辻堂
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テンプレート:Pathnav テンプレート:JIS2004フォント堂(つじどう)は、神奈川県藤沢市の南西部に位置する地域。
地理
西は茅ヶ崎市境と接している。東端には引地川があり、北西部は国道1号と接し、南側は海で海水浴場(テンプレート:JIS2004フォント)がある。
- 現在の中心は東海道本線のテンプレート:JIS2004フォントで、北口と南口と西口とで分かれており、北口は藤沢市の湘南ライフタウン方面、南口はテンプレート:JIS2004フォント方面、西口は茅ヶ崎市の松浪・赤羽根方面に位置している。
- 北口方面には、長年駅前に関東特殊製鋼の本社工場があったが、2002年に撤退。現在は跡地を中心として湘南C-Xとして再開発が進行中である。また、北口から北東方向には中居正広の実家や母校の明治中学校があり、TBSの『中居正広の金曜日のスマたちへ』の企画にて紹介されたことがある。
- 南口方面には、駅のロータリーを挟み東西に商店街がある。正面の道はテンプレート:JIS2004フォント堂海岸、テンプレート:JIS2004フォント方面に通じている。湘南工科大学は、海岸方面に向かって10分ほどの所にある。また、[[辻堂太平台|テンプレート:JIS2004フォント堂太平台]]の引地川富士見橋には正月恒例の箱根駅伝の藤沢ポイントがある。
- 西口方面は、すぐに茅ヶ崎市との境界があり、厳密にはこの地域(茅ヶ崎市内)はテンプレート:JIS2004フォント堂では無いが、駅を中心とした括りからテンプレート:JIS2004フォント堂地区として扱われることが多い。西口北側は、パナソニック株式会社 エナジー社(旧松下電池工業)の工場がある他は住宅街である。西口南側には商店街が続いており、この道は海岸方面(国道134号線、浜須賀地区)に通じている。
- 藤沢市の行政上、テンプレート:JIS2004フォント堂地区は、以下の地域としている。
- [[辻堂 (藤沢市)|テンプレート:JIS2004フォント堂]]、[[辻堂元町|テンプレート:JIS2004フォント堂元町]]、[[辻堂太平台|テンプレート:JIS2004フォント堂太平台]]、[[辻堂東海岸|テンプレート:JIS2004フォント堂東海岸]]および [[辻堂西海岸|テンプレート:JIS2004フォント堂西海岸]]の各全域
- 大字としてのテンプレート:JIS2004フォント堂には、辻堂地区のほか、以下の明治地区が含まれる。
- [[辻堂神台|テンプレート:JIS2004フォント堂神台]]一丁目、同二丁目の一部
- [[辻堂新町|テンプレート:JIS2004フォント堂新町]]一丁目-三丁目の一部および四丁目
- 城南一丁目の一部
- 羽鳥一丁目および五丁目の一部
河川
海洋
歴史
地名の由来
村の中心(現在の[[辻堂元町|テンプレート:JIS2004フォント堂元町]])に、鎌倉道との十字路に寺があり、「四ッテンプレート:JIS2004フォントのお堂」から転じてテンプレート:JIS2004フォント堂となったといわれる。十字路の場所は、諸説ある。
沿革
- 古墳時代前期(300年-500年ころ) - 引地川右岸(後の字高山)に低地遺跡が出現、土師式土器が出土。
- 平安時代中期(10世紀) - 現在の鵠沼、テンプレート:JIS2004フォント堂、大鋸および西富を、相模国高座郡土甘[1]郷とする。
- 平安時代末期(長治年間) - 土甘郷を含む大庭御厨成立。
- 鎌倉時代 - テンプレート:JIS2004フォント堂および茅ヶ崎を含む広域の地名で「八的ヶ原」(やまとがはら)[2]後に、「八松ヶ原」(やつまつがはら)[3]と呼ばれる。
- 1182年(寿永元年) - 源平盛衰記の佐々木高綱が木曾義仲追討の軍陣に加わり上洛の際、「十七騎にて打て殿原々々とて、稲村、腰越、片瀬川、砥上原、八松原馳過て」と記述。
- 1185年(文治元年) - 平家物語の平宗盛の東下りのなかに「足柄の山もうち越えて、小余凌木の森、鞠子川、小磯、大磯の浦々、やつまと、砥上が原、御輿が崎をもうち過ぎて」と記述。
- 1223年(貞応2年) - 海道記の「一六 逆川[4]より鎌倉」中に、「八松」として記述[5]される。
- 1335年9月6日(建武2年8月19日) - 中先代の乱の一部である「テンプレート:JIS2004フォント堂・片瀬原の合戦」で、足利尊氏の軍勢が、北条時行の軍を破り鎌倉に攻め込む。
- 1559年(永禄2年)2月 - 北条氏康が作成した小田原衆所領役帳に、「テンプレート:JIS2004フォント堂」の名前が記録として初めて残る[6]。
- 1590年(天正18年) - 天領となる。
- 1728年(享保13年) - 享保の改革の一環で、相州炮術調練場を設置する。
- 1868年8月5日(慶応4年6月17日) - 新設した神奈川府の所属となる。
- 1868年11月5日(明治元年9月21日) - 神奈川府を神奈川県へ改称する。
- 1871年12月25日(明治4年11月14日) - 高座郡が足柄県所属となる[7]が、直後に神奈川県へ移管される。
- 1872年(明治5年)4月 - 小笠原東陽が、羽鳥に私塾「読書院」(現在の藤沢市立明治小学校)を開く。
- 1873年(明治6年)5月1日 - 神奈川県が区番組制を施行し、テンプレート:JIS2004フォント堂村は第17大区となる。小字および地番が制定される。
- 1874年(明治7年)6月15日 - 神奈川県が区番組制を廃止し、大区小区制を実施。これにより、「区」を「大区」、「番組」を「小区」へ改称した。
- 1878年(明治11年)7月22日 - 神奈川県が大区小区制を廃止する。
- 1878年(明治11年)11月18日 - 郡区町村編制法により、行政区画としての高座郡テンプレート:JIS2004フォント堂村が編成される。
- 同年 - 読書院、入塾者が増加したため、新校舎を落成し、塾名を耕余塾に改め、変則中学となる。
- この当時の村域は現在のテンプレート:JIS2004フォント堂地区、湘南大庭地区および明治地区に該当する。
- このころテンプレート:JIS2004フォント堂海岸は、日本海軍横須賀鎮守府の砲術試験場および陸戦演習場となる。
- 1887年(明治20年)7月11日 - 東海道本線の横浜 - 国府津間が開通、テンプレート:JIS2004フォント堂地区を横断する。
- 同年8月 - 耕余塾、小笠原東陽が没し、松岡利紀(東陽の娘婿)が塾長となり、耕余義塾に改称する。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制が施行され、テンプレート:JIS2004フォント堂村、大庭村、羽鳥村および稲荷村が合併し、明治村となる。(明治の大合併)
- 1897年(明治30年)9月8日 - 耕余義塾、大風で全学舎が倒壊する。
- 1900年(明治33年) - 耕余義塾、再建できず、閉塾する。
- 1908年(明治41年)4月1日 - 明治村、藤沢大坂町および鵠沼村が合併して、藤沢町となる。
- 1916年(大正5年)12月1日 - 東海道本線のテンプレート:JIS2004フォント堂駅が開業。
- 1921年(大正10年)6月9日 - 東海土地電気株式会社が、茅ヶ崎-テンプレート:JIS2004フォント堂-鵠沼間の電気鉄道敷設免許を申請する。
- 1922年(大正11年)3月3日 - 東海土地電気株式会社が、大船-鵠沼-テンプレート:JIS2004フォント堂-茅ヶ崎間の電気鉄道建設を出願し認可を受ける。
- 1924年(大正13年)6月28日 - テンプレート:JIS2004フォント堂郵便局が、テンプレート:JIS2004フォント堂駅西通りに新築移転される。
- 1925年 - 遠藤新設計の旧近藤邸(国の登録有形文化財(建造物))が、テンプレート:JIS2004フォント堂東海岸に建てられる。
- 1926年(大正15年) - テンプレート:JIS2004フォント堂海岸に、テンプレート:JIS2004フォントが置かれる。
- 1932年(昭和7年)1月7日 - テンプレート:JIS2004フォント堂電信局が開業。
- 1933年(昭和8年)9月24日 - テンプレート:JIS2004フォント堂駅前に振興会が誕生。
- 1937年(昭和12年)8月 - 小松熱練工業(現在の関東特殊製鋼)が、テンプレート:JIS2004フォント堂駅北口にテンプレート:JIS2004フォント堂工場を竣工。
- 1937年(昭和12年)12月 - 小松熱練工業テンプレート:JIS2004フォント堂工場が完成し、小松熱練工業がテンプレート:JIS2004フォント堂に移転。
- 1940年(昭和15年)10月1日 - 藤沢町が市政を敷き、藤沢市となる。
- 1940年(昭和15年)12月 - テンプレート:JIS2004フォント堂と鵠沼の両漁業組合が合併する。
- 1943年(昭和18年)10月1日 - テンプレート:JIS2004フォント堂駅北口に、日本海軍第一衣糧廠テンプレート:JIS2004フォント堂支廠(後に、片倉製糸工場となる。)が設置される。
- 1944年(昭和19年)4月 - 平塚高等家政女学校(現在の鵠沼高等学校)がテンプレート:JIS2004フォント堂へ移転し、相模女子商業学校となる。
- 1944年(昭和19年)8月25日 - 浜見山に、官立無線電信講習所が藤沢分教場(後の電気通信大学藤沢分校)を設置。
- 1945年(昭和20年)2月21日 - テンプレート:JIS2004フォント堂駅南口に、横浜興信銀行(現在の横浜銀行)テンプレート:JIS2004フォント堂支店が開業。
- 同年4月1日 - テンプレート:JIS2004フォント堂国民学校(現在のテンプレート:JIS2004フォント)開校。当時は藤沢市立明治中学校用地に併設する形だった。
- 同年4月2日 - 連合国軍B-29(京浜襲来60機の一部)が、テンプレート:JIS2004フォント堂地区上空に飛来。
- 同年5月8日 - テンプレート:JIS2004フォント堂国民学校、藤沢市立明治中学校用地から現在地に移転。
- 同年7月1日 - 日本陸軍第140師団歩兵第403連隊が、テンプレート:JIS2004フォント堂に駐屯。
- 同年9月 - 相模女子商業学校、テンプレート:JIS2004フォント堂から清浄光寺(遊行寺)境内へ移転。
- 同年9月2日 - 横須賀海軍砲術学校テンプレート:JIS2004フォント堂演習場を、連合国が接収。
- 同年12月18日 - テンプレート:JIS2004フォント堂駅で爆発事故が発生。テンプレート:Main
- 1946年(昭和21年)12月8日 - 藤沢都市計画テンプレート:JIS2004フォント堂駅前土地区画整理を決定する[8]。
- 1947年(昭和22年)5月1日 - 藤沢市立明治中学校開校。
- 1951年(昭和26年)10月1日 - 市役所テンプレート:JIS2004フォント堂支所が設置される。
- 1952年(昭和27年)7月26日 - 連合国軍に接収された演習場が、テンプレート:JIS2004フォントとなる。
- 1955年(昭和30年)3月5日 - テンプレート:JIS2004フォント堂郵便局での電話交換事務を廃止する[9]。
- 同年3月6日 - 藤沢電報電話局テンプレート:JIS2004フォント堂分室を設置する[10]。
- 1956年(昭和31年)4月1日 - 旧電気通信大学藤沢分校の木造校舎を改修し、校地7270坪で藤沢市立湘洋中学校の開校が決定。職員13人をもって開校。
- 1959年(昭和34年)4月1日 - 藤沢市立明治小学校後山分校開校。
- 同年6月25日 - 在日米海軍テンプレート:JIS2004フォント堂演習場が返還され、国有地および県有地となる。
- 同年10月1日 - 藤沢市立明治小学校後山分校、藤沢市立八松小学校として独立。
- 1961年(昭和36年)4月1日 - 学校法人相模工業学園設置、相模工業高等学校開校。
- 1962年(昭和37年)3月15日 - 元演習場のうち47,582.21坪が日本住宅公団へ現物出資される。
- 同年4月1日 - 藤沢市立白浜養護学校が、藤沢市立鵠洋小学校内に開校。同年7月10日現在地に移転。
- 同年10月 - 松下冷機藤沢工場開設。
- 1963年(昭和38年) - 相模工業大学(現湘南工科大学 機械工学科、電気工学科)が開学。
- 1964年(昭和39年)4月1日 - 藤沢市立高砂小学校、テンプレート:JIS2004フォント内に開校。同年9月1日現在地に移転。
- 同年10月 - 日本住宅公団テンプレート:JIS2004フォント堂団地の入居開始。
- 同年10月6日 - 藤沢駅-テンプレート:JIS2004フォント堂団地間のバス運行開始。
- 1967年(昭和42年)10月1日 - テンプレート:JIS2004フォント堂元町、テンプレート:JIS2004フォント堂太平台、テンプレート:JIS2004フォント堂東海岸およびテンプレート:JIS2004フォント堂西海岸の住居表示を実施。
- 1968年(昭和43年)10月1日 - テンプレート:JIS2004フォント堂神台、テンプレート:JIS2004フォント堂新町、羽鳥および城南の住居表示を実施。
- 1969年(昭和44年)4月 - テンプレート:JIS2004フォント堂行政センター完成。
- 1969年(昭和44年)11月7日 - 藤沢電報電話局テンプレート:JIS2004フォント堂分室を廃止する[11]。
- 1970年(昭和45年)4月1日 - 藤沢市立浜見小学校開校。
- 4月 - 藤沢市道藤沢駅テンプレート:JIS2004フォント堂駅線(東海道本線沿いの延長3,540mの道路)が開通。
- 1971年(昭和46年)4月1日 - 県立テンプレート:JIS2004フォントが開園。
- 1973年4月1日 - 藤沢市立高浜中学校開校。
- 同年6月 - 県が、テンプレート:JIS2004フォント堂銀座商店街をモデル商店街に指定。
- 1976年10月 - 明治市民センターに明治公民館を併設。
- 1977年11月 - テンプレート:JIS2004フォント、橋上駅が完成。南北自由通路が開通。
- 1978年(昭和53年)1月 - テンプレート:JIS2004フォント堂市民センターにテンプレート:JIS2004フォント堂公民館を併設。
- 同年5月29日 - 東急ストアテンプレート:JIS2004フォント堂店でテンプレート:PDFlinkが発生。死者1名、負傷者6名。
- 1989年(平成元年) - 相模工業大学、法人名および大学名を湘南工科大学に改称
- 1993年(平成5年)7月 - テンプレート:JIS2004フォント堂市民図書館開設。
- 1994年(平成6年)11月 - 湘南テンプレート:JIS2004フォント堂地下道開通。
- 1999年(平成11年)7月18日 - [[辻堂 (藤沢市)|テンプレート:JIS2004フォント堂]]の住居表示を実施。
- 2002年(平成14年)11月 - 関東特殊製鋼が本社所在地の全面撤退を表明。
- 2005年(平成17年)7月7日 - 関東特殊製鋼跡地の再開発地区の愛称が「湘南C-X」に決定。
- 2007年(平成19年)3月28日 - 明治市民センター内に「明治郷土史料室」を開設。
- 同年11月26日 - テンプレート:JIS2004フォント堂駅北口バスターミナルを仮設の交通広場に移設。
- 2009年(平成21年)3月11日 - 北口交通広場供用開始。
町名の変遷
- 1873年(明治6年)5月1日 - 以下の小字が制定される。括弧内は地番。
- 餅塚(1-362)、西神台(にしかんだい。363-517)、東神台(ひがしかんだい。518-818)、初タラ(はったら。819-1164)、堺田(1165-1339)、熊ノ森(1347-1812)、土打(1813-2416)、後山(2417-2881)、一ノ坪(2882-3520)、ガル池(3521-3834)、高山(3835-4350)、猪王面(4351-4529)、大荒久(4530-4960)、長久保(4961-5167)、堂面(どうめん。5168-5542)、出口(5543-5787)、久根下(くねじた。5788-6087)、砂場(6088-6397)、高砂(たかすな。6398-6768)、勘久(かんきゅう。6769-6951)、砂山(6952-6957)、弥平田(6958-7130)、大ヤゲン(7131-7234)、浜見山(7235-7264)、チョン(7265-7338)、地蔵袋(7389-7459)
- 1967年(昭和42年)10月1日 - [[辻堂元町|テンプレート:JIS2004フォント堂元町]]、[[辻堂太平台|テンプレート:JIS2004フォント堂太平台]]、 [[辻堂東海岸|テンプレート:JIS2004フォント堂東海岸]]および[[辻堂西海岸|テンプレート:JIS2004フォント堂西海岸]]の住居表示を実施[12]
- 1968年(昭和43年)10月1日 - [[辻堂神台|テンプレート:JIS2004フォント堂神台]]、[[辻堂新町|テンプレート:JIS2004フォント堂新町]]、城南および羽鳥の住居表示を実施[13]
- 1999年(平成11年)7月18日 - [[辻堂 (藤沢市)|テンプレート:JIS2004フォント堂]]の住居表示を実施[14]
- 変遷表は、各町名記事を参照。
学校
- 湘南工科大学
- 湘南工科大学附属高等学校
- 藤沢市立湘洋中学校
- 藤沢市立高浜中学校
- テンプレート:JIS2004フォント
- 藤沢市立明治小学校
- 藤沢市立八松小学校
- 藤沢市立高砂小学校
- 藤沢市立浜見小学校
- 藤沢市立白浜養護学校
楽曲
居住した主な著名人
脚注
関連項目
- 相模ハム
- 東洋のマイアミビーチ
- NANJAMAN
- パナソニック ストレージバッテリー
- 林古渓
- 源頼朝 - 源義経らの亡霊を八的ヶ原(テンプレート:JIS2004フォント堂および茅ヶ崎を含む広域の地名)で見た後、病死したと保暦間記に記される。テンプレート:See
- RIP SLYME
外部リンク
御馬廻衆
(中略)
一、関兵部丞(読み:せきひょうぶのじょう)
五拾弐貫四百拾弐文 東郡 羽鳥 テンプレート:JIS2004フォント堂