森保一

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テンプレート:サッカー選手 森保 一(もりやす はじめ、1968年8月23日 - )は、日本の元サッカー選手(MF)、指導者JFA 公認S級コーチ)。公式的な資料での出身地は長崎県長崎市長崎日本大学高等学校卒業。元サッカー日本代表

Jリーグ所属のサンフレッチェ広島の監督を務める。

人物

愛称
愛称は「ポイチ」。これは高校時代に試合に出ていたころ、公式記録などで「森 保一」とたびたび勘違いされ、それを見た同級生がポイチと呼び出したことからテンプレート:Sfn
プレースタイル
守備的ミッドフィルダーとして中盤の底で守備を最優先し、相手ボールを奪い攻撃の芽を摘んだり、また攻撃をディレイさせることに長ける[1]。日本に「ボランチ」というサッカー用語が定着するきっかけとなった選手[1]。「ハンス・オフトの申し子」[2]、「ビハインド・ザ・ボールの申し子」[1] とも言われる。
人格
1990年代のサンフレッチェ広島におけるバンディエラの一人。今西和男は、今まで会ってきた人物の中で特にリーダーシップを持ち合わせる人物の一人として森保の名前を挙げている[3]
周辺
実弟に森保洋。息子が3人おり、2014年現在長男森保翔平カマタマーレ讃岐に所属するプロサッカー選手[4]。次男は大学生、三男はサンフレッチェ広島F.Cの育成組織に所属している。
1993年6月『広島アスリートマガジン』創刊号での対談から広島東洋カープ野村謙二郎と意気投合し、現役時代にはお互いの試合を見に行ったりしていた[5]。住居も「歩いて2分ぐらいの距離」にあり[6][7]、双方ともに現役引退した後もフットサルを楽しむ[8] など、交流を続けている。その他、北別府学[9] など同時代カープ現役選手だった数人と親交がある。
西岡明彦とは、西岡が広島民放アナウンサー時代からの仲。森保のマネージメントを担当するフットメディアの社長でもある。

来歴

現役時代

父親が造船関係者だったため幼少期から各地を転居、静岡県掛川市で生まれ、名古屋市横須賀市唐津市と転居、唐津市立鏡山小学校に入学するもすぐに転居し、小学1年生から長崎県長崎市に定住するテンプレート:Sfn。小学5年から本格的にサッカーを始めテンプレート:Sfn、小学6年の土井首SSS時代に全日本少年サッカー大会にGKとして出場している[10]テンプレート:Sfn。長崎日大高時代には攻撃的なMFとして山梨国体選抜に選ばれるが、選手権などの全国大会には出場できなかったテンプレート:Sfn

高校の監督と日本サッカーリーグ(JSL)のマツダ(現サンフレッチェ広島)の今西和男総監督が知り合いだったため、1987年同クラブ入団テンプレート:Sfn。同期に河村孝ら。マツダ本社の高卒採用枠の関係で、子会社のマツダ運輸(現マツダロジスティクス)に勤務したテンプレート:Sfn。当初はサテライトチームであるマツダSC東洋でプレーしていたが、この年からマツダ監督に就任したハンス・オフトに見出されたテンプレート:Sfn。その後チームは2部に降格しオフトは退団したが、ビル・フォルケスコーチに育てられ、3年目の1989年にJSL2部デビュー、先制点および2点目を挙げるテンプレート:Sfn。1991年にマツダとプロ契約を結び、同年JSL1部昇格に貢献したテンプレート:Sfn

1992年4月、オフトが日本代表監督に就任すると日本代表に初招集されるテンプレート:Sfn。代表メンバーの何人かは存在自体知らなかった無名選手の大抜擢テンプレート:Sfnで、同チーム所属の高木琢也前川和也以外誰一人「モリヤス」と読めなかったテンプレート:Sfn。同年5月オフトジャパン初戦のアルゼンチン戦で先発メンバーに抜擢され初出場を果たし、この際アルフィオ・バシーレ監督とクラウディオ・カニーヒアが“日本にはいいボランチがいる”と高く評価したことから、「森保」と「ボランチ」の名前が脚光を浴びることになる[1]テンプレート:Sfn[11]。以降レギュラーとして活躍、ラモス瑠偉をカバーすることに重点を置いたテンプレート:Sfn。1993年、W杯アメリカ大会アジア予選に出場し、ドーハの悲劇を経験したテンプレート:Sfn

一方クラブチームでは、1993年にJリーグが開幕するとサンフレッチェ広島の選手としてプレー、スチュワート・バクスターの下、風間八宏とともに中盤を支え、1994年サントリーシリーズでは広島のステージ優勝に貢献したテンプレート:Sfn。1995年に就任したビム・ヤンセン監督時代は3-4-3システムのボランチやトップ下・リベロとさまざまなポジションでプレーするテンプレート:Sfnものの、同年7月に右足首関節脱臼骨折テンプレート:Sfnしてしまい満足に活躍できなかった。代表では、ファルカン時代および加茂周時代も選出されたが、山口素弘がボランチに定着したため1996年2月を最後に代表から遠ざかった[1][12]

1997年末、広島は経営悪化がピークに達し、主力放出を余儀なくされた[13]。そこへ、1998年にオフトに誘われ、大型補強を行っていた京都パープルサンガレンタル移籍したテンプレート:Sfn。当初は完全移籍の方向で話を進めていたが、広島サポーターが怒り、移籍反対署名を集め、その結果レンタル移籍に変わった経緯がある[注 1][注 2]テンプレート:Sfn。移籍後、京都は低迷し監督は清水秀彦に代わったが、引き続き主力としてチームを支えたテンプレート:Sfn

翌1999年広島に復帰、同シーズンに広島の選手としては初のJリーグ通算200試合出場達成テンプレート:Sfn。ただ、元々エディ・トムソン監督からの評価は低くテンプレート:Sfn、また森崎和幸の台頭で先発メンバー入りできなくなった。2001年ヴァレリー・ニポムニシに監督が代わるも、ケガのため満足な出場は叶わなかったテンプレート:Sfn

2002年広島からスタッフ転進のオファーを受けるも、現役にこだわり清水秀彦に誘われベガルタ仙台に移籍したテンプレート:Sfn。主力として活躍したが、2003年のJリーグシーズン末に仙台はJ2に降格、自身も戦力外通告を受け、2004年1月に正式に現役引退を表明した[15]

指導者時代

2004年、サンフレッチェ広島強化部のコーチに就任、同年にJFA 公認S級コーチライセンスを取得[16]

2005年2月、吉田靖監督の下、U-19サッカー日本代表コーチと兼務し、2006年11月にAFCユース選手権2006にU-19日本代表コーチとして準優勝、2007年のFIFA U-20ワールドカップにもコーチとして参加した[16]

同年9月からミハイロ・ペトロヴィッチ率いるサンフレッチェ広島トップチームコーチに就任。2010年から黒崎久志[注 3]率いるアルビレックス新潟ヘッドコーチに就任した[16]

2011年末、広島は経営状況の悪化からペトロヴィッチとの契約延長を断念し、次期監督を探すことになる[17]。その中で、ペトロヴィッチのサッカーを継承および調整し、広島の現状のクラブ方針を把握しているOBを登用することになり、その中で森保の名前が挙がることになった[7][18]。2012年からは古巣のサンフレッチェ広島に復帰し、クラブ史上初の生え抜きとなるトップチーム監督を務めることとなった[7][18]。同シーズン、日本人元Jリーガーの監督としては初[注 4]であり[20]、日本人新人1年目監督としては松木安太郎以来2人目[21] となるJ1年間優勝を、翌2013には松木(V川崎)・岡田武史(横浜FM)およびオズワルド・オリヴェイラ(鹿島)以来4人目となるJ1連覇を達成した[22]

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯/ナビスコ杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1987-88||rowspan=5|マツダ||||JSL1部||0||0||0||0||0||0||0||0 |- |1988-89||||rowspan=3|JSL2部||0||0||0||0||0||0||0||0 |- |1989-90||||19||8||0||0||0||0||19||8 |- |1990-91||rowspan=2|27||27||13||3||1||0||0||30||14 |- |1991-92||JSL1部||18||4||0||0||0||0||18||4 |- |1992||rowspan=6|広島||rowspan=5|-||rowspan=7|J||colspan="2"|-||8||1||0||0||8||0 |- |1993||35||2||0||0||4||1||39||3 |- |1994||40||3||1||0||3||0||44||3 |- |1995||25||4||colspan="2"|-||5||0||30||4 |- |1996||26||3||14||2||5||0||45||5 |- |1997||rowspan=5|7||25||1||5||0||2||0||32||1 |- |1998||京都||32||1||4||0||2||0||38||1 |- |1999||rowspan=3|広島||rowspan=5|J1||27||1||3||1||0||0||30||2 |- |2000||22||0||2||0||0||0||24||0 |- |2001||16||0||3||0||1||0||20||0 |- |2002||rowspan=2|仙台||rowspan=2|27||27||0||6||1||2||0||35||1 |- |2003||18||0||3||1||1||0||22||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始293||15||49||6||25||1||367||22 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行18||4||0||0||0||0||18||4 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行46||21||3||1||0||0||49||22 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終357||40||52||7||25||1||434||48 |}

その他の公式戦
経歴

代表歴

試合数

テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |1992||7||0 |- |1993||15||0 |- |1994||4||0 |- |1995||6||0 |- |1996||3||1 |- !通算 |35||1 |}

得点数

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1996年2月10日 オーストラリアウロンゴン テンプレート:AUSf 4-1 勝利 国際親善試合

指導歴

監督成績

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦 ACL CWC
順位 試合 勝点 ナビスコ杯 天皇杯
2012 J1 広島 優勝 34 64 19 7 8 グループリーグ敗退 2回戦敗退 - 5位
2013 J1 優勝 34 63 19 6 9 準々決勝敗退 準優勝 1次リーグ敗退 -
2014 J1

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

注釈
  1. 広島ではこのようなケースは、Jリーグが始まってから2014年現在まで森保のみである。
  2. 京都へレンタル移籍した1998年シーズン時、広島では移籍反対署名を集めたサポーターに対して必ず戻すという意思を示すため、当初「7番を欠番」として登録し、翌1999年戻ってきてから森保にまたつけさせようとしていた。しかし、当時のJリーグでは欠番として空けることを認められなかったため、イアン・クルークがつけることとなった[14]
  3. 共にドーハの悲劇の時の日本代表。1998年京都パープルサンガで共にプレーしている。
  4. 外国人も含めるとギド・ブッフバルトドラガン・ストイコビッチに次いで3人目[19]
出典

テンプレート:Reflist

参考文献

テンプレート:Col-begin テンプレート:Col-2

  • 『1990-1991JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990 ISBN 4-523-31032-7
  • 『1991-1992JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1991 ISBN 4-523-31033-5
  • 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』、小学館、1992 ISBN 4-09-102301-0
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1993・サントリーシリーズ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102303-7
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1993・ニコスシリーズ ヤマザキナビスコカップ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102305-3
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1994・サントリーシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102310-X
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1994・ニコスシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102314-2
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1995・サントリーシリーズ』、小学館、1995 ISBN 4-09-102318-5
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1995・NICOSシリーズ』、小学館、1995 ISBN 4-09-102321-5
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1996』、小学館、1996 ISBN 4-09-102324-X
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1997』、小学館、1997 ISBN 4-09-102329-0
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1998』、小学館、1998 ISBN 4-09-102335-5
  • 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-100-6
  • 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2000』、トランスアート、2000 ISBN 4-88752-102-2
  • 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2001』、トランスアート、2001 ISBN 4-88752-104-9

テンプレート:Col-2

  • 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2002』、NTT出版、2002 ISBN 4-7571-8116-7
  • 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2003』、NTT出版、2003 ISBN 4-7571-8134-5
  • 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2008』、コナミデジタルエンタテインメント、2008 ISBN 978-4-86155-847-4
  • 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2009』、コナミデジタルエンタテインメント、2009 ISBN 978-4-86155-850-4
  • 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2010』、コナミデジタルエンタテインメント、2010 ISBN 978-4-86155-852-8
  • 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1994』、小学館、1994 ISBN 4-09-102309-6
  • 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1995』、小学館、1995 ISBN 4-09-102317-7
  • 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1996』、小学館、1996 ISBN 4-09-102323-1
  • 『J.LEAGUE YEARBOOK 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-099-9
  • 『J.LEAGUE YEARBOOK 2000』、トランスアート、2000 ISBN 4-88752-101-4
  • 『J.LEAGUE YEARBOOK 2001』、トランスアート、2001 ISBN 4-88752-103-0
  • 『J.LEAGUE YEARBOOK 2002』、NTT出版、2002 ISBN 4-7571-8117-5
  • 『J.LEAGUE YEARBOOK 2003』、NTT出版、2003 ISBN 4-7571-8135-3
  • 『J.LEAGUE YEARBOOK 2004』、コナミメディアエンタテインメント、2004 ISBN 4-86155-801-8
  • 紫熊倶楽部2006年7月号』「ドーハ」があったからこそ、オフィス・ウエンブリー

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関連情報

書籍
CM

関連項目

外部リンク

テンプレート:Jリーグ監督 テンプレート:サンフレッチェ広島F.Cのメンバー テンプレート:Jリーグ最優秀監督賞 テンプレート:Navboxes

テンプレート:Navboxes
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 テンプレート:Cite web
  2. テンプレート:Cite web
  3. テンプレート:Cite web
  4. テンプレート:Cite web
  5. テンプレート:Cite web
  6. テンプレート:Cite web
  7. 7.0 7.1 7.2 テンプレート:Cite web
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  10. テンプレート:Cite web
  11. テンプレート:Cite web
  12. 『紫熊倶楽部』2006年7月p21
  13. テンプレート:Cite web
  14. 1998年2月初旬の中国新聞
  15. テンプレート:Cite web
  16. 16.0 16.1 16.2 テンプレート:Cite web
  17. 中国新聞2011年11月10日付14面「ペトロビッチ監督退任へ 契約更新せず」
  18. 18.0 18.1 テンプレート:Cite web
  19. テンプレート:Cite web
  20. テンプレート:Cite web
  21. テンプレート:Cite web
  22. テンプレート:Cite web