」という名称は、「ミナミのど真ん中ホール」での興行を終えた2003年12月まで使われた。

「ミナミのど真ん中ホール」は、奇しくもますだおかだアメリカザリガニの人気が急上昇し始めた頃と重なり、大盛況となる。とりわけ場数を踏む機会が限られていた松竹芸能の若手芸人にとって、「ミナミのど真ん中ホール」は良い刺激や成長できる場所となった。それまでは月に1回程度のごく小規模な場でしか、ネタを披露する機会を与えられていなかったが、このホールにより松竹芸能の若手によるライブの回数は格段に増えていった。

2004年1月、道頓堀角座跡に建てられた角座ビル地下1階の居酒屋跡を松竹から賃借して「ライブスペースB1角座」を開設し、新たな常打小屋を確保。同時に劇場の運営を松竹芸能が直接行うことで、従前の間借り状態の劇場では制約があって難しかったオールナイトライブなど、より柔軟な形でのイベントの開催が可能となった。

2004年には、安倍彰が社長に就任している(2011年5月に副会長、その後、2012年4月に会長に異動となった)。

2006年には設立50周年を記念したロゴマークを作成し、制作を担当しているテレビ番組のエンドロールの社名の前に記している。なお、50周年というのは前述の上方演芸の設立年から数えたもので、松竹新演芸の設立から数えると同年で48年目である。また2008年には松竹新演芸の設立から数えると同年で50周年を機に社名の書体を宋朝体に改めた。

2007年1月に角座ビル3階に入っている映画館を閉館して改修し、現在の3倍の350席を確保して、角座を復活させると発表。新角座では演芸だけでなく、演劇など様々なプログラムを提供するとしていた。しかし、4月19日に防音面など構造上の問題が見つかり、改修費が当初の見込みから大幅に増えることが判明したとして、計画の白紙撤回を発表した。この一件は松竹芸能の甘い状況判断によって起きた事件だったことから、所属芸人の一部から不満の声も漏れた。 新角座のこけら落としで予定されていた桂春菜(2代目桂春蝶の息子)の3代目桂春蝶襲名披露公演は翌春以降に延期された(2007年5月11日付の京都新聞のインタビュー記事では、春菜が松竹芸能への不信感から独自に襲名披露公演を行うことが書かれていた。なお、実際に春菜改め3代目春蝶は、襲名から1年強経過した2011年春に松竹芸能との契約を打ち切った)。

演芸興行については、2008年7月5日より通天閣の真下にある「STUDIO210」にて、「通天閣劇場 TENGEKI」と称した興行を再開させている。「STUDIO210」(旧称「通天閣歌謡劇場」)は通天閣観光の運営するホールであり、松竹芸能はホール運営には携わっておらず、「TENGEKI」の開催は土・日のみで「B1角座」の時より縮小となる。これに先立って、2008年5月を最後に、角座ビルの建物施設の老朽化を原因に「B1角座」の閉館が発表され、本ビルの3階部分を改修しての新角座計画が、改めて甘い状況判断であった事を浮き彫りとした。同年5月31日をもって正式に「B1角座」は閉鎖、跡地は松竹の手により売却された。

2007年1月1日付から所属タレントの非喫煙者かつ嫌煙家の増加により、松竹芸能事務所内の全面禁煙(喫煙エリアおよび喫煙ルームの廃止)を導入した。

2011年5月14日に、同社の東京での初の劇場として、新宿区の元・小劇場「THEATER/TOPS」跡に、「松竹芸能 新宿角座」をオープンし、「角座」の名跡を復活させた[3][4]。さらに、道頓堀角座の敷地を買収したケンズネットワークスより賃借する形で、2013年夏に『松竹芸能 DAIHATSU MOVE 道頓堀角座』を開場、松竹芸能本社も同所に移転する。

特徴

多角な経営

「沿革」の項にて述べた特徴以外には、三波春夫のマネジメントを皮切りに、演芸以外にも幅広く展開。「ザ・ハングマン」等のテレビドラマを制作する傍ら、ジャニーズ事務所関西公演の勧進元にもなり、俳優陣やリポーター、モデル、タレントも数多く抱える。また、新世界・通天閣地下の「STUDIO210」にて行う歌謡ショー・「通天閣歌謡劇場」の運営も行う。その他、サンドウィッチマンとマネージャーが設立したグレープカンパニーの営業の窓口は松竹芸能が行っていることがナカイの窓にてサンドウィッチマンの伊達みきお口から語られた。

名物社員

松竹芸能取締役・東京支社長で松嶋尚美マネージャーも兼務していたコズモ難波こと難波規精(コズモ難波という名前は、同志社大学・プロレス同好会時代のリングネームである)は、よゐこのいずれかをプロレス技で激励するという役割で「めちゃ×2イケてるッ!」に登場する名物社員(難波は、若手時代によゐこのマネージャーをしていた時期もある)であったが、2007年に松竹芸能を退社し、松嶋尚美の個人事務所「ステッカー」の社長となった。しかし、松竹芸能との関係は引き続き継続している。

タレント養成所

吉本興業に先駆け1968年に即戦力の新人タレントを発掘、供給することを目的として養成所が設立される。基本的にはお笑い芸人にこだわらない方針で、部門別で分かれており子役なども扱っている。2008年には、松竹芸能タレントスクールへと名称変更している。

コンプライアンスと企業倫理に関して

松竹芸能はコンプライアンス企業倫理を行っていると宣伝している。その通り、所属芸人・タレント・社員による批判に対しては容赦なく徹底して許さない方針も創業当時から貫いており、芸人・タレントが事務所に纏わる自虐ネタを使うことも禁じていた。 しかし、逆に、所属芸人・タレント・社員などから社外の人間に対しては「厳格」とは程遠く徹底されておらず、その利己的な姿勢が昨今問題提起されている。客への中傷や客の情報漏えいなどもまるで守られていないことが現状である。

勝忠男の社長在任時には特に顕著に見られ、会社の方針に従わない芸人とタレントが悉く専属マネジメント契約の解除という形で追放。

多額の借金を抱え破産をした藤山寛美に契約解除の通告を行った事や、嘉門達夫笑福亭鶴光の門下時代、鶴光と仕事観を巡って対立し鶴光および松竹芸能に反旗を翻した為、嘉門に対して鶴光一門から破門と契約解除の決断を下した事や、父である6代目笑福亭松鶴の一周忌記念落語会を無断欠席した5代目笑福亭枝鶴との契約をも切った事など、専属タレントの契約解除に関するエピソードには枚挙に暇が無い。

また、社員や契約解除された芸人・タレントが、その経緯及び詳細を語ることも禁じられるなど、如何にコンプライアンスと情報漏洩防止には徹底しているかが窺い知れる。

嘉門は破門・契約解除については、「破門の理由は『サル自慰行為を教えると死ぬまでやり続ける』と言う俗説の真偽を確かめる為、師匠のペットのサルを実験台にした事である」などという"架空のエピソード"を頻繁に語っている。だが、真相に話が及ぶと、「ただいきなり、師匠からの破門と事務所からのクビを言い渡され、その場で社屋からつまみ出された」としか語っていない。

但し近年においては緩和も見られ、よゐこは「(事務所主導の)舞台活動は控えたい」と語り、漫才活動の他に芝居へと活動を広げたTKOの木本はテレビにおいて事務所にばかり頼っていられない状況を露にするなど、かつては絶対的であった公然での事務所批判の禁忌がある程度ではあるが容認されている。

これは長年の経営者だった首脳部の退社と世代交代が吉本同様上手く行った結果であり、勝(松竹)対林(吉本)の図式が緩和されつつ、めちゃ×2イケてるッ!に代表される様に両社のタレントが全国放映の番組において共演を果たすなどは、両社長在職時には、松竹から吉本への移籍、またはその逆の事が頻繁に行われてはいたが考えられなかった事である。

2009年、所属タレントの北野誠が、朝日放送のラジオ番組やイベントなどでの不適切発言があったとして、4月13日に無期限謹慎処分となり[5]、これを受ける形で、松竹と朝日放送が、日本音楽事業者協会に退会届を提出し、受理されていたことが、同月15日に判明[6]。これに関し、松竹芸能は「社内の極秘事項なので公表はできない」と、処分理由を明らかにしていない。また、北野誠自身も不適切な発言の内容に関しては「コメントできるような内容ではない」と回答を拒絶している。

労働問題

同社の元執行役員の男性2人が、2007年11月取締役から執行役員に降格され、翌2008年11月に解任されたとして、「名ばかり役員とされ、また、今回のリストラは違法解雇に当たる」などとして、大阪地裁労働審判を申し立てた[7]

吉本興業との関係

松竹の演芸進出は1927年に遡る。吉本興業は松竹所有の道頓堀弁天座で諸芸名人会(萬歳大会)を興行して大成功を収めた。これを見た当時の松竹社長白井松次郎は自らも演芸進出を企てる。間もなくその資金力を背景に当時吉本に所属していた人気芸人を高額ギャラで釣って次々と引き抜いたため怨恨が発生。吉本の林正之助総監督(当時。のち会長)が松竹大阪事務所に乗り込み、恫喝するという事件がおこった。この一件は白井が林に非礼を詫び、「松竹は吉本の芸人に一切手を出さない」と一礼を入れ事態は収拾した。

しかし、1939年白井は傍系の映画会社である新興キネマ(のち大映に合併)に演芸部を新設し、「新興演芸」の名で演芸に再進出した。ミスワカナ・玉松一郎あきれたぼういず等の吉本芸人を引き抜き、道頓堀浪花座や千日前アシベ劇場等で興行を行った。ライバル東宝が吉本と提携した事に対して行ったこの一件は演芸界を揺るがす大問題となった。吉本側は芸人の劇場への出演を阻止すべく仮処分申請を出したり、暴力団を使って実力で興行を阻止しようとするなどして対抗したが、松竹自らが乗り出したわけではなく、日中戦争下といった時節柄もあり大阪府警京都府警が調停に乗り出して、結局二か月で和解。以降、吉本・新興で上方演芸界は二分されたが、新興キネマの合併消滅や戦時体制等で新興演芸は自然消滅の憂き目にあった。

終戦直後の1945年、吉本は所属する全ての芸人の借金を棒引きにした上で契約解除を断行して演芸から撤退した。一方、5代目笑福亭松鶴等が落語会を催し、好評であるのを知った白井は、まず四つ橋文楽座で落語会を開催。好評だったため、1947年自ら経営する千日土地建物(通称・千土地。のちの日本ドリーム観光)の戎橋松竹で演芸に三たび進出した。このとき吉本は既に映画会社に転身していたが、この場合も千土地が表向き演芸興行を行い、松竹自らが進出することはなかった。なお、この戎橋松竹の支配人を務めていたのが、松竹芸能創業者の一人となる勝忠男である。

以降の経緯は、既述の通りであるが、吉本の演芸再進出は1959年であり、このとき既に松竹は道頓堀角座で演芸興行を本格的に行っていた。これ以降、逆に吉本から松竹・千土地芸人の引き抜きが行われるようになり、1960年代初頭は吉本・松竹・千土地の各社間での芸人の引き抜き・移籍が多くなった。やがて松竹芸能と吉本興業の両社はお互いに所属芸人を引き抜かない協定を結んだ。このため、無理な引き抜きは行われなくなったが、その後も1970年6月に松竹の看板芸人である中田ダイマル・ラケットが吉本興業に移籍すると両者の関係は一層悪化した(その前後も横山たかし・ひろし(吉本から松竹)、太平サブロー・シロー(松竹から吉本)のように何らかの理由で移籍した芸人は少なからずいる)。それゆえ、以降在阪局制作のテレビ番組等で吉本と松竹芸能の芸人は共演しないのが暗黙の了解である時代が1980年代後半まで続く。1980年代末期の頃から、両社が番組の制作に関与しない一部の番組(探偵!ナイトスクープたかじんnoばぁ〜など)において共演するケースが徐々に現れ始める。しかしこの頃はまだ上岡龍太郎やしきたかじんといった中立の立場にいるタレントの力があってこその共演という認識が強く、過去の風潮そのものは変わらない状況が1990年代後半まで続いた。

1970年代後半のある正月に吉本所属の漫才師・横山やすしが松竹芸能系の演芸場である新世界新花月の楽屋へ遊びに行った際、泥酔していたやすしはそのまま新花月の舞台に上がってかつての弟子を舞台上で叱咤激励、唖然とした観客はやすしに対し「吉本に怒られるぞ」とたしなめたという。大阪一厳しい客と言わしめた新花月の客にまで気を遣わせるほど、両社の関係は険悪だった。横山やすしによる弟子に向かっての面罵と恫喝の様子を見るに見かねた周囲が横山たかし、ひろしを慮って吉本から松竹への転身を勧めて結果的に円満移籍を果たしている。

1980年代以降、吉本興業に対して劣勢に立たされていた松竹芸能であったが、1980年代後半笑福亭鶴瓶が全国区となり、1990年代は森脇健児、近年ではオセロが大ブレイクし、さらに、よゐこTKOますだおかだアメリカザリガニ安田大サーカスまえだまえだなどがゴールデンタイムの全国ネット番組に出演する好調ぶりで、吉本との差が縮まってきている。その好調ぶりから、数年ほど前までは資本金が1千万円台だったのが、現在の1億円台にまで増資されている。

両事務所の対立の大きな原因のひとつであった林正之助が1991年に逝去し、その存在から来る影響力が薄れるに伴い両事務所所属の芸人が共演する機会も増えていき、過去の因縁は現在では雪解けムードとなっている。特に、両者間の過去の関係において比較的影響力が少ないと推測される東京吉本が制作に関与する番組では1990年代後半から松竹芸能所属のタレントがレギュラー・準レギュラー出演をするケースが出始めた(「いきなり!黄金伝説。」のよゐこ濱口優や「ぐるナイ」のオセロなど。「いろもん貮・参」は鶴瓶と今田耕司東野幸治の3人が司会進行で、エンドロールには企画協力に松竹芸能と吉本興業の両社名が並んで表記されていた)。

2002年には、吉本興業最大の寄席劇場なんばグランド花月ますだおかだと、アメリカザリガニが松竹芸能の所属芸人としては初めて吉本の通常公演の出演者として舞台に立った。吉本主催の若手漫才選手権イベントM-1グランプリでの活躍が認められての大抜擢だったが、当時はまだ吉本と松竹は犬猿の仲であるという印象が強く残っていたため、関西のスポーツ新聞に「歴史的事件」として取り上げられたほどだった。当時の吉本興業常務取締役であった木村政雄が、この件について「今はもう所属事務所がどうこうという時代ではない。世界中の面白い人になんばグランド花月の舞台に立って欲しい」とコメントしていたことも歴史的事件実現の背景にあった。松竹芸能に限らず他事務所所属の人気芸人を吉本制作の番組やイベントに招いて大きな利益につなげるビジネスモデルが確立して以降、この傾向はますます強くなっている。

例えば吉本興業の木村明浩(バッファロー吾郎)が主催する大喜利イベント「ダイナマイト関西」の2006年オープントーナメントではM-1グランプリ同様に吉本以外の事務所所属の芸人や放送作家、フリーライター、そして、一般参加者の参加が可能となり、予選大会は大阪のbaseよしもとや東京のルミネtheよしもとといった吉本系の演芸場だけでなく、松竹系のB1角座でも開催された。このB1角座予選にはもちろん主催者としてバッファロー吾郎も出演し角座の舞台を踏んでいる。当日はTKO木下隆行が勝利し、本戦トーナメント開幕戦へと進出した。結果的にバナナマンホリプロ系列のホリプロコム所属)の日村勇紀に敗退したものの、木下は松竹所属の芸人としてなんばグランド花月の舞台を踏んだ。

更には「めちゃ×2イケてるッ!」の企画「松竹DMC芸能」による濱口だまし(この回は、仕立て上げた架空会社(しかも、松竹芸能が架空の外資系グループに買収された上で、中核会社と松竹芸能が合併するというものであった)の社長には、松竹芸能社長の安倍彰が就任、松竹芸能社員の利用する名刺および東京支社入居ビルの社名表示も架空会社のものに差し替えるという徹底振りであった)や、バッファロー吾郎木村明浩が企画し吉本興業が主催する大喜利イベント「ダイナマイト関西」の予選では、松竹芸能所属芸人の参戦のためB1角座を予選会場として使用するなど、会社を挙げて吉本興業中心の番組やイベントに協力する姿勢も見られる。また逆のパターンとしては、2008年には吉本伝統の番組枠であり、なんばグランド花月で収録され放送されている、前述の吉本新喜劇と同様の舞台コメディ「日曜笑劇場あったか人情コメディ 湯けむりパラダイス!」(朝日放送)に安田大サーカスがゲスト出演し、2009年には「日曜笑劇場・爆笑!ふれあいコメディ こちらかきくけ公園前」(朝日放送)にTKOがゲスト出演している。

また、2007年にNGKで行われた小籔千豊吉本新喜劇座長就任一周年記念イベント「コヤブ新喜劇〜座長になって一年たちましたスペシャル〜」に藤山直美が登場した。松竹新喜劇の顔であった藤山寛美の娘である直美の吉本新喜劇出演は「歴史的な瞬間」と小籔も語るほどであり、関西を代表する二つの喜劇の競演となった。

2007年公開の映画「大日本人」(松本人志監督・吉本興業製作)には海原はるかが出演[8]。また、吉本が企画制作しているライブイベント「LIVE STAND」においても、2008年からは吉本以外に所属している芸人にも門戸が開かれ、松竹芸能からは海原はるか・かなたオジンオズボーンがこのイベントに出演した。同時期から関西ローカルのテレビ番組において、大阪吉本制作の番組にも松竹芸能所属の芸人がゲストとして招かれる機会が着実に増えている傾向にある。

所属タレント

お笑いタレント

タレント

落語家

諸芸

漫才師

歌手

子役

過去の所属タレント

養成所出身タレント

制作番組

ほか多数

注釈

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関連項目

外部リンク

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  1. 戎橋松竹の支配人だった勝忠男が興した芸能プロダクション
  2. 秋田實を中心に設立された芸能プロダクションで、勝忠男も関係していた、現ケーエープロダクションの母体。
  3. 松竹芸能、新劇場でよゐこらチャリティー サンケイスポーツ 2011年3月26日
  4. 「新劇場『松竹芸能 新宿 角座』での取り組みについて」 トピックス:東北関東大震災に対する弊社の取り組みについて 松竹芸能公式 2011年3月25日
  5. 北野誠さん:不適切発言 無期限の謹慎処分に 毎日新聞 2009年4月13日
  6. 松竹芸能:音事協を退会 北野誠さんの不適切発言で 毎日新聞 2009年4月15日
  7. 労働審判:「名ばかり役員」解雇 松竹芸能の元執行役員、地位確認を申し立て
  8. 配給は親会社の松竹が担当している。
  9. 「オセロ松嶋さんが解散発表」 『産経新聞』 2013年4月12日付け、東京本社発行15版、28面。