渥美清

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テンプレート:ActorActress 渥美 清(あつみ きよし、1928年3月10日 - 1996年8月4日)は、日本俳優。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。愛称は、寅さん、風天(俳号)。身長173㎝、体重70kg[1]

来歴・人物

生涯

1928年(昭和3年)3月10日に、東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で地方新聞の新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。

1934年11月、上野の板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であったという。加えて、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。

1940年板橋城山高等小学校に入学。第二次世界大戦中の1942年巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。1945年に同校を卒業するも、3月10日東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。 卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。

1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞台初出演。

中央大学経済学部入学後、船乗りを志して退学したが母親に猛反対されたため断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。

なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。“渥美”は愛知県渥美半島から採ったとされる。

1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。

1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇東八郎関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。

1954年肺結核で右肺を切除しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。右肺を無くした事で其れまでのドタバタ喜劇が出来なくなった。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。

1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。

1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一関敬六スリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。

1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。

1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。

同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。

当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢岩下志麻三国連太郎丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。

1963年野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。

1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(喜劇急行列車喜劇団体列車喜劇初詣列車)(1967年1968年)なども有名である。

1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』が放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言う結末に視聴者からの抗議が殺到した。

1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹で映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。

1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。

1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。

1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品は現在も続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事 旅路の果て』が、1979年には『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。

映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。特に1977年『八つ墓村』が松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を東宝に抑えられていたため1本きりとなったことは大きな岐路となる。

1979年(昭和54年)4月14日NHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど~昭和のこころ 古賀政男~』では作曲家古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるには至らなかった。また、この時期、今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。

1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年(昭和63年)、紫綬褒章受章。

その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった、遺作は亡くなる直前まで出演した48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花」。

後年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。

ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。

また体調が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌声が枯れ、第48作では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技である。49作目は秋からクランクインが予定されていた。田中裕子がマドンナ役の予定だった。

病気については1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演。48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。

1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば、病院で癌の手術が手遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。また同年6月に49作の映画化の件で話し合い、肉を食べ撮影に意欲を燃やしていたとのことである。

1996年平成8年)8月4日転移性肺癌のため東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院にてこの世を去る。テンプレート:没年齢。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の町屋斎場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。

そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれ、山田洋次が テンプレート:Quotation との弔辞を読み上げた。

世間では、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。

妻は熱心なカトリック信徒で、渥美自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていた事が明らかになっている。

渥美は亡くなるまで芸能活動の仕事をプライベートに持ち込まなかった。そのため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかった。

経歴についての異説

渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。

巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、在籍の有無は公式にはなんとも言えないという。しかし、何人かのOBの証言によれば、在籍はしていたが、卒業はしていないとのことである。

実像

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柴又駅前に立つ車寅次郎の銅像

「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は自身公私混同を非常に嫌い、他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で、撮影協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。

家族構成は妻と子供2人だが、原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることが多かった。長男が公の場に顔を出すのは渥美の死後だった[2]。結婚式は親族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表する事はなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。結婚まで秘密にしていたため、没する数年前でも渥美が独身と思っていた人が多かったようである。渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は『新珠三千代さんごめんなさい。』の迷コメントを出した。

芸能界の関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、黒柳徹子関敬六谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている[3]。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという[4]

脚本家・早坂暁は大学時代に銭湯で渥美清と知り合い、何度もプライベート旅行に行くなど親友となり、渥美は早坂との旅行を大変楽しみにしていた。東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、早坂の故郷である愛媛県北条市(現・松山市)にある「北条鹿島」はお気に入りで何度も訪れており、渥美の最後の句「お遍路が一列に行く虹の中」は、早坂作のドラマ花へんろ(渥美はナレーション担当で、遍路がモチーフになっており、舞台は前述の愛媛県北条市)及び早坂への想いであると思われる。 渥美の死後発見された晩年の手帳には「……家族で旅行に行こう。ギョウさん(早坂暁の暁を音読みしたもの)も一緒に」と綴ってあった。これらのことからも、渥美にとって早坂がどれほど大切な存在であったかが伺われる。 早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられないことを危惧し、渥美も何とか抜け出そうとの思いがあった。 渥美自身は尾崎放哉役を熱望し、早坂も脚本を用意したが、寸前で他局が尾崎放哉をドラマ化してしまったため、急遽種田山頭火に変更した。渥美と早坂はあちこち取材旅行に訪れたが、クランクイン寸前になって渥美から降板を申し出た。降板の理由は体調不良やスケジュール不合などいわれるが、周囲からの「寅さん」のイメージ損失を嫌ったこととの軋轢かと思われる。ちなみに渥美降板により主役がフランキー堺となったこのドラマ「山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく」は、モンテカルロ国際テレビ祭(脚本部門ゴールデンニンフ=最優秀賞)を受賞し、フランキー堺は同最優秀主演男優賞を受賞している。 しかし、早坂は渥美に、初期のテレビドラマ「泣いてたまるか」や、上記「土曜ワイド劇場」の第1回作品の「田舎刑事」シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。

上記著書の小林信彦は1960年代前半に放送作家として渥美と知り合い、独身時代はお互いの部屋で徹夜で語り合うなど親友に近い関係であったが、次第に疎遠となっている。同書では、小林がその後親しくなっていくクレージーキャッツのハナ肇と渥美とは互いに敵愾心に近いライバル意識があったことにも触れ、クレージーのメンバーの社会常識を称える形で渥美とは性格的齟齬があったことを示唆している。なお、ハナからは後年、結果的に山田洋次作品のレギュラー主役の座を奪う形となった。

渥美は藤山寛美を高く評価しており、寛美の公演のパンフレットには「私は藤山寛美という役者の芝居を唯、客席で見るだけで、楽屋には寄らずに帰れる。帰る道すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている。」と書いていた。寛美も渥美が客席に来ていることを知ると、舞台で「横丁のトラ公、まだ帰ってこんのか。」と言うアドリブを発していた。[5]

非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていた。しかし「寅さん」とは、まったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らには、ほとんど気づかれなかったという。

山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2,3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している[6]

2006年9月4日にNHKプレミアム10で放送された『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック 第二の性』を元にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。

黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、夢であいましょうで共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。因みにそれを報道したスポーツ紙には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をした時の写真が掲載された。これは当時マスコミがその写真しか得られなかった為である。黒柳は1996年に開かれた「寅さん」とのお別れの会に出席し、2006年は渥美が死んでから10年と節目の年であったためか渥美の事を話すこともしばしばあった。また森繁久彌は渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。

永六輔とは少年時代からの旧知であり、本人曰く渥美は永も所属した不良グループのボスだったという。また渥美が役者を目指す様になったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導された事があり、その時の刑事に「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた事が役者を目指すきっかけになったとの事である(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のキッカケとなったとされている)。

プライベートでの交流が多かった数少ない芸能人として笹野高史柄本明がいる(笹野と柄本は自由劇場の同僚でもあった)。2人とも「男はつらいよ」シリーズの共演者であった。芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。笹野は「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」以来山田作品の常連となるが、最初に山田監督へ笹野を紹介したのは渥美自身であった。

山田洋次系以外のスタッフでは脚本家鈴木尚之が度々招かれ、信頼が厚かったことを伺わせる。ただし渥美自身が企画し鈴木が執筆した、1972年春公開の『あゝ声なき友』が不振に終わり、厳格な今井正監督の現場になじめなかったこともあり、これを境に渥美は山田作品へほぼ専心した。その5年後の『八つ墓村』が記録的大ヒットになったが、松竹と角川書店角川春樹)の確執からシリーズ化できなかったこともこの流れを決定づけた。

長男田所健太郎は、ニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていたが、後に渥美清が彼の父親として来社し社内は騒然となった[7]

一方で健太郎は、講談社月刊現代』2002年8月号の記事『七回忌を前に初めて書かれるエピソード、寅でも渥美清でもない父・田所康雄の素顔』で、渥美が健太郎の食器・食事に対する扱いに突然激高し、激しい暴行を何度も加える等のドメスティック・バイオレンスが家族へ日常的に行われていたとも告白している。

晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、文春文庫 2010年)に詳しく紹介されている。

主な出演

映画

テレビ

ラジオ

  • 『渥美清 ローマンス劇場』
  • 『渥美清の男性諸君』
いずれも「一慶・美雄の『夜はともだち』」内包番組(TBSラジオ/1976年~1978年)

CM

シングル

  • 泣いてたまるか(TBS連続テレビドラマ「泣いてたまるか」主題歌)(B面:若いぼくたち/ミュージカル・アカデミー)(1966年5月10日)
  • オー大和魂(TBS連続テレビドラマ「大和魂くん」主題歌)(B面:雨の降る日は天気が悪い)(1968年10月)
  • 男はつらいよ(フジテレビ連続テレビドラマ「男はつらいよ」主題歌、松竹映画「男はつらいよ」主題歌、アニメ『男はつらいよ〜寅次郎忘れな草〜』主題歌)(B面:チンガラホケキョーの唄)(1970年2月10日)
  • ごめんくださいお訪ねします(松竹映画「あゝ声なき友」主題歌)(B面:あゝ声なき友)(1972年3月25日)
  • さくらのバラード(歌:倍賞千恵子)(B面:寅さんの子守唄)(1972年4月)
  • こんな男でよかったら(B面:ひとは誰でも)(よみうりテレビドラマ「こんな男でよかったら」)(1973年4月5日)
  • いつかはきっと(掛け声:山田パンダ)(TBSテレビドラマ「ヨイショ」主題歌)(B面:遠くへ行きたい)(1974年8月25日)
  • 寅さん音頭(B面:赤とんぼ)(1975年7月5日)
  • 祭りのあと(B面:駅弁唱歌)(1975年9月5日)
  • 渥美清の啖呵売I(B面:渥美清の啖呵売りII)(1976年6月25日)
  • 浅草日記(B面:すかんぽの唄)(1977年6月25日)
  • 今日はこれでおしまい (B面:着流し小唄)(1977年10月25日)
  • DISCO・翔んでる寅さん(B面:寅さん音頭)(1979年7月25日)

アルバム

  • 渥美清が歌う哀愁の日本軍歌集(1968年12月5日)
  • 渥美清が歌う哀愁の昭和叙情曲集(1970年4月)
  • 噫々戦友の詩(きけわだつみのこえ)より(1971年)
  • 男はつらいよフーテンの寅と発します!(1971年11月)
  • 男はつらいよ名場面集(第一集)
  • 男はつらいよ名場面集(第二集)
  • 男はつらいよ名場面集(第三集)(1974年)
  • 渥美清ベストヒット28(1976年)

著書

  • 『きょうも涙の日が落ちる 渥美清のフーテン人生論』 (展望社、2003年)
  • 『渥美清わがフーテン人生』「サンデー毎日」編集部編 (毎日新聞社、1996年)
  • 『赤とんぼ 渥美清句集』 森英介編 (本阿弥書店、2009年)

参考文献

  • 関敬六 『さらば友よ』(ザ・マサダ、1996年)
  • 渥美清の肘突き 人生ほど素敵なショーはない (福田陽一郎岩波書店
  • おかしな男 渥美清(小林信彦新潮文庫
  • 知られざる渥美清(大下英治廣済堂文庫)
  • 渥美清 浅草・話芸・寅さん(堀切直人、晶文社
  • 拝啓渥美清様(読売新聞社会部、中公文庫
  • 渥美清の伝言(NHK同制作班編 KTC中央出版)
  • 生きてんの精いっぱい―人間・渥美清 (篠原靖治 主婦と生活社) 1997年
  • 渥美清晩節、その愛と死 (篠原靖治、祥伝社

親族

田所健太郎
長男。株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイト(有)チェリーベルがある 。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。
山岡和美
元ニッポン放送アナウンサー、長男の妻。

渥美清を演じた、ものまねをした人物

関連項目

脚注

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外部リンク

                                

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テンプレート:国民栄誉賞 テンプレート:男はつらいよ テンプレート:毎日芸術賞 テンプレート:キネマ旬報ベスト・テン主演男優賞 テンプレート:ブルーリボン賞主演男優賞

テンプレート:毎日映画コンクール男優主演賞
  1. キネマ旬報 №550  1971年5月 増刊 山田洋次と渥美清
  2. NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想)
  3. NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想より)
  4. NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想より)
  5. 小林信彦「おかしな男 渥美清」
  6. 「男はつらいよ DVD BOX」、監督の特典インタビューにて(2008年収録)
  7. 余談だがギタリスト布袋寅泰が同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然エレベーターの乗り口であった際、渥美から「旅ですか?」と話しかけられ、とっさに「はい。北へ」と答えたのをきっかけに、正月に「つまらないものですが、部屋の隅にでも飾ってやってください。」と、『男はつらいよ』のカレンダーを部屋まで届けてくれたという(布袋のブログの記述による)。
  8. 1995年から逝去後の1997年まで、「ニッポンのタイヤが変わります」のキャッチフレーズでCM出演していた。またこのCMは放映時期の季節に合わせて、渥美の服装と背景が変化した。
  9. 幼少時代の沢田聖子と共演(父親役の渥美清が沢田を肩車するシーン)したバージョンがあった。ちなみに渥美は前出のブリヂストンのCMと同じく死去の直前に「パンシロン新胃腸薬」のCMに復帰出演していたことがある。
  10. CMのキャッチコピーは「歴史は、あっちこっちでつくられる。」。コピーライターの神様と称される仲畑貴志の手によるものである。