赤報隊事件

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赤報隊事件(せきほうたいじけん)とは1987年から1990年にかけて「赤報隊」を名乗る犯人が起こしたテロ事件である。指定番号から「広域重要指定116号事件」とも呼ばれる。未解決事件

概要

ここでいう「赤報隊事件」とは、1987年から1990年にかけて「赤報隊」を名乗る犯人が起こした以下の事件を指す。

  • 朝日新聞阪神支局襲撃事件
  • 朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件
  • 朝日新聞静岡支局爆破未遂事件
  • 中曽根康弘・竹下登両元首相脅迫事件
  • 江副浩正リクルート会長宅銃撃事件
  • 愛知韓国人会館放火事件

特に朝日新聞阪神支局襲撃事件では執務中だった記者二人が殺傷され、言論弾圧事件として大きな注目を集めた。

警察庁は、「赤報隊」が犯行声明を出した一連の事件を広域重要指定事件に指定したテンプレート:Sfn。精力的な捜査が行われたにもかかわらず、2003年までにすべての事件が公訴時効を迎え、事件は未解決のままとなっている。

NHKでは未解決事件を検証する番組「未解決事件」で、朝日新聞阪神支局襲撃事件をリストに取り上げ[1]目撃情報などの情報提供を求めている[2]

経緯

「日本民族独立義勇軍」による事件

「赤報隊」は当初「日本民族独立義勇軍 別働赤報隊」と名乗っていたが、赤報隊事件より前に「日本民族独立義勇軍」を名乗っていた事件が発生しているテンプレート:Sfn。警察庁広域重要指定事件の対象とはなっていない。いずれも未解決事件になっているテンプレート:Sfn

  • 1981年12月8日 - 神戸米国領事館放火事件
  • 1982年5月6日 - 横浜元米軍住宅放火事件
  • 1983年5月27日 - 大阪ソ連領事館火炎瓶襲撃事件
  • 1983年8月13日 - 朝日新聞東京・名古屋両本社放火事件

「赤報隊」による事件

朝日新聞東京本社襲撃事件
1987年1月24日午後9時頃、朝日新聞東京本社の二階窓ガラスに散弾が二発撃ち込まれたテンプレート:Sfn。その後、「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」を名乗って犯行声明が出された。そこでは自分たちを「日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊」とし、さらに「反日世論を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない」「一月二十四日の朝日新聞社への行動はその一歩である」「特に朝日は悪質である」と朝日新聞に激しい敵意、恨みを示し、マスコミを標的としたテロの継続を示唆する内容だったテンプレート:Sfn
朝日新聞阪神支局襲撃事件
1987年5月3日、午後8時15分、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局に、散弾銃を持った男が侵入し、2階編集室にいた29歳記者と42歳記者に向け発砲した。29歳記者は翌5月4日に死亡テンプレート:Sfn殉職により記者のまま次長待遇昇格)、42歳記者は右手の小指と薬指を失った。犯人は現場にいたもう1人の25歳記者には発砲せずに逃走した。勤務中の記者が襲われ、死亡するのは、日本の言論史上初めてであったテンプレート:Sfn5月6日時事通信社共同通信社の 両社に「赤報隊一同」の名で犯行声明が届いた。1月の朝日新聞東京本社銃撃も明らかにし、「われわれは本気である。すべての朝日社員に死刑を言いわたす」 「反日分子には極刑あるのみである」「われわれは最後の一人が死ぬまで処刑活動を続ける」と殺意をむき出しにした犯行声明であったテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件
1987年9月24日午後6時45分ごろ、名古屋市東区新出来にある朝日新聞名古屋本社の単身寮が銃撃された。無人の居間兼食堂と西隣のマンション外壁に一発ずつ発砲したテンプレート:Sfn。その後、「反日朝日は五十年前にかえれ」と戦後日本の民主主義体制への敵意を示す犯行声明文が送りつけられたテンプレート:Sfn
朝日新聞静岡支局爆破未遂事件
1988年3月11日、静岡市追手町の朝日新聞静岡支局の駐車場に、何者かが時限発火装置付きのピース缶爆弾を仕掛けた。翌日、紙袋に入った爆弾が発見され、この事件は未遂に終わったテンプレート:Sfn。犯行声明では「日本を愛する同志は 朝日 毎日 東京などの反日マスコミをできる方法で処罰していこう」と朝日新聞社だけでなく毎日新聞社中日新聞東京本社(東京新聞)も標的にする旨が記されていたテンプレート:Sfn。しかし、実際に毎日・中日の2社を対象とした事件はなかった。
中曾根・竹下両元首相脅迫事件
静岡支局事件と同じ1988年3月11日の消印(静岡市内で投函)で、群馬県の中曽根康弘前首相の事務所と、島根県の竹下登首相の実家に脅迫状が郵送されたテンプレート:Sfn。中曾根には「靖国参拝教科書問題で日本民族を裏切った。英霊はみんな貴殿をのろっている」「今日また朝日を処罰した。つぎは貴殿のばんだ」と脅迫テンプレート:Sfn、竹下には「貴殿が八月に靖国参拝をしなかったら わが隊の処刑リストに名前をのせる」と靖国神社参拝を要求する内容だったテンプレート:Sfn
江副元リクルート会長宅銃撃事件
1988年8月10日午後7時20分頃、リクルート事件で世間を騒がせていた江副浩正リクルート元会長宅に向けて散弾銃一発が発砲されたテンプレート:Sfn。犯行声明はその動機を「赤い朝日に何度も広告をだして金をわたした」からだとしている。また、「反日朝日や毎日に広告をだす企業があれば 反日企業として処罰する」と企業を標的にした内容も犯行声明には記されていたテンプレート:Sfn。ただし、リクルート社が他紙に比べ、朝日に多く広告を出していたわけではなかったテンプレート:Sfn
愛知韓国人会館放火事件
1990年5月17日午後7時25分頃、名古屋の愛知韓国人会館(民団系)が放火される事件が発生テンプレート:Sfn。犯行声明では当時の韓国盧泰愚大統領を「ロタイグ」と日本語読みした上で、その来日に反対し、「くれば反日的な在日韓国人を さいごの一人まで処刑」と脅したテンプレート:Sfn

時効

警察は全国的な捜査を行ったが、2002年に阪神支局襲撃事件テンプレート:Sfn2003年には静岡支局爆破未遂事件が公訴時効となりテンプレート:Sfn、全事件が未解決のままとなった。兵庫県警察捜査一課西宮警察署に連絡要員を置き、時効後も真相解明を目指しているテンプレート:Sfn。捜査資料は、事件に関係する人物が浮上した時に照合するため保管されているテンプレート:Sfn

社会の反応

事件への批判

記者2人を殺傷した朝日新聞阪神支局襲撃事件は、言論弾圧事件として大きな注目を集め、新聞・雑誌等では当時、「表現の自由」に対するテロリズムであるという報道がなされていたテンプレート:Sfnテンプレート:Sfnテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn井上ひさしは、記者の生命を奪う行為は、個人の生命を「最大の尊重を必要とする」とした日本国憲法第13条に外れ、「主権在君から主権在民という日本の歴史の流れに逆らう」犯人こそ「反日分子」だと批判したテンプレート:Sfn西尾幹二は犯人が中曽根康弘、竹下登両首相への脅迫状の中で靖国神社参拝問題に触れたことに対し、「靖国を大事にする人が暴力とつながっているように、世間の人々から思われてしまう」「迷惑な話だ」「右も左も言論への暴力はいけない」と批判したテンプレート:Sfn大谷昭宏は「百パーセント許すことができない」「犯人は『記者を撃つ』ことで『言論を撃った』」テンプレート:Sfn有田芳生は「思想に生きる者としての自負がいささかでもあるならば、沈黙は断じて許されない」と批判したテンプレート:Sfn

「言論の自由」をめぐる動き

言論の自由を考える5・3集会

1988年、朝日新聞労働組合は阪神支局襲撃事件の追悼集会を行った。以降毎年5月3日に、「言論の自由を考える5・3集会」が開催され、言論の自由、報道の自由を考え、平和民主主義憲法を語り合う場となっているテンプレート:Sfn

「『みる・きく・はなす』はいま」

朝日新聞社は、名古屋本社寮襲撃事件の後、言論をテーマにした「『みる・きく・はなす』はいま」の掲載を始めた。社会面に毎年5月3日と10月の新聞週間の前後に掲載されている(時効後は5月)テンプレート:Sfn。10年分の連載が『言論の不自由』にまとめられている。

朝日新聞襲撃事件資料室開設

2006 年4月13日、阪神支局の新局舎3階に「朝日新聞襲撃事件資料室」が開設された。記者2人が殺傷された阪神支局事件を中心に、言論機関を狙ったテロに関す る資料を展示している。市民に公開することで、事件を多くの人に語り継ぎ、言論の自由など民主主義の大切さを伝えるのが目的であるテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

開館から2012年3月末までの見学者は、社員を含めて4,000人を超えたテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

展示物は、死亡した記者と重傷を負った記者が銃撃された編集室から採取された散弾粒、血に染まった原稿用紙、重傷を負った記者が身につけていた、散弾粒の あとが残るボールペンと財布、2人が座っていた応接セット、警察が鑑定のため切り取ったあと(四角い穴)が残る4通の犯行声明文、犯人が声明文に使用したワープロ、用紙、封筒の同型品、犯人が身につけていた目出し帽や靴、着衣の類似品、遺影、事件に関連した写真・年表・書籍など、朝日新聞が遺族や関係者から提供を受けたものテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。一般公開はされていないが、血染めのブルゾンや散弾で体が蜂の巣状になったことのわかるレントゲン写真もあるテンプレート:Sfn 。見学には予約が必要。

小尻記者追悼集発刊

1993年5月3日、事件で亡くなった記者を追悼する『明日も喋ろう 弔旗が風に鳴るように』(編集・発行 小尻記者追悼集刊行委員会)が発刊された。本書では、記者が執筆した記事、生い立ち、生前の写真、関連年表(116号事件の経過と社会)、遺族や朝日新聞社の同僚など関係者、116号事件捜査関係者、記者が取材で知り合った人たちの思いなどが紹介されている。

題名は116号事件取材班の「誓いの言葉」から。追悼集には、問答無用の暴力は卑劣であり、暴力でペンの力は弱められない、事件を風化させず語り継ぐという決意が込められ、「事件が解決する日まで、犯人と闘い続ける誓いのあかしにしたい」としている[3]

事件への便乗・協調の動き

1997 年暮れに「ある組織の者」と名乗り、朝日新聞神戸支局に殺害された記者の遺族の様子を尋ねる電話があった。捜査に挙がっていない散弾銃について「もう処分 した」と話し、記者が「犯人を知っているのか」と聞くと「どうでもええやないか」と切った。後に、電話の主は関西在住で50歳代の男性で、大学時代に三島 由紀夫を研究するサークルを創立していたことがわかった。名古屋本社寮事件のころ、「事件は東に走る」と話し、「極刑の待ち受けたるを知りつつも尚も征か ん草莽の士は」という歌を詠んだ。兵庫県警の任意の事情聴取に「おとりになって、捜査の目を引きつけようとした。赤報隊が逃げおおせられれば、本望だ」と話したというテンプレート:Sfn

右翼のほか保守派の一部には犯人の主張に共感を覚える者がいた。たとえば、中村粲産業経済新聞社の『正論』 2001年5月号で、朝日の歴史教科書問題報道を「朝日は銃弾を撃ち込まれ、その後暫くは大人しくしていたようだが、昨今の朝日の傍若無人とも思える偏向 紙面を見ると、まだお灸が足りないやうだ」と評した。朝日の“テロを容認するのか”との抗議申し入れを受け、編集部は「誤解を招く表現だった」として、6 月号で謝罪文を掲載した。中村は10月号で「朝日新聞の売国偏向報道の累積が銃撃事件の引き鉄になつたと、因果関係を示唆したに止まる」と反論した。また、「…お灸が足りないやうだ」の意図について、「赤報隊がお灸をすえるつもりだったかもしれないと客観的に叙述しただけだ」と、朝日新聞社116号事件取材班に答えているテンプレート:Sfn。 また2012年には赤報隊を称える朝日新聞襲撃25周年祝賀国民行進(主催/5・3国民行進実行委員会・協賛/排害社、防共新聞社、きなの会、日本侵略を許さない国民の会、国家社会主義日本労働者党、日の丸友の会、フジモンズなど)が極右団体主催で行われるテンプレート:Sfnなど、テロ行為に賛同する人物が一定数存在している。

模倣犯による犯行など

「冥途の飛脚」名の脅迫状

1996年8月、10月、12月に社会科教科書の執筆者や出版社社長宅、会社に「偏向教科書糾弾期成会 日本主義劇団 冥途の飛脚」、「関西日本原理主義劇団 冥途の飛脚」を名乗り脅迫状が送りつけられたテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。「貴社の歴史教科書は偏向自虐的 な内容で、祖国日本に対する反逆罪を構成致します」「ボンクラ大臣は選挙にうつつを抜かしていても、我々は、覚めた目で事態を注目しています」「飽くまで も合法市民団体だが、会員・会員外の別を問わず、反日マスコミへの如何なる糾弾にも反対せず」「敵の偏向売国勢力が、偏向自虐的教科書を作り続けて来た挙 げ句に、従軍慰安婦問題を、事もあろうに、中学校の教科書に一斉に掲載しました。これは、彼らににとって、勢い余っての勇み足であり、我々にとっては、反撃に転ずる天与の機会であり、神風であります」「これを突破口として、南京事件や、更に偏向史観全体を粉砕することです」「赤報隊精神も想起しましょう」などと書かれていたテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

対NHK実弾送りつけ事件

2009年2月「赤報隊」と印字された紙、実弾がNHKに送りつけられる事件が発生した。6月鹿児島県大分県の右翼団体には「赤報隊 をりようしてください」と印字された紙が郵送された。両者は文字の特徴が似ていて、同一人物の可能性が高いとみられているテンプレート:Sfn。鈴木邦男は、自称実行犯が金目当ての犯行と語った「週刊新潮」の記事に対する抗議のためNHKを使って警告したと分析しているテンプレート:Sfn

2009年2月22日午後、NHK福岡放送局の玄関付近で卓上コンロのカセットボンベが何者かの手で爆破される事件が発生した。防犯カメラにはニット帽にサングラス、マスク姿の男が玄関に入り、自動ドア前にバッグを置き、立ち去る姿が映っていたテンプレート:Sfn。この後、NHK放送センター渋谷)や、長野、福岡、札幌の各放送局に旧日本軍制式銃の三八式歩兵銃実弾が「赤報隊」の名のワープロ文とともに送付される事件が発生したテンプレート:Sfn。また、6月8日NKK広島放送局]]にも、「赤報隊」と記された紙片と旧日本軍使用の三八式歩兵銃の実弾が同封された封筒が届いた。公訴時効成立後の2010年にも、「赤報隊」を称しての不審物送りつけが在日公館などに対して繰り返し行われているテンプレート:Sfn

菅首相・政党幹部脅迫事件

2011年7月1日、菅直人首相の事務所に首相辞任を求める脅迫文と刃物が郵送される事件が起きた。6月27日の消印で大阪府内から投函されていた。脅迫文には「天誅を下す」と記され、「赤報隊一同」を名乗っていたテンプレート:Sfn。また、2011年6月30日、小沢一郎元民主党代表事務所に政界引退などを迫る内容の脅迫文が千枚通しと共に送りつけられた。消印は6月28日、大阪府内で投函され、「赤報隊」を名乗っていた。菅首相脅迫事件と筆跡、内容が似ており、同一犯とみられているテンプレート:Sfn

朝日新聞社への恫喝

阪神支局、名古屋本社寮襲撃事件後、「爆弾を仕掛けた」「記者がまた殺されるぞ」という脅迫電話が300件かけられた。1999年1月24日、朝日新聞東京本社広報室に、「一二〇周年おめでとうございます。警戒モードに入っていますか。一二年前のことを思い出して下さい」という匿名電子メールが届いたテンプレート:Sfn。2007年5月24日、朝日新聞さいたま総局には「社員の1人や2人殺されても仕方がない。第2、第3の阪神支局事件は必ず起きる」と社員の殺害をほのめかす脅迫文が送りつけられた[4]

襲撃事件以後、各地の支局、販売所の窓ガラスが割られ、ゴミ箱に放火される事件が起きた。1988年10月18日未明、水戸支局の窓ガラスが割られ、発炎筒が投げ込まれる事件が発生した。現場では、朝日新聞の昭和天皇に関する記事に抗議するビラがまかれていた。右翼団体の男2人が逮捕されているテンプレート:Sfn

朝日新聞を批判するウェブサイトでは、「(記者の実名)記者一人の生け贄では少なすぎる」と書かれていた。2ちゃんねるの「朝日新聞襲撃事件の時効を祝おう」には、「赤報隊はよくやった」「皆殺しにすればよかったのに」と2ちゃんねらーによる書き込みがあったテンプレート:Sfn

2010 年3月12日、「朝日新聞に挑戦状」と題した脅迫文が朝日新聞水戸総局にファクシミリで送りつけられる事件が発生した。「20年以上前の阪神支局に赤報隊 の散弾銃襲撃事件を忘れたか。即死した記者みたいになりたいか」などと書かれていた。水戸地検は9月17日、脅迫文を送信した医師を脅迫罪で起訴した。起 訴状などによると、医師は出身大学に関する朝日新聞の記事に不満を持っていたテンプレート:Sfn

真相解明への取り組み

捜査

警察は、事件との関連性が疑われる阪神支局における取材上のトラブルの有無などテンプレート:Sfn[5]、関連性が疑われる他の事件(1988年5月のYP体制打倒同盟脅迫状事件、1986年 - 88年の亜細亜独立義勇軍関西部隊脅迫状事件テンプレート:Sfn、1991年12月8日に起きた米軍横須賀基地の車両放火事件テンプレート:Sfnなど)、犯人との関連が疑われる組織・団体、物証などについての捜査を進めた。

また、捜査当局は犯行声明の分析言語学者ら(複数)に依頼した。それによると、犯行声明の筆者は「ある程度知的な三〇代以上の人物」という分析結果が多数を占めた。「反日」という言葉(「反日分子」「反日マスコミ」「反日企業」など19か所ある)にも注目して捜査したテンプレート:Sfn

一連の事件では複数の男が目撃され、兵庫、愛知、静岡県警、警視庁は似顔絵や服装写真を作り、犯人を追ったテンプレート:Sfn。延べ50万人が捜査対象になったテンプレート:Sfn

右翼・新右翼

捜査対象には、 右翼団体テンプレート:Sfnテンプレート:Sfnテンプレート:Sfnテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn新右翼テンプレート:Sfnテンプレート:Sfnテンプレート:Sfnなどが含まれる。1996年5月、朝日新聞の取材に対し國松孝次警察庁長官(当時)は、犯人について新右翼の捜査をしていることを認めた。しかし、「それだけではない」として他の視野での捜査を行っているとした。犯行について「実行犯の補助者」の存在なしでは困難との見方を示した。

1998年1月、警察庁で警視庁兵庫県警愛知県警静岡県警の合同捜査会議が開かれ、動機から思想犯として右翼関係9人(後に1人追加され10人テンプレート:Sfn)のリストが示された。9人は全員事件との関わりを否定したが、捜査幹部の一人は「彼らの周辺に容疑者がいる可能性は、今も否定できない」と話したテンプレート:Sfn

犯人らは自らを「日本民族独立義勇軍」の関係者であるかのように示唆していたが、この名称を名乗る団体は、1981年から1983年にかけて朝日新聞や米ソ領事館にテロ攻撃をしかけている。この犯行声明が一水会に送られ、同会の幹部らが同調的な動きを示していたこともわかっており、警察は同会周辺を徹底的に捜査したテンプレート:Sfn

宗教団体

宗教団体テンプレート:Sfnも捜査対象となった。朝日新聞社の発行する『朝日ジャーナル』などが統一教会(世界基督教統一神霊協会)の「霊感商法」批判を展開していたテンプレート:Sfnことに対し統一教会側からの反発が強かったテンプレート:Sfnことや、上記の統一教会の名を使った脅迫状(事件直後に「とういつきょうかいの わるくちをいうやつは みなごろしだ」テンプレート:Sfn[6]という脅迫状が事件で使われた銃弾と同一の薬莢2個と同封されて届いた)、『朝日ジャーナル』の編集長をしていた筑紫哲也宛に脅迫状が届いていたテンプレート:Sfnことなどから、統一教会の関係者の関与も疑われ、捜査の対象になったテンプレート:Sfn

物証

事件では多くの物証が残された。

阪神支局で使われた凶器は、銃身を30センチ程度に切り詰める改造を施された散弾銃と見られているテンプレート:Sfn。犯人は二発発砲したにも関わらず、現場に空薬きょうが残されていないことから、2連銃身式の散弾銃が使用されたと推測される。ただし事件に遭遇した記者は銃口は一つと証言しており、自動銃であった可能性も捨てきれないテンプレート:Sfn。警察は、20万人の銃所持者と9万人の弾購入者を捜査したテンプレート:Sfn

朝日新聞1988年3月15日付朝刊は、ピース缶爆弾に使用された物の遺留品について報じている。静岡支局事件で使われたピース缶爆弾は、秋葉原で18品目中13品目そろえられることから、捜査当局は秋葉原電気街で部品を購入と推理、捜査した。爆弾は合板に固定したピース缶(黒色猟用火薬、釘)、乾電池、スイッチ、電線などで出来、松屋百貨店の紙袋に入っていた。

この他、犯行に使われた疑いのある車両テンプレート:Sfn・ワープロテンプレート:Sfn、犯行声明が入れられていた封筒テンプレート:Sfn、犯人が着用していた可能性のある服・靴テンプレート:Sfn指紋掌紋テンプレート:Sfnテンプレート:Sfnなどについて捜査している。

報道機関の活動

朝日新聞社116号事件取材班

襲撃事件直後朝日新聞社内に「特命取材班」が結成されテンプレート:Sfn、時効後も赤報隊の正体を追っている。1989年、取材班は『襲撃事件取材マニュアル』(84ページ)を作成し、全国の支局に配布した。冒頭には「赤報隊の正体を解明する糸口はどこにあるかわかりません。どんなささいな情報も逃さず取材班へ」と書かれているテンプレート:Sfn。2001年5月から1年間「15年目の報告」と題した特集記事を毎月紙面化した(『新聞社襲撃 テロリズムと対峙した15年』岩波書店に収録)。

事件の背景と犯人像に関する推測

犯人像

犯人像について兵庫県警警備課次席は「犯人は右翼だと思う。犯行声明に書かれていた『日本民族独立義勇軍』という名は、一般には知られておらず、勉強していなければ出てこない名称だ」としたテンプレート:Sfnゲプハルト・ヒールシャーテンプレート:Sfn堀幸雄テンプレート:Sfnらも、犯人を右翼と示唆している。

赤報隊の主張には新右翼との類似性が認められる。しかしその断定には異論も多い。従来の右翼とは細かな点で矛盾するところが多いテンプレート:Sfn野村秋介も「赤報隊は右翼ではない」と主張しているテンプレート:Sfn

捜査幹部は「『赤報隊』が静岡事件で、3月10日の旧陸軍記念日を意識して行動していた形跡が窺えることから、旧日本軍関係者まで捜査範囲を広げた」と語ったテンプレート:Sfn。ある公安関係者は「朝日新聞を批判し、反権力的な思想を持つグループの中から有力な容疑者が浮かび上がってきた」「本当の動機を持ち、陰で実行犯を操る黒幕こそ真犯人」と述べているテンプレート:Sfn

井上ひさしは「赤報隊」を名乗った犯人が朝日新聞などを「反日分子」としたことに注目し、犯人が「大日本帝国憲法の信奉者」であるとしたテンプレート:Sfn

潜在右翼説

鈴木邦男は著書『赤報隊の秘密』で「もし赤報隊が新右翼だとしたら」を記述したり、他にも事件について述べている[7]。鈴木は赤報隊を「絶望的な気持ちを持っていた‘潜在右翼’」と推理した[8]。また元捜査幹部の説として、赤報隊は警察が「潜在右翼」と呼ぶ、三島思想を受け継ぐ新右翼運動の流れの中にいる人物ではないかというテンプレート:Sfn。 鈴木はジャーナリスト、大谷昭宏の「赤報隊は目的を達したのか」という質問に、「達したから止めたんでしょう。思想的に世の中を変えたと思っているじゃないですか。15年前は憲法改正と言っただけで、みんな反動だと叩かれた。今は誰でも言っている」と答えている[9]

元自衛官説

2001年11月半ば、朝日新聞大阪本社116号事件取材班に「実行犯は右翼思想を持つ元自衛官。事件当時30歳ぐらい。その後関西の寺の住職になったが、数年前に死んだ」と電話があり、取材班が元自衛官を追跡した。1980年代初め、海外に拠点のある宗教団体に在籍していた。除隊後右翼団体に入り、散弾銃を所持、「右翼は非公然組織を持ち、武器の扱いに精通すべきだ」と話している。1988年右翼団体をやめ、関西の寺に入り、一酸化炭素中毒死したことが判明しているテンプレート:Sfn

東京在住インテリ系右翼説

右翼的表現を使用し、手慣れた文章で犯行声明を書く。東京都を省略したり、「都内」と送付先を書き出す。「関西」「中京方面」と表現し、東京新聞を標的にしたことから、「東京を拠点に全国規模で活動する中高年のインテリ系右翼」と捜査当局は犯人像を描いた[10]

目撃情報

犯人らしき人物の目撃情報として次のような事項が報道されている。

動機

原寿雄は事件に対し、中曽根首相の靖国神社公式参拝、国家秘密法推進、「皇国史観国家主義に基づく歴史教科書」に朝日新聞が強く反対し、「中曽根批判の先導的役割を果たした」ことを「事件との関連で重視する」としたテンプレート:Sfn牧太郎も、中国韓国の批判による中曽根の靖国参拝中止、教科書の修正が赤報隊脅迫の原因との見方を示したテンプレート:Sfn堀幸雄は犯人が復古主義を志向していることを示唆しているテンプレート:Sfn茶本繁正は朝日新聞が国家秘密法反対運動で大きな役割を果たしたことが、事件の背景になった可能性に言及したテンプレート:Sfn

靖国と教科書

中曽根に出された脅迫状に「貴殿は総理であったとき靖国参拝教科書問題で日本民族を裏切った」とあったことから、捜査幹部は「靖国と教科書」を動機の本筋と見ているテンプレート:Sfn。また、捜査当局は靖国参拝、教科書問題への不満からの抗議と判断テンプレート:Sfn歴史教科書問題が事件の発端になった可能性もあるとみているテンプレート:Sfn。ある捜査幹部は「犯人が右翼思想の持主なら、靖国神社参拝や教科書問題をめぐる中曽根政権の対応に忸怩たる思いがあったはずで、そうした気持ちが爆発したのが116号事件ではないか」と語ったテンプレート:Sfn

国家秘密法批判

1979年国際勝共連合などがスパイ防止法制定促進国民会議を発足させテンプレート:Sfn、1984年4月自民党のほとんどの国会議員民社党の一部議員、経済界法曹界保守派や保守的文化人らがスパイ防止法制定促進議員・有識者懇談会をスタートさせたテンプレート:Sfn[11]。1985年6月自民党国家秘密法案を国会に提出し、同法案をめぐって激しい論争が起きたテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。最高刑を死刑とするメディア統制法に対し新聞界では反対運動が広がり、朝日、毎日、東京、神奈川新聞琉球新報信濃毎日新聞北海道新聞、共同通信などが反対キャンペーンを張り、朝日は社説で廃案を主張した。1986年11月25日の紙面は「国家秘密法増える反対議会」と題し、全国調査の特集を組むなど朝日新聞が法案を強く批判していた。捜査当局はこのことに触発された可能性もあると見ているテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

参考文献

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister

外部リンク

テンプレート:朝日新聞社

テンプレート:Crime-stub
  1. NHKスペシャル 未解決事件 事件リスト
  2. NHKスペシャル 未解決事件 事件に関する情報募集中
  3. 『明日も喋ろう 弔旗が風に鳴るように』(朝日カルチャーセンター)
  4. 2007年5月24日共同通信
  5. 「サンデー毎日」(1997年5月11日・18日合併号)
  6. [1]衆議院会議録情報 第108回国会 法務委員会 第3号
  7. 鈴木邦男をぶっとばせ!赤報隊事件。最後の真実謎の二重人格者・怪人K・伝なんと、全生庵で講演しました=夢か現実か。「赤報隊」体験ゲーム=
  8. 週刊文春1997年5月15号
  9. サンデープロジェクト(2002年4月28日放送)「朝日新聞襲撃事件 15年目の真実」
  10. 別冊宝島編集部『迷宮入り!』p.80
  11. 「スパイ防止法制定促進議員・有識者懇談会」役員名簿