加茂周

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テンプレート:サッカー選手 加茂 周(かも しゅう、1939年10月29日 - )は、兵庫県芦屋市出身の元サッカー選手、サッカー指導者である。

関西学院大学卒業後、ヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)での選手生活を経て、1967年に指導者に転じた。1974年に日本人初のプロ契約監督テンプレート:Sfnとして日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)の監督に就任。新興クラブを日本サッカーリーグ1部優勝1回、JSLカップ優勝1回、天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝3回の強豪に育てあげた。日産では監督という枠に収まらない、組織づくりや環境整備といったゼネラルマネージャー的な手腕も高い評価を受けたテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。1993年度に横浜フリューゲルスで天皇杯に優勝した後、1994年12月から1997年10月までサッカー日本代表監督を務めたが、1998 FIFAワールドカップ・アジア最終予選の途中で更迭された。

長兄の加茂豊ゴールキーパーとして1958年アジア大会で日本代表に選出された経験を持ちテンプレート:Sfn、弟の加茂建は加茂商事サッカーショップ加茂を展開、傘下にジャパン・スポーツ・プロモーション、ソル・スポーツマネージメント)の社長である。

生い立ち

男4人兄弟の三男として大阪府豊中市に生まれるテンプレート:Sfn。「周」という名前は、生まれる直前に、毎日新聞社が後援する飛行機「ニッポン号」が世界一周を達成したことにちなむテンプレート:Sfn。父の加茂勝雄は毎日新聞の政治部記者だったテンプレート:Sfn。勝雄は毎日新聞東京本社編集局次長兼整理部長の1944年に、戦後竹槍事件と呼ばれる新名丈夫の戦局解説記事を最初に閲覧、事件の責任をとって一時期役職を離れることになった。大阪で生まれた後、父の仕事の都合により東京、新聞社追放時には父の実家がある茨城県古河市、復職後は毎日新聞社西部本社がある福岡県門司市を転々とし、1949年に兵庫県芦屋市に落ち着くテンプレート:Sfn。1951年に父が急逝したため、加茂の母は自宅の一部を下宿屋にして息子たちを育てたテンプレート:Sfn

中学時代までは運動部に所属するなど特定のスポーツに打ち込むことはなく、「運動会では活躍するほうだったが、といって競争で一番になったこともない」少年だったというテンプレート:Sfn

選手時代

兵庫県立芦屋高等学校入学後、上級生から薦められるままにサッカー部に入部するテンプレート:Sfn。兄の豊はすでに日本代表にも選ばれる有名な学生サッカー選手だったが、周はまだサッカー経験はなかったテンプレート:Sfn。芦屋高校ではサッカーに明るい指導者がおらず、生徒たちが自分たちで練習メニューや戦術を考え、遠征の手配を行うような環境だったテンプレート:Sfn

浪人生活を経て、1960年に関西学院大学英文科に入学テンプレート:Sfn。入学当初はサッカー部に所属していなかったが、高校時代の2年先輩にあたる李昌碩(関西学院大学を経て、当時は関西学院大学大学院生)に説得され、2年生からサッカー部に入部するテンプレート:Sfn。大学では「四年まで、ずっと一軍の最後という感じで、出たり出なかったり」テンプレート:Sfnで「ついにレギュラーになることはできなかった」テンプレート:Sfnという。

大学を卒業した1964年、関学サッカー部の先輩である安達貞至に誘いを受けて、ヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)に入団テンプレート:Sfn。1965年に日本サッカーリーグが発足すると、1966年まで2シーズンのあいだ同リーグでもプレーし、14試合出場1ゴールを記録している[1][注 1]。社業では貿易部に勤務していたテンプレート:Sfn

指導者時代

ヤンマーディーゼルコーチ

1967年、ヤンマーディーゼルサッカー部釜本邦茂を始めとする多くの新人を迎えるのに合わせるようにスタッフ陣も刷新され、それまで主力選手だった鬼武健二が選手兼監督、加茂がコーチ、安達貞至がマネージャーに転じたテンプレート:Sfn。加茂は1972年まで鬼武の下でヤンマ―ディーゼルのコーチを務めた。

1969年、デットマール・クラマーがスクールマスターを務める3ヵ月間におよぶFIFAコーチングスクールを受講するテンプレート:Sfn。1970年、配属されていた貿易部が東京に移転したが、加茂は特別に大阪に残され、サッカーだけに専念できる環境が用意されたテンプレート:Sfn。1972年、ヤンマーは同シーズンのJSL1部で初優勝を飾った。鬼武は同シーズン限りで監督を退いて、加茂を後任に据える構想を持っていたが、加茂は「釜本の存在が大きくなりすぎて、自分の考えるサッカーをこれ以上進めていくのはむずかしいだろう」と判断してヤンマーを離れたテンプレート:Sfn

日産自動車

1974年、日本人の指導者として初めてとなるプロ契約監督として日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)の監督に就任[2]日本サッカーリーグの常勝軍団にし、木村和司水沼貴史金田喜稔などが輩出した。日産は1972年に創部されたばかりで、加茂の監督就任当初は神奈川県リーグに所属していたが、1977年にJSL2部、1979年にJSL1部に昇格した。1981年に一度JSL2部に降格したものの、1年で1部に復帰。1983年、1984年と2年連続でJSL1部準優勝、1983年度の天皇杯では優勝した。

1984年、日本代表ロサンゼルスオリンピック予選で敗退したことにより、日本サッカー協会では森孝慈の後任として加茂を代表監督とする話が浮上したテンプレート:Sfn。加茂自身も代表監督就任に乗り気で、就任に備えて同年秋ごろまでには日産の総監督という立場に退き、鈴木保が後任に就いたテンプレート:Sfn。しかし同年10月の日本サッカー協会の会議によって、一転して森の留任が決まったテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

1985年12月に日産の監督に再び就任テンプレート:Sfn。就任直後に行われた第65回天皇杯にて、決勝でフジタを下して2回目の優勝を果たすテンプレート:Sfn長谷川健太や元ブラジル代表のオスカーを獲得し、1988-89シーズンはJSL1部、天皇杯JSLカップの三冠を達成した。リーグ戦ではJSL新記録となる開幕11連勝により全勝で前期を折り返し[3]、カップ戦の勝利を含めると連勝数は21にも及んだテンプレート:Sfn。シーズンが終わると、加茂はオスカーを次の監督に指名し、自身は顧問という役職に転じたテンプレート:Sfn

全日空/横浜フリューゲルス

1990年6月に全日空サッカークラブ(1992年からプロクラブ化して横浜フリューゲルス)の顧問に就任テンプレート:Sfn、1991-92シーズンから監督に就任した[2]。加茂はコパ・アメリカ1989でのセバスティアン・ラザロニ率いるブラジル代表テンプレート:Sfnや当時隆盛を誇ったACミランテンプレート:Sfnのような、チーム全体をコンパクトに保ち相手にプレッシャーをかける戦術に大きく影響を受け、全日空でもそのようなサッカーを志向したテンプレート:Sfn。この戦術は、スロベニア人コーチのズデンコ・ベルデニックの発案をもとに、加茂が英語風に直した「ゾーンプレス」と名付けられたテンプレート:Sfn。ベルデニックは練習プログラムを作成するなど、ゾーンプレスを理論面から支えたテンプレート:Sfn

1994年1月、第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝にて、鹿島アントラーズを延長の末に下して優勝に導いた。

日本代表

1994年12月1日より11ヵ月の契約期間で日本代表の監督に就任テンプレート:Sfn。前任のパウロ・ロベルト・ファルカン時代に「コミュニケーション不足」が問題になったことから、日本人の加茂に白羽の矢が立ったテンプレート:Sfn。日本代表でも横浜フリューゲルス時代同様に、ゾーンプレスで追い込んで、素早く攻撃に転じるサッカーを浸透させようとしたテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。就任直後の1995年1月にインターコンチネンタル選手権があり、チーム構築の時間的余裕がないこともあり、まず当初はファルカン時代には代表から外されていたラモス瑠偉を始めとした経験豊富なベテラン選手を中心に編成しテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn、その後、徐々に若手選手へと入れ替えていったテンプレート:Sfn

1995年11月の契約満了を前にして、加藤久を委員長とする日本サッカー協会 (JFA) 強化委員会は「加茂続投はベストの選択ではない」と判断し、代わりにヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)監督のネルシーニョが適任という結論を導いたテンプレート:Sfn。加茂も一時は退任を覚悟して横浜F復帰の話が進んでいたがテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn、JFA幹部会の判断により土壇場で加茂の契約延長が決まったテンプレート:Sfn。JFA会長の長沼健は会見の席で「これでワールドカップに出場できなかったら、責任を取って私が辞める」とコメントしたテンプレート:Sfn

1996年12月のAFCアジアカップ1996では、グループステージを3戦全勝で突破したが、準々決勝でクウェート代表に0-2で敗れたテンプレート:Sfn。加茂はこのアジアカップでは優勝に主眼を置かず、テスト的な場と位置づけていたがテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn、クウェート代表戦での弱点を突かれた負け方から、協会内部では加茂に対する不信感が広がる結果になったテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

1997年9月に始まった1998 FIFAワールドカップ・アジア最終予選では、初戦のウズベキスタン代表戦に勝利、アウェイのアラブ首長国連邦代表戦に引き分けた後、3試合目となったホームの韓国代表戦にて、フォワードに替えてディフェンダーを投入する戦術的交代が裏目に出て1-2の逆転負けを喫したことから、メディアやファンの間で加茂批判の声が高まったテンプレート:Sfn。続く10月4日のアウェイのカザフスタン代表戦でも引き分けに終わったことから、直後現地で更迭されコーチの岡田武史が監督に昇格したテンプレート:Sfn。予選途中での監督解任は、日本代表の歴史上初めてのことだったテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

その後

1999年にアルビレックス新潟のアドバイザーに就任[2]。1999年7月より京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)の監督に就任した。契約期間は2002年1月末までの2年7ヵ月[4]だったが、2000年6月に成績不振により監督を解任された[5]

2001年より尚美学園大学サッカー部総監督[2]、2003年より大阪学院大学サッカー部総監督[2]、2007年より関西学院大学体育会サッカー部の監督を歴任[2]。2009年には関学大を11年ぶりの関西学生リーグ優勝に導いた[6]。2010年より関西学院大学サッカー部の総監督に就任[2]

また、日本放送協会(NHK)とGAORAFCバイエルン・ミュンヘンTV)でサッカー解説を担当している[2]

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|-!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1965||rowspan=3|ヤンマー||||rowspan=3|JSL||||||colspan="2"|-|||||||| |- |1966||||||||colspan="2"|-|||||||| |- |1967||||||||colspan="2"|-|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始14||1||colspan="2"|-|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終14||1||colspan="2"|-|||||||| |}

監督成績

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯
1979 JSL1部 日産 10位 18 9 1 2PK勝 1PK敗 14 1回戦敗退 2回戦敗退
1980 10位 18 6 2 2 14 ベスト4 1回戦敗退
1981 JSL2部 2位 18 26 11 4 3 ベスト8 2回戦敗退
1982 JSL1部 8位 18 14 5 4 9 2回戦敗退 2回戦敗退
1983 2位 18 25 11 3 4 準優勝 優勝
1984 2位 18 25 11 3 4 2回戦敗退 ベスト4
1985 5位 10 13 5 3 2 - 優勝
1986-87 5位 22 24 10 4 8 準優勝 ベスト4
1987-88 4位 22 25 10 5 7 2回戦敗退 ベスト8
1988-89 優勝 22 46 14 4 4 優勝 優勝
1991-92 全日空 8位 22 25 6 7 9 2回戦敗退 1回戦敗退
1992 J 横浜F - 10位 2回戦敗退
1993 6位 36 - 16 - 20 ベスト4 優勝
1994 7位 44 - 22 - 22 ベスト8 2回戦敗退
1999 J1 京都 9位 15 19 7 0 8 - 4回戦敗退
2000 16位 15 7 2 1 12 - -
  • 1985年はシーズン途中に就任(順位は最終順位)。
  • 1999年は7月に就任 (カッコ内はセカンドステージの数値)。
  • 2000年は6月に解任 (順位・数値は解任時)

その他

  • 日本代表監督として通算戦績24勝13敗11分、100得点63失点。

タイトル

テンプレート:Flagicon 日産自動車サッカー部
テンプレート:Flagicon 横浜フリューゲルス
テンプレート:Flagicon 日本代表
テンプレート:Flagicon 関西学院大学

注釈

  1. 加茂の自著ではJSLでのプレーは1965年と1966年の2シーズンとあるがテンプレート:Sfn、『日本サッカーリーグ全史』では登録は1965年から1967年までの3シーズンとなっている。[1]

出典

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参考文献

関連項目

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  1. 1.0 1.1 『日本サッカーリーグ全史』 244頁。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 テンプレート:Cite web
  3. 「1988/89 第24回大会」『日本サッカーリーグ全史』 168-169頁。
  4. 『週刊サッカーマガジン』ベースボール・マガジン社、1999年7月7日号 No.718、33ページ。
  5. テンプレート:Cite web
  6. 6.0 6.1 テンプレート:Cite web