ハンス・オフト

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テンプレート:サッカー選手 ハンスHans)の愛称で知られるマリウス・ヨハン・オフトMarius Johan Ooft1947年6月27日 - )は、オランダ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはFWドーハの悲劇時の日本代表監督。

来歴・人物

1947年、オランダロッテルダムにて4男1女の末子として出生、幼少から身近な遊びであったサッカーに興じ1954年、オランダでプロサッカーリーグ発足しサッカーブームの熱にあたる。8歳時ローカルクラブの「デ・ムッション」のユース(サッカーと柔道)に所属、15歳頃にはフェイエノールトからスカウトの声がかかる。この頃のポジションはセンター・フォワード。16歳、当時柔道ブームでサッカーか柔道かと悩んでいたがユースを追い出されシニアチームへと放り込まれる。この頃、サッカー観戦に来ていたマリヨと知り合いダンスに誘い実家に招かれるが父親がCVVクラブの会長と判明し仰天。1964年、17歳、高校を卒業してフェイエノールトと契約。19歳時に徴兵、1年半軍務に服す中、21歳以下軍チームの代表に選出。フェイエノールトでは、FWとしてプレー。24歳頃からコーチングの勉強を始め28歳の時に怪我で引退。同時期オランダサッカー協会のA級ライセンス取得。

1976年オランダユース代表(ユースサッカー育成プログラム担当)コーチに就任。1982年杉山隆一に招かれ当時日本サッカーリーグ (JSL) 2部のヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)2ヶ月間の短期コーチとしてオファーされ就任、1部昇格および天皇杯優勝に貢献。1984年今西和男に招かれJSL2部のマツダSC(現・サンフレッチェ広島)コーチに就任。2年目の1985年にJSL1部昇格に導くと1987年には監督に就任し天皇杯決勝へ導いた。しかし1987-88シーズンにクラブはJSL2部に降格し、オフトも監督を辞任した。

その後はオランダへ帰国し、FCユトレヒトのマネージング・ディレクターを務めていたが、1992年、外国人として初の日本代表監督に就任した。同年夏にダイナスティカップ優勝、秋のAFCアジアカップでは優勝に導き、日本国外で行われる国際的な大会で日本サッカー界初となるビッグタイトルをもたらした。この時の日本代表の頑張りがJリーグ開幕と相まって、マスメディアが大きく取り上げ社会現象ともなった。1993年に行われたワールドカップアメリカ大会アジア最終予選では国民の高い関心を呼び、毎試合驚異的な視聴率を記録。本大会出場にあと一歩のところまで迫りつつもイラクに同点ゴールを許し出場を逃した(ドーハの悲劇参照)。

その後、1994年からはJリーグのジュビロ磐田、1998年京都パープルサンガ2002年からは浦和レッドダイヤモンズ監督を歴任。浦和監督時代の2003年にはナビスコカップを制覇。チームに初タイトルをもたらしたが、社長だった犬飼基昭と目指す方向性の違いにより、退任(事実上の解任)に追い込まれる。その不満からか、ナビスコカップを制覇した試合後の記者会見にて退任を発表し話題を呼んだ。

その後はスペインに移住。定期的に来日して少年サッカーの指導などに関わりつつも、現場の第一線からは離れて悠々自適の生活を送っていたが、2008年9月、途中解任された内山篤に代わって、J2降格の危機に陥っていたジュビロ磐田の監督に就任。磐田には12年ぶり、監督業自体にも5年ぶりの復帰となった。低迷するチーム状況下で守備的な戦術を敷いて戦ったが、降格圏を抜けるまでには行かず、シーズン16位となってベガルタ仙台 (J2) との入れ替え戦に回ることとなる。この入れ替え戦を通算成績1勝1分で勝利し、至上命令だったJ1残留を果たした。フロントからは2009年シーズンの続投も要請されたが、「新しい血を入れるべき」とフロント改革の必要性を説き、同年限りで再び監督業から退いた。

Jリーグ通算100勝の記録を持っており、これは2012年ネルシーニョに抜かれるまで、Jリーグの外国人監督として最多であった。

2013年、日本代表やJリーグ各クラブでの監督を務めるなど日本サッカー発展に功績があった人物として、日本サッカー殿堂表彰が決定した[1]

特徴

サッカーの基礎的教育に優れた監督であり、オフトが標榜した「アイコンタクト」、「スモールフィールド」、「トライアングル」、「コーチング」、「スーパーサブ」などのサッカー用語は、当時新鮮な驚きとしてもてはやされ、現在は定着している。

Jリーグのクラブの監督としてのオフトは、基本的にポジション毎の役割をはっきりさせて、良く言えば選手に難しく考えさせない基礎的なサッカーを、悪く言えば攻撃の場面でもリスクを背負わずに前に出る選手を少なめにするなど、消極的な戦術を選択していた。磐田や浦和ではMFがFWを追い越すことや、ワンツーパスを禁止することすらあった。これはFWが自由に動けるスペースをMFが消すことのデメリット、そしてFWとMFのポジション、バランスを選手自身に身につけさせるためでもあった。

自身が獲得したタイトルは、日本代表として AFCアジアカップ1992、アフロアジア選手権1993、浦和レッズとして初タイトルとなる2003年のナビスコカップなどがあり、磐田や浦和の黄金時代や日本のワールドカップ初出場の土台を作ったとも言える。また、浦和時代は特に負けている場面でもなかなか選手交代をしない監督であり、交代枠を残したまま負ける試合もあるほどだった(当時のメンバーは、レギュラーとサブに力の差があったのも原因の一つであった。)。しかし世代交代により黄金時代を支えたベテランが抜け、若手中心になっていた磐田への復帰後は、レギュラーとサブに力の差がなく積極的な選手交代をみせた。また若手の積極起用で成長を促し、磐田のJ1残留の原動力にもなった。

エピソード

  • 1982年、TV解説者を務めていた川淵三郎(当時、日本サッカー協会強化委員長)が、ヤマハの試合の変化に驚き、調べた所オフトの指導と判明。「日本人監督では限界がある」と分析。1991年9月オランダにてオフトと会談。幹部会に提出した所デットマール・クラマーを招へいした時の言葉の壁や、サッカースタイルの違いに反対されるも「時代も変化しており鈴木徳昭という優秀な通訳もいるし、全責任を受け持つ」と食い下がり、これによりハンス・オフト日本サッカー代表監督として承認される。
  • 1993年、1994アメリカW杯アジア最終予選(ドーハの悲劇)から日本へ帰国直後、同予選でも対戦しアメリカW杯出場を決めたサウジアラビアから監督就任要請があったことを、NHK「日本サッカーの50年」番組内にて明かした。
  • 日本代表監督時代、中心選手であったラモス瑠偉との間には確執があり、ラモスはオフトが練習中選手のプレーにクレームをつける際に吹く口笛にさえ「俺達はあんたの犬じゃないんだぞ!」とつっかかるなどたびたび練習法や起用で衝突していた。両人の確執が始まったのは就任当初の顔合わせの時に、通訳を介して「君とカズに自由は与えない」と告げ、それまで自由なゲームメーカーとして君臨していたラモスが「機械的にやれというのか」と受け取ったことによる。しかし後年オフト自身は通訳のミスであるとし、あくまで「日本代表は国の代表であり、全員に責任がある。特にラモスのような創造的な選手はその力をチームのために活かす責任を持つ」という趣旨であったとしている。

所属クラブ

指導歴

タイトル

書籍

  • 「日本サッカーの挑戦」徳増浩司訳、講談社、1993年9月刊 ISBN 4062063638
  • 「Coaching―ハンス・オフトのサッカー学」大原裕志との共著、小学館、1994年12月刊 ISBN 4091023134

関連項目

脚注

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テンプレート:日本サッカー殿堂
  1. 元日本代表監督のオフト氏らが殿堂入り サンケイスポーツ 2013年8月5日閲覧