フェイエノールト

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フェイエノールト・ロッテルダムFeyenoord Rotterdam)は、1908年創設のオランダ南ホラント州ロッテルダムに本拠地を置くサッカークラブ。エールディヴィジに所属。ホームスタジアムのスタディオン・フェイエノールトはデ・カイプと呼ばれ、スタディオンクラブとして全国的人気を集めている。伝統的に赤と白のユニフォームを着用し、オランダの伝統的トップ3の一つ。以前はFeijenoordだったが、1973年にFeyenoordに変更された。日本では小野伸二がかつて所属していたことでも知られている。

これまでのタイトルは国内トップリーグ(現在はエールディヴィジ)での優勝14回、KNVB杯11回、ヨーロピアンカップ(現在のチャンピオンズリーグ)1回、UEFA杯2回、クラブ・ワールドカップ1回。オランダでは国際舞台で大きなタイトルを獲得した初めてのクラブであり、オランダ・フットボールの聖地と言われるデ・カイプと共にオランダのフットボール史において重要な役割を果たしてきた。

歴史

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UEFAカップ2001-02決勝、ボルシア・ドルトムント戦のスターティングメンバー
ファイル:StadionFeyenoord.jpg
スタディオン・フェイエノールト

創設

フェイエノールトの歴史は1908年7月19日、カフェ"the Association"でJac. Keizerによってフットボールクラブが創設されたことに遡る。1909年に名前をHFC (Hillesluise Footbal Club)に改名、ロッテルダムのフットボール連盟に加わったが、ハーレムにすでに同名のクラブ(現在のKoninklijke HFC)が存在していたため、RVV Celeritasと改名。1912年に現在のKNVBの前身であるオランダ・フットボール連盟(NVB)に加盟したが、やはり同名のクラブ(HSV Celeritas)が存在していたため、フェイエノールト(Feijenoord)を名乗ることになり、同時に赤白のシャツと黒パンツ、黒ソックスのスタイルに変更された。

最初の成功

創設から16年、トップリーグに昇格して3年後の1924年にフェイエノールトは初めてオランダ・リーグを制した。後に数多くリーグ戦を制するフェイエノールトだが、この最初の優勝は「『労働者たち』が『紳士たち』を打ち負かした」というオランダ・フットボールの歴史の転換点となったため、今もなお多くのフェイエノールトサポーターにとって最も美しい優勝と見なされている[1]。1930年には初めてKNVBカップで優勝。30年代と40年代にリーグ戦7回、KNVBカップ5回とクラブの成功の歴史の土台を築いた。1965年にはクラブ史上初めてのダブル(リーグ戦とカップ戦の同時優勝)も果たしている。

黄金期

フェイエノールトの黄金期は1970年代に始まる。クーン・ムーラインオフェ・キントファルなどの活躍で1970年にオランダのクラブとして初めてUEFAチャンピオンズリーグを制し、数ヶ月後にはエストゥディアンテスを破ってインターコンチネンタルカップまでも獲得した。1974年にもオランダのクラブとして初めてUEFAカップも制している。 1984年はフェイエノールトにとって最高の1年だった。ペーター・ハウトマンヨハン・クライフルート・フリットらを擁したチームはリーグ戦とカップ戦のダブルを達成。90年代にもフェイエノールトはリーグ戦を2回、スーパーカップ2回、KNVBカップを2回獲得している。クラブは1978年にアマチュア部門のSCフェイエノールトとプロ部門のフェイエノールト・ロッテルダムに分断。2010年にアマチュア部門とプロ部門が再び統合されるまで、この状態が続いていた。

新たな至福の時

2002年5月8日、監督 ベルト・ファン・マルワイクに率いられたフェイエノールトはピエール・ファン・ホーイドンクらの活躍によってドイツ王者 ボルシア・ドルトムントを自身のホームであるスタディオン・フェイエノールトにおいて破り、28年ぶりにクラブ史上2回目のUEFAカップを獲得した。ロッテルダムの名士であるピム・フォルタイン(Pim Fortuyn)が亡くなってわずか2日後だったことで、自分たちのホームでの欧州制覇はロッテルダムの人々にとって大きな意味のあることだった[2]。フェイエノールトは2008年にも同監督のもとでKNVBカップを制し、現在これが最後に獲得したタイトルとなっている。

UEFA Cupからの追放

2006年11月30日のUEFAカップのグループステージ ASナンシー-フェイエノールト戦の前後において、約3.000名のフェイエノールト・サポーターが現地警察と衝突。警察がナンシー市内のオランダ人に対して何の区別もせずに対応したために状況をコントロールできず、無関係のフェイエノールト・サポーターも多く拘束される事態となった。 フェイエノールトのフロントからフリーチケットを販売する事への警告があったにも関わらず、ASナンシー側がしかるべき対処をとらなかったことでチケットを持たない多くのサポーターも遠征、排除すべき一部のサポーターもその中に含まれていた。スタジアムのアウエーボックスにいる全フェイエノールト・サポーターも警察によって追い出され、その際催涙ガスが使用されたことで試合は一時中断。最終的に試合はナンシーの3-0勝利で終わった。 他の試合の結果によってグループステージを突破したフェイエノールトだったが、1月19日にUEFAは警察の大いに疑問の残る対応があったにも関わらずフェイエノールトの同シーズンのUEFA杯からの追放を通達、同時に100.000スイスフラン(61.810ユーロ)の罰金を科した。

財政危機と低迷

2006-07シーズンのリーグ戦を7位で終えて欧州戦プレイオフも敗退したフェイエノールトは、2007年夏にテクニカル・ディレクター ペーター・ボスのもと大補強を敢行。ロイ・マカーイジョバンニ・ファン・ブロンクホルストケヴィン・ホフラントティム・デ・クレルマイケル・モルスデニー・ランツァートといった実力者と契約を結び、新監督に2002年にUEFA杯を制したベルト・ファン・マルワイクを迎えた。しかしシーズン前半こそリーグ優勝を狙える位置に付けていたが、後半戦は下降線を辿り、KNVBカップで久々のタイトルを獲得したもののリーグ戦6位。またしてもCL出場権を逃したことで、高額なベテランの大量補強は大きな負債となってクラブにのしかかった。

ファン・マルワイクのオランダ代表監督就任によって2008-09シーズンはヘルトヤン・フェルベークを監督に迎えるも、前半戦終えて12位と大きく低迷。年明け初戦を待たずにベテラン選手との対立からフェルベークがクラブを去る事になり、このシーズンもリーグ戦7位で欧州戦プレイオフで敗退。大きな危機を迎えた中、2009-10シーズンにクラブは再建の最後の希望として新テクニカル・ディレクターにレオ・ベーンハッカー、新監督にマリオ・ベーンというクラブ生え抜きのOBを起用。財政難でほとんど補強を行えない中、ベーンはコンディションの整わないベテラン陣を迷うことなくベンチに置き、積極的な若手登要で4位と久々の好成績を残す。

しかし翌2010-11シーズンを前にKNVBからカテゴリー1転落が伝えられ、財政運営で協会の監視下に置かれ、補強費捻出はほぼ不可能に。3年以内にカテゴリー1を脱出できなければライセンスを失う危機を迎えた。ピッチ上でもファン・ブロンクホルストが引退し、ヨン・ダール・トマソンFIFAワールドカップでの負傷で全くプレーできなかったことでリーダーを失ったチームは大きく迷走。10月24日にPSVとのアウエーゲームで10-0という歴史的惨敗を喫した4日後の10月28日、ピム・ブロクラントに率いられた投資グループ フリーンデン・ファン・フェイエノールトがフェイエノールトの株式49%を1.700万ユーロで買い取り、その後合計3.000万ユーロをクラブに補填した。このやり取りによって投資グループは2011年2月にフェイエノールトの取締役会に二つの席を取得、フェイエノールトの負債は2.600万ユーロまで減らした。 結局15試合を終えて一時16位に落ちるなどクラブ史上に残る最悪のシーズンを経験した。12月と1月にはクラブの顔であるフレッド・ブランクマイヤークーン・ムーラインがたて続けに亡くなるなど、クラブに関わる全ての人々にとって悲しい1年を経験。補強費の無い中でベーンハッカーがレンタルで連れてきた選手たちはほとんど役に立たず、ベーンハッカーは契約途中でクラブを去り、ベーンもまた新シーズンのスタートを直前にして選手たちの不信任投票の結果を受け、クラブ再建の志半ばで同じくクラブを去った。

復活

2011-12シーズン直前、新テクニカル・ディレクターに就任していたマルティン・ファン・ヘールはベーンの辞任(形式的には解任)を受けて、新監督にロナルド・クーマンを招聘。夏の移籍市場ではジョルジニオ・ワイナルドゥムリロイ・フェルを失ったが、移籍金の出せない状況でジョン・グイデッティオトマン・バッカルをレンタルで獲得し、失敗続きだった補強策が久々に成功。さらにフェイエノールト加入後結果が残せていなかったカリム・エル・アマーディルーベン・スハーケンもクーマンのもとで信頼を得てリーグ・トップクラスのパフォーマンスを発揮し、ヨルディ・クラーシブルーノ・マルティンス・インディらユース出身のタレントがブレイク。そして最も大きかったのがディルク・カイトが去って以来不在だったストライカーのポジションでグイデッティがデ・カイプでの3試合連続ハットトリックなど23試合で20ゴールを記録したことであり、特に1月29日のデ・カイプでのデ・クラシケルはこのエースのハットトリックなどで4-2と2006年以来の勝利。全てが噛み合って勢いに乗ったチームは2002年以来の2位でシーズンを終えた。財政面でも、投資家 ピム・ブロクラント率いる支援グループ フリーンデン・ファン・フェイエノールトの資金補填と各企業とサポーターも巻き込んだ寄付活動、そして移籍市場での大きな移籍金獲得もあり、負債を大幅に縮小することに成功。オランダ・フットボール協会(KNVB)の定めるカテゴリー1を脱出した。グイデッティを失ったフェイエノールトはイタリアで出番の無かったグラツィアーノ・ペッレを幸運な形で代役として得たことで2012-2013シーズンも3位と上位を争い、クーマンのもとでの最後のシーズンとなった2013-2014シーズンはタイトル獲得のチャンスこそつかめなかったが、それでも依然他のトップクラブに財政面で劣る状況で再び2位と失われた誇りを取り戻し、スポーツ面での復権を果たした。2014年4月にはKNVBの定めるカテゴリー3へ昇格[3]

2014-2015シーズンからはサイクルを終えたロナルド・クーマンに代わり、フレッド・ルテンが監督に就任。

タイトル

国内タイトル

1923-24, 1927-28, 1935-36, 1937-38, 1939-40, 1960-61, 1961-62, 1964-65, 1968-69, 1970-71, 1973-74, 1983-84, 1992-93, 1998-99
1929-30, 1934-35, 1964-65, 1968-69, 1979-80, 1983-84, 1990-91, 1991-92, 1993-94, 1994-95, 2007-08
1991, 1999

国際タイトル

1969-70
1973-74, 2001-02
1970

過去の成績

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現所属メンバー

2014年7月18日現在

テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 開始 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 中央 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 終了

ローン移籍選手

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2013-14シーズン移籍

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歴代監督

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歴代所属選手

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GK

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DF

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MF

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FW

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関連チーム

サポーター

フェイエノールトのサポーターは"ヘット・レヒューン"(Het Legioen)と呼ばれ、熱狂的な応援とクラブへの高い忠誠心で知られている。アウエーゲームの応援にも積極的で、1963年にベンフィカとのヨーロッパ・カップ戦に二艘の船、数千の自動車と電車で約3.000人のサポーターが遠征。過去の欧州でのアウエーゲームでは1試合平均1000から2000人のファンが遠征しており、1996年に行われたドイツのボルシア・メンヘングラッドバッハとの試合では約15.000人のサポーターが出向いた。 近年のホームゲームではスタディオン・フェイエノールト(デ・カイプ)は平均40.000人のサポーターが集まっており、応援に太鼓、ハリセン、拡声器を用いず、スタンドで踊りを踊ることもなく、昔ながらの歌と拍手による応援を続けている。フェイエノールトでは背番号12は選手が背負うことはなく、12番目の選手としてヘット・レヒューンの背番号と決められている。

参照

  1. http://www.feyenoord.nl/pages/story/s2/de+club+-+historie+-+eerste+landskampioenschap.aspx
  2. http://nos.nl/video/238045-2002-feyenoord-en-fortuyn.html
  3. http://www.feyenoord.nl/nieuws/nieuwsoverzicht/knvb-bevestigt-feyenoord-in-categorie-3

外部リンク

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