正司敏江・玲児

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テンプレート:Infobox お笑いコンビ 正司敏江・玲児しょうじ としえ・れいじ)は、元夫婦による漫才コンビ。松竹芸能所属

メンバー

来歴と芸風

漫才におけるツッコミがボケを叩く、いわゆる『どつき漫才』の第一人者。

敏江の父親は天理教宣教師[1]、布教のため敏江が小学校卒業後、一家で坂出市に転居[1]坂出市立川津中学校卒業後、大阪の叔父を頼り来阪、ミシン工場で見習い兼女中として働く[1]。一年半の後、天理教の信者の関係で父親がかしまし娘の両親と知り合いだっため1957年かしまし娘の住み込み弟子となる[1]、ある日かしまし娘の父が2人の弟子・芳江、春江を連れて来てかしまし娘の妹分を結成させるということになり敏江が入り“ちゃっかり娘”を結成した。1962年初舞台。ギターを担当した。他の2人が津軽三味線の世界に飛び込んだため解散(のちに津軽姉妹を結成。芳江はのちに津軽ひろ子の名で活躍)。

玲児は小学校6年のとき両親が離婚し八幡市(現・北九州市)に移る[1]。八幡市立花尾中学校卒業後パン屋、八百屋、工場、酒屋などの職業を転々とし、1962年に京芸プロ(漫画トリオの個人事務所)従業員を経て、松竹芸能に入社。フラワーショウを担当をしていたが、1963年に本名で音楽ショウ・ピスボーイを中井次郎(現在の吉本新喜劇座員の池乃めだか)らと組んで初舞台。

のちに池乃めだかは『自分は玲児さんの弟子』と、玲児が師匠にあたる事を明かしている。また、当時、一世を風靡していた横山やすしと、事務所の垣根を越え、深い親交を持っていた。

敏江、玲児、共に売れていなかったが、当時から2人は交際しており、裏方(マネージャーの玲児)が商品(芸人の敏江)に手を付け、芸界の掟を破ったことで、師匠の正司歌江から破門される。1964年浪曲師斎東満夫妻の仲人で結婚。

1966年、夫婦である事を隠し、兄妹漫才と偽って正司利児・敏江の名で神戸松竹座から再出発[2]、その後夫婦漫才コンビである事を公表。

しかし敏江は台本の覚えが悪いのに稽古嫌いで、いい加減なアドリブで誤魔化してばかりだったため、前座に燻っていた。ある日、舞台上で怒った玲児が敏江を本気で突き飛ばしたところ、これが初めて客にウケる。最初は一方的に張られていた敏江だったが、玲児に逆襲すると更にウケる事を発見し、嫁主導の夫婦どつき漫才の型を確立、一躍注目を浴びた。

2人の熱心さにほだされ、周囲の抵抗も次第に解けて行き、1968年には再び『正司』の屋号を許される。敏江の「誰のお陰で正司を名乗れると思うとるんや!」の決めゼリフは、こうして誕生した。

1969年、第4回上方漫才大賞新人賞受賞。これをきっかけに人気は上昇。特にこの時期、朝日放送プロデューサ-澤田隆治は2人にテレビタレントとしての将来性を見出し、レギュラー番組を次々と立ち上げる。

1970年第21回NHK紅白歌合戦』の応援合戦に、京唄子鳳啓助笑福亭仁鶴らとともに上方の漫才、落語系演芸人としては当時初めてとなる出場を果たす。

1971年、TBS系ドラマ『時間ですよ』(第2シリーズ)にレギュラー出演(共演/森光子、松原智恵子、堺正章、天地真理、他)

1970年代、世間で仮面ライダーが流行っていた若い頃には「ライダーキック!」の掛け声と共に飛び蹴りしたり、敏江もサービス精神を発揮し、振袖の裾をはだけてのパンツ開帳を定番ギャグにするなど、生傷の絶えない熾烈な芸にエスカレートしていった。

1972年、4月スタートの『新・番頭はんと丁稚どん』にメインレギュラーとしてキャスティングされながら、開始早々降板させられる、という騒動が発生している。新番組の新聞広告に玲児の顔写真だけ掲載されていなかったことから、玲児が会社側にクレームをつけた事に、周囲が尾ヒレを付け最終的には「玲児が作者の花登筐に物を投げつけた」という事にされ、社長にリーク。「人気におぼれて天狗になった。」との判断で玲児は松竹芸能を解雇された。この一件で人気の絶頂期から状況は一変、レギュラー番組は無くなり、信頼をよせていた支援者(と思っていた人間)もその日以来次々と離れていくという現実にさらされながらも、その後は日劇の舞台や地方興行をこなし、地道にキャリアを積むこととなった。この時の事について、後に敏江は「玲児さんが花登さんに物を投げたというのは、話に尾ヒレがついたもので真っ赤な嘘です。人気絶頂でそれだけわがままで、生意気な態度に見えたんやと思います。」と振り返る一方で、「人間の裏側を見せてもらい、大きな勉強になった。」と語っている。

1974年、玲児の浮気が発覚して私生活では結婚10年で離婚となったが、根強い人気に後押しされてコンビは継続し、養育費問題を始め家庭の不幸すらネタにしてしまった。夫婦漫才が離婚後も組み続けているのは、ミヤコ蝶々南都雄二、京唄子・鳳啓助以来である。

芸歴からすれば既に大ベテランの領域に入りながらも、意気軒昂にどつき漫才を展開。飛び蹴りなどの見せ場こそ無くなったものの、息の合ったかけ合いと平手打ちで安定した笑いを提供した。老人ホームなど福祉施設の慰問にも積極的に取り組んだ。松竹芸能の歴代の拠点だった、浪花座の閉館(2002年)及びB1角座の閉館(2008年)の際には、共に大トリの大役を務めた。後継の拠点となった通天閣劇場TENGEKIにも積極的に出演しトリを務め、また2年に1回の割合で名古屋大須演芸場の正月公演に出演、芝居活動など、盛んに活動を行ってきた。

2010年に入ると玲児が体調を崩し、同年11月には一旦舞台に復帰したものの[3]、12月10日に成人T細胞白血病リンパ腫で死去、テンプレート:没年齢[4]。2010年11月28日に、大阪国立文楽劇場小ホールで行われた「11月上方演芸特選会」で漫才を披露したのが、コンビとしての最後の舞台となった[5][6]

玲児の葬儀は2010年12月14日大阪市北区の葬儀場で行われ、喪主は長男の及川孔児で、弔辞は横山たかし・ひろしが読み上げた。通夜には笑福亭鶴瓶池乃めだか他、本葬には敏江の師匠である正司歌江も弔問に訪れ、300〜400人に見送られた。

現在は敏江一人で通天閣劇場TENGEKIの舞台を中心に歌や一人漫談で活動を続けている。

敏江の所属事務所はデビューから一貫して松竹芸能所属である。

レコード

  • しびれ女のブルース/147センチのバラード(1970年11月)(キダ・タロー作曲)
  • 夫婦の花道/母恋怨歌
  • チューリップ人生/悲恋酒
  • 振られた女の子守唄/くどいたお方はどこの人(1976年4月)‐正司敏江ソロ
  • わてには関係ありまへん/出逢い橋・別れ橋・再会橋(1978年)‐正司玲児ソロ
  • とんぼり人生/さすらい港町(1987年11月)‐A面の「とんぼり人生」は正司敏江のソロで、B面の「さすらい港町」は正司玲児のソロ
  • まごころ音頭/人情芝居(1992年9月)‐A面の「まごころ音頭」は正司玲児のソロ
  • 野牡丹/こころの港(1994年10月)‐A面の「野牡丹」は正司敏江のソロで、B面の「こころの港」は正司玲児のソロ

著書

  • 正司敏江のどつかれても踏まれても(1992年)

テレビ出演

映画出演

  

CM出演

エピソード

  • どつき漫才で人気が出始めた頃、芸には厳しい古老の漫才の諸先輩(三遊亭小円・木村栄子等)から「あんなのは漫才ちゃう、あの後に出るわてらの身になってみなはれ」と厳しく叱責、いじめも多かったという。
  • 表向き松竹芸能の漫才枠に入ってはいるが、その昔、事務所を解雇させられた玲児だけは、 そのまま一時、フリーの身となる。
  • NHKラジオ第1放送上方演芸会」の、とある地方での放送収録の際、漫才の最中に敏江がネタを忘れてしまった為、途中で中断し、正規な台本での漫才ができなかった。番組関係者に「再度の録音」懇願したが、収録時間の関係等で受け入れられず、その後、「再度の録音」を懇願し、交通費等自費、ノーギャラで、別の「上方演芸会」の収録に独自に参加させてもらって録音をして貰い、正規の番組放送に編集して挿入し放送してもらった事がある。
  • 北野武が『アウトレイジ』公開の際、某メディアにて『(映画のタイトルは)敏江・玲児じゃないよ』と発言。
  • 小林信彦の『日本の喜劇人』第9章「大阪の影」の末尾に「久しぶりに、ぞくぞくさせられる芸人に出会った」と敏江のことが出てくる。
  • 元タレント上岡龍太郎は『感心したのは正司敏江・玲児。あれを見たときには、あのコンビはいいなと。女を蹴飛ばしてね。きょうび(今どき)、家の中で女をどつく旦那がおらんようになった時代に、蹴るは、どつくは、引きずり廻すは、すばらしい意味で凄すぎるなと思った』と明かしている。

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関連項目

外部リンク

  • 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 澤田隆治『上方芸能列伝』文藝春秋、1993年、191-203頁
  • 今日に至るまで、敏江は玲児を舞台上では「お兄ちゃん」もしくは「お兄さん」と呼んでいた。
  • 正司敏江・玲児の玲児が舞台復帰サンケイスポーツ、2010年11月7日)
  • テンプレート:Cite news
  • スポーツニッポン 大阪本社発行版・本紙、2010年12月11日付け
  • 公演情報 詳細 日本芸術文化振興会 (文楽劇場小ホール・2010年11月分)