士族反乱

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 士族反乱
戦争:士族反乱
年月日1874年2月 - 3月
1876年10月 - 12月
1877年2月 - 9月
場所鹿児島県佐賀県熊本県福岡県山口県
結果:政府軍の勝利、徴兵制の確立。
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1868 不平士族
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士族反乱(しぞくはんらん)は、日本明治初期に旧武士階級であった士族明治政府に対して起こした一連の反政府活動である。

概要

江戸時代後期に開国し、王政復古により成立した明治政府は四民平等政策のもと、大名、武士階級を廃止して華族、士族を創設する。秩禄処分により俸禄(家禄)制度は撤廃され、廃刀令の施行など身分的特権も廃された。また、明治政府が行う文明開化殖産興業政策による西洋技術・文化の輸入、朝鮮出兵を巡る征韓論で政府が紛糾し、明治六年政変西郷隆盛江藤新平板垣退助らが下野すると士族層に影響を与え、明治政府に反対する士族は「不平士族」と呼ばれた。

1874年に江藤が故郷の佐賀県で擁立されて反乱佐賀の乱)し、1876年には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧された。

1877年には旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して、日本国内では最大規模の内戦となる西南戦争が勃発した。政府は反乱軍の2倍以上の兵力を投入し鎮圧したが、兵数、装備、兵站など、政府軍はあらゆる面で西郷軍より有利な条件を有していたにもかかわらず、同等の戦死者数、戦傷者が発生するなど、政府の軍事的な弱さを露呈する結果ともなった。この戦いは日本のその後の富国強兵政策の礎になった。また、いわゆる薩長土肥出身者による藩閥を生むことにもなった。

西南戦争以後、不平士族の反対運動は国会開設や憲法制定を要求する自由民権運動に移行する。

関連項目