西尾幹二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年8月13日 (水) 19:21時点におけるSeibuabina (トーク)による版 (Category:慰安婦問題の人物を除去 (HotCat使用))
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:Infobox 作家 西尾 幹二(にしお かんじ、1935年7月20日 - )は、日本ドイツ文学者思想家評論家学位文学博士東京大学)。電気通信大学名誉教授

生い立ち

東京府に生まれる。少年時代は文学少年であり、詩人を目指していたという。終戦を疎開先の茨城県東茨城郡村落で迎える。終戦時は10歳で、得体の知れない不安感・虚脱感にさいなまれ、疎開先では当時の大人たちの奇妙な集団行動を目の当たりにしたと、『国民の歴史』『わたしの昭和史』で語っている。

東京都立小石川高等学校を経て、1958年東京大学文学部独文科卒。1961年大学院修士課程修了。文学部の同期には大江健三郎がいる。ドイツ文学科の同期生には小堀桂一郎柴田翔柏原兵三がいる。指導教官は手塚富雄であった。当時のドイツ文学科教員には他に登張正実生野幸吉などがいた。

文化人としての軌跡

論壇・文壇への登場

1965年から67年にかけ、ミュンヘン大学研究員として西ドイツに留学し、この経験をもとに執筆した論考が論壇に注目された。論考集は処女作『ヨーロッパ像の転換』になった。ついで発表した『ヨーロッパの個人主義』は各方面からの称賛を得、同著について梅原猛は「一人の思想家の登場をみた」と同著のカバー推薦文で述べている。

ほぼ同時期、文芸評論家として文壇にもデビューする。論壇・文壇への登場は、西尾の才覚を早くから認めていた福田恆存の推挙による面も大きく、西尾もまた福田の思想の影響を受け、両者は福田が没するまで深い交流があった(「西尾幹二のインターネット日録」参照)批評家として小林秀雄論をはじめ様々な作家論を発表、また三島由紀夫の自決に際し、三島論「不自由への情熱」を月刊文芸誌「新潮」に掲載した。後述するが生前の三島と西尾は交友があった。晩年の小林秀雄と会った際、西尾はブルクハルトについて小林と議論している[1]。また西尾は数多くの戦後作家の中で作家上田三四二の作品・人柄がもつ死生観に非常に大きな影響を受けたとしている。

ドイツ哲学・ドイツ思想の専門家から独自の哲学者・思想家へ

アカデミズムの世界にはニーチェの研究と翻訳で登場する。『悲劇の誕生』、『偶像の黄昏』、『アンチ・クリスト』、『この人を見よ』などのニーチェの書の翻訳や、『ニーチェとの対話』をはじめとする様々なニーチェ論を発表。ニーチェ以外のドイツ哲学者については、中央公論社「世界の名著」シリーズ『ショーペンハウアー 意志と表象としての世界』の翻訳と、ショーペンハウアー論(「ショーペンハウアーの思想と人間像」)などがある。電気通信大学講師・助教授を経て1975年に教授。1979年に「初期のニーチェ」により東京大学より文学博士を授与された。

1990年代後半に至ると、こうしたドイツ哲学研究・ドイツ思想研究の蓄積を、江戸期の日本思想への関心と連関させた独自の思想研究を開始、21世紀に入って開始された数年に渡る雑誌連載の論考を『江戸のダイナミズム』(文藝春秋社)にまとめた。

こうした仕事以外に、モラリスト的思索に徹した哲学論考や哲学エッセイを数多く執筆しており、それらは『人生の価値について』(新潮社)、『人生の深淵について』(洋泉社)などにまとめられている。小浜逸郎は西尾の哲学論考・哲学エッセイについて、「・・・日常で出会うふとした経験の数々からの一瞬の感知を自ら過たず捕捉し、それを若き日に積んだ読書体験による確乎たる人間観に結合させていく巧みな氏の手法は並大抵のものとは思われない」(『人生の深淵について』解説)とし、モンテーニュパスカルラ・ロシュフーコーキルケゴールニーチェカミュ小林秀雄福田恆存の系譜に連なるモラリスト哲学者に西尾を位置づけている。

ハイデッガー研究者の川原栄峰とは深い交友があった。たとえば川原の長男が登山で遭難死したのち、毎月川原が息子の墓参りをする帰路に西尾の自宅に立ち寄り、そこで哲学的議論をするのがお互い楽しみであったというエピソードを述べている(「日本ショーペンハウアー協会会報」42号)。カント哲学研究から始めた中島義道の才覚を認め、『ウィーン愛憎』など初期の中島の著作の発表の場を推薦提供し、電気通信大学に中島を招聘したのは西尾である。中島も西尾の業績を深く尊敬しており、たとえば西尾の『ニーチェとの対話』について、「この本は日本の人文科学の一つの大きな財産である」と高く評価している(中島義道『哲学の教科書』など)。

政治的論客として

以上のような論壇・文壇・アカデミズムでの活動とパラレルな形での政治的言論活動を1970年代後半以降、旺盛に展開しはじめる。経済評論家の草柳大蔵は、政治的論客としての西尾の論理回転の早さについて「知的超特急」と形容している(『労働鎖国のすすめ』カッパブックスのカバー推薦より)。

冷戦時代後期では、自身のヨーロッパ文明論を論理的武器に、冷戦最中のソ連を訪問、現地の文学官僚と様々な議論を行う(『ソ連知識人との対話』に所収)。冷戦崩壊後直後には、精神的荒廃に直面している東欧各国を訪れ各国知識人と、自由その他の思想的テーマをめぐり対話・論争を展開し、共産社会の想像を絶する残忍な過去、急激な自由化がもたらした多面にわたる困難の両方を明らかにした(『全体主義の呪い』など所収)また冷戦後の西ヨーロッパについて、行き詰まりにまで至った自由の飽和とそれがもたらす停滞、荒廃を批判している(『自由の悲劇』など所収)この時期の西尾は、「自由」ということへの深刻な問題認識を前提にして、楽天的なグローバリズムや単純な西側優位論を排する論陣を張っていた。

また後述のように、ドイツと日本の戦後責任論を安易に比較することの危うさを早くから指摘し、「ドイツは謝罪したが日本は謝罪していない」という進歩派文化人の戦争責任論に対して、「ドイツは自国民に謝罪しているが交戦国には謝罪していない」「ドイツはナチスという危険団体を選んだことに謝罪しているだけである」「ナチスの戦争犯罪のスケールは国家そのものが犯罪集団と化した桁違いのものであって、戦時下の日本との比較はそもそも不可能である」等の反論を行い、ナチスの戦争犯罪を「人類そのものへの犯罪」としたドイツの哲学者ヤスパースの分類を紹介しこれを支持している(後述)

さらにこれらの問題論争と前後して外国人労働者受け入れ問題での受け入れ懐疑派の急先鋒として、受け入れ賛成派の石川好などとテレビ番組などで激しい論戦を展開、外国人労働者の受け入れによって日本文化に試練を与えるべきだとする石川の見解を、「安易なセンチメンタリズム」と批判、西ヨーロッパの例をひいて外国人労働者の大量受け入れは国民文化の根幹を瓦解させる危険性があることを指摘した(『労働鎖国のすすめ』など所収)また中教審委員として教育問題にも積極的にコミットし、メディア全体によく知られるようになった(『教育と自由』など所収)。

このような言論活動から政治図式的には保守派論客として取り上げられることが多いが、党派的な保守主義やナショナリズムに対しては警戒心を絶えずもっており、『保守の怒り』などの近著において硬直化した保守派やナショナリストの一部に対し、「カルト右翼」や「神社右翼」などと厳しく罵倒している。一例として、台湾独立運動について保守派の多数が唱えている一面的な台湾賛美とは一線を画す議論を展開している。「台湾も所詮は中国と同根の反日集団の面をもっており、かならずしも擁護に値しない」と雑誌『正論』などで主張し、親台湾派の金美齢小林よしのりらから非難された。特に小林は、「まるで、後ろから斬りつけるような卑怯な姿勢だ」と西尾を強く非難した。しかし小林はその後まもなくして、著書『台湾論』を台湾内の反日勢力によって問題にされ、台湾政府から一時的に入国禁止になった。

協調・賛同できる面では一般的な保守主義陣営と共同行動している。2007年には南京大虐殺虚構論を唱える映画「南京の真実」に西部邁たち多くの右派・保守系知識人と共に賛同、西尾は製作記者会見に出席し、東京裁判の不当性を訴えた。これはNHK批判運動や人権擁護法批判運動に関しても同様である。

テンプレート:要出典範囲

つくる会での活動

新しい歴史教科書をつくる会の設立人の一人である。1996年8月、西尾と藤岡信勝が出会い、各界有志に呼びかけを行ったことで、「つくる会」が発足した。翌1997年1月30日、「つくる会」の初代会長に就任、大著『国民の歴史』を執筆、つくる会運動のオピニオンリーダーの地位を得て教科書運動の前面で活躍した。2001年に会長の座を田中英道に譲り、名誉会長となった後も「つくる会」の中心人物であった。その後2006年1月17日に、「その精神活動をよく知らない新しい理事が多数入ってこられて、立派な方も勿論おられるが、私とは話があわなくなってきた人が増えてもいる。言葉が通じなくなってきた」という言葉を残し「つくる会」を離脱、教科書運動の第一線から退いた。

最近の自民党政治への評価

小泉内閣に関しては、政権中期までは好意的で、2003年9月に小泉が自民党総裁に再選された際には、北朝鮮に対する融和姿勢への懸念を除けば評価していた。1990年代の自民党の左傾化に終止符を打ち派閥政治の象徴だった竹下派支配と派閥順送り人事を小泉が徹底的に破壊しつくし、その直後に安倍晋三幹事長に据え自身の後継候補として育て上げたと礼賛していた。西尾の小泉への評価は第二次訪朝あたりから批判的なものに転じることになる。

西尾は自著、雑誌論文、ブログなどを通じ、小泉という人間は首相になる以前は実は、靖国神社公式参拝に何の関心も払っておらず、「面倒くさいのでいかない」という理由で参拝していなかったのに、首相就任後に、中国・韓国に批判を受けたことで意固地になって参拝問題に固執して公式参拝しただけであるという事実を指摘し、小泉の立場は政治的保守主義と何の関係もない小泉の個人的感情の反映だと主張した。また自著『<狂気の首相>で日本は大丈夫か』で、小泉の大学時代の同輩親友で、国会議員時代も一時期交友のあった栗本慎一郎の証言を引用し、小泉自身の信じがたいほどの人間的・知的無能ぶりを暴露指摘している。郵政民営化問題についても批判し、小泉のやっていることは、「民営化」ではなく、「公営のおろかしい強化」であって、郵貯貯金を財務省が悪用することに、小泉自身がよくわからないまま乗っかっているだけだとした。小泉の親米的安全保障政策についても、小泉自身が自分が何をやっているのか認識できていないままアメリカに乗せられているだけだとし、小泉のことを「狂人宰相」、小泉の政策を「国家犯罪」とまで形容するに至った(『<狂気の首相>で日本は大丈夫か』など)文筆だけでなく、2005年9月の総選挙では、保守系内の郵政民営化反対派である城内実衛藤晟一古川禎久などの応援演説をして小泉批判を訴えている(「西尾幹二のインターネット日録」参照)

この一連の小泉批判に関しては自身も反論を受けるが(→小泉訪朝における空白の10分間事件を参照)これについて本人は「小泉政権の陰謀」だと再批判している。テンプレート:要出典範囲。また麻生太郎についても辛辣であり、「安倍晋三以下、バカ太郎」と名付けている[2]安倍晋三については、第一次内閣で真正保守主義的政策を期待されながら、反対勢力に妥協した甘さ、弱さを非難し、以来、安倍の政治的手腕に関しては懐疑的立場を堅持している。

皇室に関する発言

皇室の現状を憂慮しており、皇太子徳仁親王に対して月刊誌WiLL』2008年5月号から「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」と題して連続的に執筆をおこなった。これらの論考は実質的に皇太子徳仁親王妃雅子についての問題を扱ったものであった。「雅子妃は健康であり、公務を欠席しているのは仮病である」と『WiLL』 (「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」)で主張、さらにこの雅子妃の問題は、皇室の日本的伝統に、安易に欧米的価値観を侵入させてしまうことの是非の問題でもあるとも論じた。

これら一連の論考以外に、「朝まで生テレビ!」(2008年8月30日) 「たかじんのそこまで言って委員会」(2008年8月17日)などのテレビメディアでも繰り返し同様の主張を展開した。西尾のこの雅子妃への批判的な主張にはテンプレート:要出典範囲が、テンプレート:いつ範囲、またこれが遠因となって(教科書運動・憲法論議で共同活動した)日本会議日本青年協議会らの保守運動団体とも袂を分かつことになった。なお、女系天皇の是非の問題に関しては、男系天皇論を一貫して強力に主張している。皇室論では、今上天皇同級生の橋本明とも対談している。

皇室論をタブー視していた言論界で西尾があえてそれに踏み切った意志の背景には、かつて西尾が私淑していた三島由紀夫が皇室論のタブーに少しも怯まなかったことへの深い敬意が影響している[3]。それは三島の提唱していたある意味、天皇にとって最も過酷で徹底していた皇室論のことを指しているもので[3]、三島は、天皇が近代的な快適で便利な生活(電話やテレビを部屋に設置すること)をするのも好ましくないと主張し[4]、一般のセレブのように扱われる皇室(三島曰く“週刊誌天皇制”)を否定していたこと[4][5]に関連するものである[3]。三島は、「天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレーションの最後の救世主として、そこにいなけりゃならない」「天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ」「天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根元にあるのは、とにかく“お祭”だ、ということです。天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、――それだけだ」[4] と述べ、天皇にとって最も重要なのは、新嘗祭などの古来からの宗教性や神聖であり[4][5]、日本の「西欧化の宿命」「世俗化の宿命」と闘う最後の悲劇意志の象徴としての皇室(最後のトリデ)というものを理想にしていた皇室論で[4][5]明治維新二・二六事件の時のような革命の象徴にもなりえる天皇というものを想定していたものである[5][3]

なお『WiLL』2008年8月号で「これが最後の皇太子さまへの御忠言」にて、会田雄次が1968年に語った「いまの皇太子(今上天皇)は、あんな不自由な寒くてしょうがないところはいやだといって、都ホテルへ泊まられるのですよ。この点は、訓練の相違もあるんでしょう。これは大きな問題だと思うのです」を引用しているが、宮内庁報道室から当時の資料からはそのような事実はないとの注意を受けて訂正を求められ[6]、著書「皇太子さまへのご忠言」(84ページ)でその旨を記している。

その他の主張

  • 留学経験も有したドイツ思想・ドイツ哲学の専門家として、ドイツの文化に造詣が深く、ドイツ社会の現状や言論事情などにも精通しているが、ドイツに対してはそうした豊富な知識・分析をふまえた上での批判的な発言が多い。『異なる悲劇・日本とドイツ』(文藝春秋)をはじめとする著作や寄稿において、ナチス・ドイツを批判することとあわせて、「戦後ドイツが戦後日本よりも大戦を反省している」と言った戦後ドイツの政治的狡猾さを手厳しく批判している。このことに関して「想像を絶するジェノサイド国家だったナチス・ドイツと、通常の戦争遂行国家であった日本を同一の次元で論じることがそもそも間違いであること」「戦後ドイツ人は、ナチスという団体をドイツ人が選んだことの反省を表明しているだけであって、実は自分たち自身の反省を表明しているのではないこと」などの指摘をしている。1995年に起きたマルコポーロ事件においても「ナチスのすさまじい極悪さを少しも理解していない」と言う理由で、旧知の間柄である文藝春秋を批判した。(『宝島30』1995年4月号)ただし、その一方で、「ホロコースト」の事実関係については、「日本人には、ガス室の有無は検証できない」とする言わば不可知論の立場も表明し、ユダヤ人ホロコースト問題については、二面的な議論を展開している。
  • 慰安婦問題に対しては「性奴隷説」に異議を唱える立場であり、2007年7月13日に米国大使館に手渡された米下院121号決議全面撤回を求める日本文化チャンネル桜主導の抗議書[7]にも賛同者として名を連ねている[8]
  • 現代中国に対しては一貫して批判的立場をとっており、とりわけ2010年に起きた中国漁船の尖閣諸島近海での日本領海侵犯事件後、『尖閣戦争・米中挟み撃ちにあった日本』(青木直人との共著)などの著作で中国の対日侵略計画、対世界侵略計画に注意すべきとする主張を強くしている。アメリカの覇権に対しても批判的であり、米中両国の世界戦略の狭間で日本が独立的な政治路線を採れていない現状に対して警鐘を鳴らしている。アメリカに関しては、GHQが終戦後の日本占領に際して、緻密かつ広範囲に当時の日本の文献を焚書していたという言論統制の事実を暴露する言論活動を展開している(『GHQ焚書図書開封』で刊行中)。これはかつて江藤淳1980年代から度々問題提起した、占領下にGHQなどによる「閉ざされた言語空間」の歴史問題に大きく具体的な形で踏み込んだ形であり、また、こうしたアメリカの歴史的実態を解明することで、西尾の反米主義が単なるスローガンに過ぎない反米主義と違う、厚みのある「反」を志向していることを示しているといえる。さらに近年、日米戦争がアメリカ側から仕掛けられたある種の「宗教戦争」であるというという歴史論を著書『天皇と原爆』その他で展開し、独自の反米主義を深化させている。西尾によればアメリカという国家は「闇の宗教」を内在させた「宗教国家」であり、そのアメリカが海外侵略の東進の過程で出会った「異質の宗教国家」=「はじめての他者」が日本であったという視点から日米戦争の意義を再構成すべきだという。
  • 核武装の推進論者である。一方原子力発電に対しては、かつては肯定派的立場であったが、福島原発事故を受けて、段階的に縮小し最終的には全廃するという否定的立場に転じた[9]。原発推進を事故後も唱える保守派言論界を「思慮の欠如、ないし思考の空想性を覚えるだけでなく、ある種の「怪しさ」や「まがまがしさ」を感じている」と批判している。竹田恒泰との近著『女系天皇問題と脱原発』では、原発推進派に潜在している体質的な問題構造を多面にわたり指摘している。例えば「安全保障の面から見ても、原発というのは非常にやっかいな存在なんですよ。単純に言うと原発があるだけでもって、そこに核地雷があるようなものですから。上空からバンカーバスター(地中貫通爆弾)を直撃させれば、そこが核爆発するということです」「日本の原発は、いわゆる海上から迫ってくるテロに対して、まったく無力、無防備なんですな。なんと驚くべきことに、日本は原発の防衛について、民間の警備会社に依存しているんですよ。考えられない話です」「再稼働に関して地震と津波への対策のことは盛んに言われているんだけれども、テロ対策については一言も触れられないんですよ」と述べ、とりわけ国土に原発を置くことに対する国防・安全保障上のリスクに警鐘を鳴らしている[10]
  • 生前の三島由紀夫は、西尾の才覚に早くから注目し高く評価していた。西尾の処女作である『ヨーロッパ像の転換』について「この書は日本人によってはじめて書かれた「ペルシア人の手紙」である」と帯文で絶賛している。西尾もまた、三島の文学と思想に強く惹かれ、両者には交流があった。交友期間は三島の自決事件により短期間で終わったが、三島の親友であった澁澤龍彦は、三島の死後さまざまな論者によって書かれた三島論の中で、本質を把握した三島への考察は西尾の三島論だけであったと評し、この澁澤の評価がきっかけで西尾と澁澤の間にも、澁澤の死に至るまでの交友が続いた。一方、三島について、侮蔑に近い軽視を三島事件前後に言っていた江藤淳に対しては、西尾は相当な違和感を江藤の死に至るまでもっていたと『三島由紀夫の死と私』で表明している。
  • 2011年より、全22巻・数年にわたる計画で、「西尾幹二全集」の刊行が国書刊行会より開始されている。
  • インターネットの力を高く評価している[11]。自身のブログの執筆に力を入れており、またインターネットで秀逸な論考を発見すると自身のブログで紹介することもある。21世紀は現実的出版とインターネット世界の相互協力、棲み分けの時代になると近著『西尾幹二のブログ論壇』で主張している。

著書

単著

  • ヨーロッパ像の転換 新潮選書, 1969
  • ヨーロッパの個人主義-人は自由という思想に耐えられるか 講談社現代新書, 1969
    • 「個人主義とは何か」に改題増補、PHP新書, 2007
  • 悲劇人の姿勢 新潮社, 1971
  • 情熱を喪った光景 河出書房新社, 1972
  • 懐疑の精神 中央公論社<中公叢書>, 1974
  • 地図のない時代-反時流的考察 読売新聞社〈読売選書〉, 1976
  • ニーチェ(第1・2部) 中央公論社, 1977年5月・6月
  • ニーチェとの対話-ツァラトゥストラ私評 講談社現代新書, 1978
  • 新開国のすすめ-日本文化再生の条件 日本経済新聞社, 1979
  • ソ連知識人との対話 文藝春秋, 1979、中公文庫, 1986
  • 鎖国の跫音-現代日本の精神的諸相, PHP研究所, 1981
  • 西欧の無知 日本の怠惰 文藝春秋, 1982、PHP文庫, 1990
  • 日本の教育 ドイツの教育 新潮選書, 1982
  • 日本の教育-智恵と矛盾 中央公論社<中公叢書>, 1985
  • 行為する思索 中央公論社, 1987
  • 戦略的「鎖国」論 講談社, 1988、講談社文庫, 1992
    • 「中国人に対する「労働鎖国」のすすめ」に改題増補 飛鳥新社, 2013
  • 「労働鎖国」のすすめ 外国人労働者が日本を滅ぼす 光文社<カッパ・ビジネス>, 1989
    • 「労働鎖国のすすめ」に改題、PHP文庫, 1992
  • 智恵の凋落 福武書店, 1989
  • 日本の不安 世界史の転機に考えること PHP研究所, 1990、PHP文庫, 1993
  • 自由の悲劇 未来に何があるか 講談社現代新書, 1990
  • 日本の孤独 誇りある国家であるために PHP研究所, 1991
  • 教育と自由 中教審報告から大学改革へ 新潮選書, 1992
  • 全体主義の呪い 東西ヨーロッパの最前線に見る 新潮選書, 1993
    • 「壁の向うの狂気―東ヨーロッパから北朝鮮へ」に改題増補 恒文社21, 2003
  • 確信の喪失 学習研究社, 1993
    • 「あなたは何を信じて生きるのか」に改題、PHP文庫, 1996
  • 立ちすくむ日本 PHP研究所, 1994
  • 異なる悲劇 日本とドイツ 文藝春秋, 1994、文春文庫, 1997
    • 「日本はナチスと同罪か」に改題、ワック, 2005 ISBN 4898315399
  • 教育を掴む 論争的討議の中から 洋泉社, 1995-対談も含む 
  • 自由の恐怖 宗教から全体主義へ 文藝春秋, 1995
  • 人生の価値について 新潮選書, 1996/ワック, 2006
  • 歴史を裁く愚かさ 新しい歴史教科書のために PHP研究所, 1997、PHP文庫, 2000
  • 現代について 徳間文庫教養シリーズ, 1998
  • 沈黙する歴史 徳間書店, 1998、徳間文庫, 2001
    • 「日本人はアメリカを許していない」に改題、ワック, 2007
  • わたしの昭和史 少年篇(1・2) 新潮選書, 1998
  • 国民の歴史(新しい教科書をつくる会編)、産経新聞ニュースサービス, 1999年10月
    • 「決定版 国民の歴史」 文春文庫(上・下), 2009年10月。ISBN 416750703X&ISBN 4167507048
  • 超然たる人生 PHP研究所, 2001 (一章ごとの形式の選文集)
  • 歴史と科学-日本史を歩く PHP新書, 2001
  • 国を潰してなるものか-憲法・台湾・教科書問題 徳間書店, 2001
  • 歴史と常識-ものの見方の一元化を排す 扶桑社, 2002
  • 日本の根本問題 新潮社, 2003
  • 私は毎日こんな事を考えている-西尾幹二の公開日誌 徳間書店, 2003-ブログ日誌が元
  • 男子、一生の問題 三笠書房, 2004
  • 日本がアメリカから見捨てられる日 徳間書店, 2004
  • 日本人は何に躓いていたのか 勝つ国家に変わる7つの提言 青春出版社, 2004
  • 人生の深淵について 洋泉社, 2005
  • <狂気の首相>で日本は大丈夫か PHPソフトウェア・グループ, 2005
  • 民族への責任-皇室・領土・企業買収・歴史教科書 徳間書店, 2005
  • 江戸のダイナミズム-古代と近代の架け橋 文藝春秋, 2007 ISBN 4163688307
  • 国家と謝罪-対日戦争の跫音が聞こえる 徳間書店, 2007-ブログ記事を含む
  • GHQ焚書図書開封 米占領軍に消された戦前の日本 徳間書店, 2008
  • 皇太子さまへのご忠言 ワック, 2008/ 改訂版(選書判), 2012 ISBN 489831659X
  • 真贋の洞察-保守・思想・情報・経済・政治 文藝春秋, 2008 ISBN 4163703705
  • 三島由紀夫の死と私 PHP研究所, 2008
  • GHQ焚書図書開封2 徳間書店, 2008   
  • 「権力の不在」は国を滅ぼす 日本の分水嶺 ワック, 2009 ISBN 4898311342
  • GHQ焚書図書開封3 徳間書店, 2009
  • 日本をここまで壊したのは誰か 草思社, 2010 ISBN 4794217609
  • GHQ焚書図書開封4 「国体」論と現代 徳間書店, 2010  
  • 西尾幹二のブログ論壇 総和社, 2010-ブログ記事に上記の著作書評などを含む。
  • GHQ焚書図書開封5 ハワイ、満洲、支那の排日 徳間書店, 2011
  • GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜 徳間書店, 2011
  • 平和主義ではない「脱原発」 文藝春秋, 2011
  • 天皇と原爆 新潮社, 2012/ 新潮文庫, 2014.8
  • GHQ焚書図書開封7 戦前の日本人が見抜いた中国の本質 徳間書店, 2012
  • 憂国のリアリズム 感傷を排して世界を見よ ビジネス社, 2013.7 ISBN 4828417168
  • GHQ焚書図書開封8 日米100年戦争~ペリー来航からワシントン会議~ 徳間書店, 2013.8
  • 同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説く時がきた ビジネス社, 2013.12
  • GHQ焚書図書開封9 アメリカからの「宣戦布告」 徳間書店, 2014
  • アメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか 「第二次大戦」前夜にだんだん似てきている、今 ベストセラーズ, 2014

著作集

  • 『西尾幹二の思想と行動』 全3冊、扶桑社, 2000年9月~12月
    • 著作選集:1.ヨーロッパとの対話、2.日本人の自画像、3.論争の精神
  • 『西尾幹二全集』[12] 国書刊行会, 2011年10月~(約5-6年予定)
     函入全22巻、約3ヶ月ごとに刊行予定、一部論考は初書籍化。

翻訳

  • 悲劇の誕生』 ニーチェ、「世界の名著46」(第1回配本)中央公論社, 初版1966年/新版:中公クラシックス, 2004年 
  • 意志と表象としての世界』 ショーペンハウエル、「続 世界の名著10」中央公論社, 初版1975年/新版:中公クラシックス(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ), 2004年-新版解説:鎌田康男
  • ブルクハルト 歴史の中に立つ人間』 カール・レーヴィット、瀧内槙雄共訳
     TBSブリタニカ, 1977年/ちくま学芸文庫, 1994年、※第一部「ブルクハルトとニーチェ」を担当
  • 『ニーチェ全集 1巻(第1期) われわれの教育施設の将来について』(6回の公開講演)、白水社, 1979年-※各全集の担当訳・解説は一部
  • 『ニーチェ全集 2巻(第1期) ギリシア人の悲劇時代における哲学 ほか4篇』 白水社, 1980年 
  • 『ニーチェ全集 4巻(第2期) 遺された著作 1888-89年』 白水社, 1987年-下記2冊の元版

共著

  • 宮下啓三)『ドイツの言語文化――思想と文学を中心に』(旺文社, 1980年)
  • 『思想の出現 西尾幹二対談集』 (東洋経済新報社, 1994年)
  • 藤岡信勝)『国民の油断――歴史教科書が危ない!』(PHP研究所, 1996年)
  • 小室直樹・市川宏)『韓非子の帝王学』(プレジデント社, 1998年)
  • 中西輝政)『日本文明の主張――『国民の歴史』の衝撃』(PHP研究所, 2000年)
  • 長谷川三千子)『あなたも今日から日本人―『国民の歴史』をめぐって』(致知出版社, 2000年)
  • (池田俊二)『自由と宿命――西尾幹二との対話』(洋泉社新書y, 2001年)
  • 三浦朱門)『犯したアメリカ愛した日本――いまなお敗戦後遺症』(ベストセラーズ, 2002年)
  • (金完燮)『日韓大討論』(扶桑社, 2003年)
  • 石破茂)『坐シテ死セズ』(恒文社21, 2003年)
  • 八木秀次)『新・国民の油断――「ジェンダーフリー」「過激な性教育」が日本を亡ぼす』(PHP研究所, 2005年)
  • 平田文昭)『保守の怒り 天皇、戦争、国家の行方』(草思社, 2009年)
  • 青木直人)『尖閣戦争 米中はさみ撃ちにあった日本』(祥伝社新書, 2010年)
  • (青木直人)『第二次尖閣戦争』(祥伝社新書, 2012年11月) 
  • 竹田恒泰)『皇室問題と脱原発』(飛鳥新社, 2012年12月)
  • 柏原竜一福井雄三福地惇)『自ら歴史を貶める日本人』(徳間書店〈徳間ポケット〉, 2012年12月)

編著

  • 『ドイツ文化の基底――思弁と心情のおりなす世界』(有斐閣, 1982年)
  • ドイツ語シンフォニー――初級読本』(朝日出版社, 1990年)
  • 『地球日本史』(産経新聞ニュースサービス, 1998年-2005年)
    • 地球日本史〈1〉日本とヨーロッパの同時勃興 産経新聞ニュースサービス、のち扶桑社文庫
    • 地球日本史〈2〉鎖国は本当にあったのか 産業新聞ニュースサービス、のち扶桑社文庫
    • 地球日本史〈3〉江戸時代が可能にした明治維新 産経新聞ニュースサービス、のち扶桑社文庫
    • 新・地球日本史〈1〉明治中期から第二次大戦まで 産経新聞ニュースサービス
    • 新・地球日本史〈2〉明治中期から第二次大戦まで 産経新聞ニュースサービス
  • 『新しい歴史教科書――「つくる会」の主張』(徳間書店, 2001年)
  • 『すべての18歳に「奉仕義務」を――「教育基本法見直し会議」緊急報告』(小学館文庫, 2000年)
  • 『迫りくる「全体主義」の跫音――歴史教科書「12の新提案」』(小学館文庫, 2001年)
  • 『新しい歴史教科書 次なる戦い』(小学館文庫, 2002年)

共編著

参照

  1. 「行為する思索」(中央公論社)に収録。西尾は、三島と小林の間に、見えにくい形での相互関係があったとみなしている。
  2. 日本文化チャンネル桜日本よ、今...闘論!倒論!討論!2009 平成21年6月26日
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 西尾幹二『三島由紀夫の死と私』(PHP研究所、2008年)38-47頁。196-223頁
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 三島由紀夫福田恆存との対談)「文武両道と死の哲学」(論争ジャーナル 1967年11月号に掲載)。『源泉の感情』(河出書房新社、1970年)、『決定版 三島由紀夫全集第39巻・対談1』(新潮社、2004年)に所収。
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 三島由紀夫(林房雄の対談)「対話・日本人論」(番町書房、1966年)。『決定版 三島由紀夫全集第39巻・対談1』(新潮社、2004年)に所収。
  6. テンプレート:Cite press release
  7. 米下院外交委員会への「抗議書」
  8. 抗議書への賛同者一覧
  9. テンプレート:Cite journal後に西尾の脱原発論は次々に著作や雑誌論文にまとめられつつあり、「左派的論理からではない脱原発論」を模索している。西尾幹二『平和主義ではない「脱原発」―現代リスク文明論』 文藝春秋、2011年。
  10. 西尾幹二/竹田恒泰『女系天皇問題と脱原発』飛鳥新社、2012年、262/264頁。
  11. 諸君!』2009年6月号座談会など
  12. 平成23年1月8日の「坦々塾新年会」で公表し、2月6日付で正式発表。※インターネット日録及び内容見本も参照。最初に第5巻、以後は1巻目より順次刊。

関連項目

外部リンク

テンプレート:Normdaten