神風

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神風(かみかぜ、しんぷう、かむかぜ)は神道用語。の威力によって吹く強い風を意味する。

古くは日本書紀の垂仁紀において、「神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の波の敷浪の帰する国なり。この国に居らむと思ふ」という倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が天照大神から受けた神託などに登場する。「神風の」は伊勢にかかる枕詞である(「神風や」は伊勢神宮に関係の深い五十鈴川などにもかかる)[1]

元寇の神風

文永・弘安の役での2度にわたる元寇で元軍に大損害を与えた暴風雨のこと。 中国大陸・朝鮮半島をほぼ制圧したは、日本に対して元の属国となって朝貢することを迫った。 この要求を時の鎌倉幕府執権北条時宗が拒絶したところ、1274年(文永10年)と1281年(弘安4年)の二度にわたり武力併合を行なうべく、征服併合した高麗らの軍勢を従えて大船団で日本本土に攻め寄せた(元寇)。

元寇の第一回目の文永の役(ぶんえいのえき)では、元側の史料『高麗史』によると、博多湾から上陸した元軍は日本軍の激しい抵抗を受け、副司令官である左副元帥・劉復亨が負傷するなど苦戦したため、元軍総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)は「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、少数の兵(元軍)が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力(日本軍)の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」と述べ、元軍は撤退することに決したとされる[2]。危険な夜間の撤退を強行した元軍はその撤退道中に暴風雨に遭い、朝鮮半島の合浦に帰還した時には、13,500余人の不帰還者を出していた[3]

二回目の元寇・弘安の役(こうあんのえき)では、元軍は日本軍の猛攻(志賀島の戦い壱岐島の戦い鷹島沖海戦)で苦戦を強いられ、二ヶ月近く海上に停滞していたまま台風に遭い、大損害を出して混乱したところを日本軍の総攻撃を受けて、壊滅した(御厨海上合戦鷹島掃討戦)。元軍の捕虜は2、3万にも達した[4]

神風連(しんぷうれん)の乱

1876年(明治9年)に熊本鎮台で起きた、明治政府への士族反乱。神風連の変と呼ぶこともある。「連」というのは熊本で言う郷党組織の事。詳しくは神風連の乱参照。

神風連は政府の開明政策に反対する復古主義排外主義を主張しており、国粋主義的な思想背景を持っていた。神風連(敬神党)の名は神道の信仰に由来する。

これを題材とする作品に三島由紀夫の四部作『豊饒の海第二巻「奔馬」』がある。

鉄道と航空機

1937年(昭和12年)に東京からロンドンまでの100時間を切る記録飛行に成功した朝日新聞社の航空機は神風号と称し、その乗務員が帰国して前述した伊勢神宮に参拝する事になったため、同年5月24日に現在の近畿日本鉄道(近鉄)の母系会社である大阪電気軌道(大軌)とその子会社の参宮急行電鉄(参急)は、大阪の上本町駅(現・大阪上本町駅)から伊勢神宮外宮の最寄駅である宇治山田駅まで臨時の記念特急電車を運行し、その特急電車も「神風」と名づけられた。

「神風」はその翌日から同社の定期特急列車の名前に採用され、1938年(昭和13年)ごろまで大軌の看板列車として走り続けた。なお、航空機の方の「神風」に基づいたクラシック音楽で、神戸出身の作曲家大澤壽人による「ピアノ協奏曲第3番《神風》」というものがある。

第二次世界大戦の神風

「神風」は、日本のその後の思想に大きな影響を与えた。特別攻撃隊神風(Kamikaze)は、元寇を追い払った神風と同様に、連合国を討つということに由来する。この神風特別攻撃隊の事例は、世界的に有名となり、諸外国においてもその影響は大きく、日本語Kamikazeという語は、身の危険を省みない攻撃、場合によっては自爆テロに対する、形容詞的用法の言葉として定着している。

ヘロドトスの「神風」

古代ギリシア歴史家ヘロドトスの『歴史』によれば、紀元前492年アケメネス朝ペルシア帝国海軍が、ギリシア本土に侵攻しようとした際、アトス半島で「神風」にあって艦船が大破、ペルシャ軍は戦わずして潰走したとされている。

ギリシア神話に基づけば、この風はにギリシアの北方から冷たい風をもたらすボレアス(Boreas)という神が呼び起こしたもので、時には恐ろしい破壊をもたらしたという。

ボレアスがアテナイの王女オレイテュイアを略奪する神話は、芸術作品の素材としてもよく知られており、アテナイの人々はボレアスを親類としていた。

なお、イソップ物語に登場する『北風と太陽』は本来ボレアスと太陽神アポロンのやりとりであったと言われている。

比喩としての「神風」

元寇の時の故事に由来して、思いがけない幸運に恵まれることについて「神風が吹く」という表現が使われる。

また、神風特攻隊に由来して、身の危険を省みない攻撃に対する比喩としても用いられる。アメリカ同時多発テロ事件の頃から、アルカーイダによる自爆テロに対しKamikazeという形容語が各種マスコミ(欧米、及びアラブ寄りのマスコミ)によって用いられた。外来語が原義と異なる意味になる例として、英語のkamikazeと日本語の神風の意味にずれが生じるのは外来語取り入れの過程で他にも起きることである。また日本でも戦後、乱暴な運転を行うタクシーを「神風タクシー」と呼んだ例がある。

脚注

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関連項目

  • 松村明他「古語辞典」(第十版)旺文社 2008年
  • 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「諸軍與戰、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、『兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰』、忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍』復亨中流矢、先登舟、遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸岩多敗、侁堕水死、到合浦、」
  • 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年(十一月)己亥(二十七日)の条「己亥、東征師還合浦、遣同知樞密院事張鎰勞之、軍不還者無慮萬三千五百餘人。」
  • 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「七日日本人来戦、盡死。余二三萬為其虜去」