小野伸二

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小野 伸二(おの しんじ、1979年9月27日 - )は、静岡県沼津市出身のプロサッカー選手ポジションミッドフィールダーJリーグ ディビジョン2コンサドーレ札幌所属。元日本代表

来歴

小学生時代から「天才」と呼ばれ地元では名前を知られていた。10人兄弟の内で5番目の子で、母子家庭で育ち小学校時代は家庭が貧しく、サッカー少年団にも入っていなかったが、小野が一人でサッカーをしているのを見た少年団の監督から「お金はいらないからぜひ入ってくれ」と勧誘された。1993年に13歳でU-16日本代表に初選出され、以降も各年代の代表チームの中心選手として活躍した。1994年には第6回U-16アジアユース選手権で優勝し、1995年にはFIFA U-17世界選手権大会に出場している。

清水商業高校に入学し、同級生には平川忠亮池端陽介などがいた。1年後輩には池田学がいる。チームの中心としてプレーしていたが全国高等学校サッカー選手権大会には静岡県予選で敗退し本大会出場を一度も果たせなかった。高校3年時1997年の全日本ユース選手権では準優勝、インターハイベスト8、他校の選手と合同チームを組んだ国民体育大会では静岡県選抜・少年男子の部で2年連続となる優勝をはたした。卒業に際してはJリーグの13クラブからオファーを受け、浦和レッズに入団し、背番号は28を与えられた。

浦和レッズ

1998年にはアジアユース選手権で準優勝し、自身もMVPを獲得した。韓国とのワールドカップ共催記念試合で岡田武史監督に抜擢され、18歳でA代表初出場を果たした。フランスW杯の日本代表に選出され、第3戦のジャマイカ戦で15分間の途中出場した。この試合ではファーストタッチで相手選手を股抜きでかわすなど好プレーを連発した。浦和ではデビュー2戦目の横浜フリューゲルス戦でプロ初得点を挙げた。このシーズンは合計9得点を挙げ新人王Jリーグベストイレブンを受賞した。

1999年は浦和での背番号を8に変更した。ナイジェリアで開催されたFIFAワールドユースでは、決勝のスペイン戦は累積警告で出場停止となったものの、キャプテンとして準優勝に貢献し、ベストイレブンにも選出された。7月5日に行われたシドニーオリンピックのアジア地区一次予選、対フィリピン戦において、相手ディフェンスに後方からのタックルを受け、左膝靭帯断裂の重傷を負った。この怪我により長期離脱を余儀なくされ、リーグ戦の半分以上を欠場した。リハビリを経て復帰したが、この怪我に由来する慢性的な痛みやケガの頻発を抱えるようになる。浦和も成績が低迷し、J2に降格した。

2000年はコンディション不良が続きシドニーオリンピックの本大会メンバーには選出されなかったが、アジアカップレバノン大会の日本代表に選出された。クラブのJ2降格に伴い清水エスパルスを始め他チームから獲得オファーがあったが、チームへの残留を決断しクラブ史上最年少のキャプテンとしてチームを牽引し最終節でJ1昇格を果たした。

2001年には日本で開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2001において日本代表のレギュラーとして準優勝に貢献した。J1の1stステージ終了後にオランダリーグの強豪クラブであるフェイエノールトへの移籍が決定した。

フェイエノールト

ファイル:Feyenoord-V-Borussia-Dortmu.png
UEFAカップ2001-02決勝、ボルシア・ドルトムント戦のスターティングメンバー

フェイエノールトでは背番号14を与えられた。2001-02シーズンに加入するとすぐにスターティングメンバーに定着し、5月にはUEFAカップ準決勝でインテル相手にアウェイで1‐0と先勝、ホームでも2‐2と勝ち上がり、決勝ではACミランを大差で破り勝ち上がってきたボルシア・ドルトムントを破り優勝、プロ入り後初となる所属クラブでのビッグタイトル獲得となった。6月には日韓ワールドカップでの日本代表に選出され、虫垂炎を患いながらも全4試合に出場し、日本代表として史上初のベスト16に貢献した。

フェイエノールト移籍後はベルト・ファン・マルワイク監督により中盤でゲームを組み立てる役割を与えられ、主にボランチでプレーした。

2002-03シーズンの8月に行われた2002-03UEFAチャンピオンズリーグ予備予選で、トルコのフェネルバフチェと対戦し、ホームとアウェイそれぞれで決勝ゴールを奪い、チームを本選へ導いた。新たに日本代表監督に就任したジーコにも招集され初戦でもゴールを決めた。これらの活躍が評価され、2003年にはアジアサッカー連盟(AFC)から2002年度の年間最優秀選手賞を送られている。

2003-04シーズンは左足首骨挫傷など負傷欠場が多く、クラブもタイトルを獲得できなかった。日本代表でもコンフェデレーションズカップや親善試合を怪我で辞退している。

2004年も前年からの怪我の影響もあったが復帰後すぐに日本代表に招集されW杯3次予選突破に貢献した。欧州遠征にも参加し、イングランド戦ではボランチとして出場し、アウェイにおけるベストメンバーのイングランドを相手にゴールを決めるなど活躍した。アテネオリンピックにはオーバーエイジとして出場し、1次リーグ3試合でPKによる2得点をあげたが、決勝トーナメント進出はならなかった。

2004-05シーズンはルート・フリットの下でフェイエノールト在籍4年目を迎えた。日本代表やアテネでの過密日程の影響もあり、負傷が多いシーズンになった。このシーズンはフェイエノールト在籍期間中で最も多い7ゴールを挙げた。

2005-06シーズンは2005年W杯最終予選バーレーン戦前の練習中に疲労骨折し、更に以前の怪我の再手術もありシーズンを棒に振った。コンフェデレーションズカップも欠場した。

浦和レッズ復帰

2006年1月13日に浦和への復帰が決定し、1月26日に正式契約を結んだ。背番号は18を与えられた。6月に3大会連続となるドイツW杯日本代表メンバーに選出され、初戦のオーストラリア戦で交代出場を果たしたが、交代直後に3失点し逆転負けを喫した。この大会での出場はこの試合のみに終わった。12月に天皇杯準々決勝のジュビロ磐田戦で途中出場し、一時は逆転となる2得点を決め、続く準決勝の鹿島アントラーズ戦では先発出場し先制得点を挙げ、ロブソン・ポンテとのワンツーから決勝点もアシストする活躍で天皇杯優勝に貢献した。リーグ戦では怪我の影響、守備を重視するギド・ブッフバルト監督の戦術により、レギュラーとして出場できない試合もあった。

2007年三都主アレサンドロがオーストリアのレッドブル・ザルツブルクに移籍したため背番号を8に変更した。6月30日の磐田戦における直接フリーキックとループシュートによる2得点など天才的なプレーを見せることも多かったが、ブッフバルトに引き続き守備的戦術を採用したホルガー・オジェック監督の方針のため途中出場することもあった。

ボーフム

2008年1月に浦和からドイツブンデスリーガVfLボーフムに移籍した。2007-08シーズンのデビュー戦となったヴェルダー・ブレーメン戦では途中出場ながら2アシストを決め勝利に貢献した。怪我の影響もあり先発機会は少なく、途中出場が多くなった。

2008-09シーズンはキリンチャレンジカップのウルグアイ戦に2年2ヶ月ぶりとなる代表復帰を果たした。ペナルティーエリア内に走り込む中村憲剛に、得意のダイレクトスルーパスを通し先制点の起点になるが試合は敗戦した。この試合後監督の岡田は一部の選手に見切りが付いたという趣旨の発言を残し[1]、これ以降小野は代表に招集されなかった。ボーフムでは、9月に監督が交代後からスタメンでの出場が増え、ボランチやトップ下でプレーし、ハンブルガーSVに勝利するなど低迷するチームの浮上に貢献した。好調を維持していたが、シーズン中に移籍することになる。なお、その後ボーフムは2部に降格している。

清水エスパルス

高校時代から獲得の意思が強かった清水エスパルスからのオファーを受けて2010年1月に移籍を決めた。背番号は当時自身の年齢であった30番を選択した。べテランとしてチームをまとめ[2]インサイドハーフのポジションを確保したが、W杯のメンバーには選ばれず、連続出場記録は3で止まった。

2010年J1第30節の湘南戦の得点は、ゴール破損による中断のため、前半のアディショナルタイムが10分以上あり、ゴール時間が45+13分という珍記録となる[3]

ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC

2012年9月28日、オーストラリアAリーグウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCに移籍[4]アレッサンドロ・デル・ピエロエミール・ヘスキーらと共にAリーグにおいて高い注目を集められた。1年目は26試合で8ゴールを挙げ、チームリーグ参入初年度でのレギュラーシーズン優勝に貢献した。また、ファイナルシリーズ準決勝のブリスベン・ロアー戦で決めたループシュートは相手チームの監督やフェイエノールトで共にプレーしたピエール・ファン・ホーイドンクがツイッターで小野のゴールを絶賛している。また、シドニーFCとのテンプレート:仮リンクで合計2得点を挙げている。 ユニフォームの選手ロゴは「SHINJI」。

コンサドーレ札幌

2014年1月16日、J2のコンサドーレ札幌と仮契約、6月から加入予定であることが発表された[5]。同年6月8日に北海道入りした際には、新千歳空港で200人のファンと40人の報道陣に迎えられ、翌9日にさっぽろテレビ塔下で入団会見に臨む[6]

評価・プレースタイル

中盤の攻撃的な位置から攻撃を組み立てるゲームメーカー・チャンスメーカーである。ボールコントロールの正確さから、「ボールと会話できる選手」と呼ばれる[7]。右足、左足の両方の精度が高く、繊細なボールタッチを持ち、主にダイレクトプレーで、テンポよくゲームをコントロールする。あたかも上空からピッチ全体を俯瞰しているかのような広い視野を持ち、「ベルベット・パス」等と評されるパスで多くのアシストを記録している[8][9]

かつては中盤の激しいプレスを求められる現代サッカーにおいて、目立った運動量や献身的な動きが少ないことが最大のネックとされていた。そのため、持久力が無いと思われがちだが2010年から所属する清水エスパルスや過去の代表合宿でのインターバル走では常にトップ3以内にいる[10]。清水移籍後は運動量や守備にも磨きがかかり、攻守に貢献するようになった[11]

走るスピード自体もファン感謝デー等で見せているように俊足である[12]

人物・エピソード

  • 自伝で述べているように、彼の最大の特徴である総合的なテクニックの高さは少年期からボールの1人壁打ちや、ボールリフティングにより磨かれた努力の賜物である。
  • 同学年の高原直泰稲本潤一らと仲がよい。この3人を追ったフジテレビ系の正月恒例の特別番組「ワールドカップをめぐる冒険」が2002年から2007年まで放送された。
  • 2001年7月19日、元読者モデルの女性と入籍。2004年12月19日に長女、2007年3月には次女が誕生している。
  • 麻雀好きである事をサッカー誌で語っている。
  • 大島司の漫画作品『シュート!』の物語終盤で、高原直泰とともに実名で登場している。
  • 腕まくりをあまりしないが、左肩に「誇」という刺青をいれている。
  • かつてFC琉球に所属した小野正朋は実弟。
  • 2009年に元日本代表三浦泰年と対談した際に、「今は海外でやっているけど、最終的には清水エスパルスでプレイしたい」と言っており、その清水に2010年に加入した。
  • ナイキ社と契約していたが、後にアシックスと契約している。
  • ある広告担当者が、「長友佑都選手はCM撮影の現場に入ると、まずスタッフ全員と握手をしました。今まで多くの選手を撮影してきましたが、そんな事をしたのは、長友選手と小野伸二選手だけです」と語った。
  • オランダ・テレグラフ紙の企画において、アルゼンチン人ながらオランダ王室に嫁いだマクシマ・ソレギエタと共に『2001年、最もオランダ語の上達した外国人』に選ばれた[13]。ちなみに、同じくオランダ・テレグラフ紙の企画における『オランダ国内で一番知られている新外国人』としても、マクシマ・ソレギエタに次ぐ第2位に選ばれている[14]
  • 2006年のW杯が開催されている間のボン合宿においては、中田英寿と準備運動や2人組のパス練習でペアを組み、「2人でやった方がおもしろいので」と言って居残りのシュート練習にも付き合っていた[15]
  • スーパーサッカーのインタビューで、ジーコの意図が理解できなかったことや自分が入ってから立て続けに3失点し逆転負けしたことを挙げ、2006 FIFAワールドカップのオーストラリア戦の交代出場が4年間トラウマになっていたと発言した。
  • サッカー雑誌のインタビューで、オランダ代表スナイデルが、今までで対戦した選手の中で最も上手いと思った選手に小野伸二の名前を挙げた[16]
  • フェイエノールト時代の恩師であるオランダ代表元監督のベルト・ファン・マルワイクは、「今の日本代表に第2の小野伸二はいない」[17]、「シンジは今まで一緒に働いた中で、一番良いプレーヤーだった。日本に戻って、また活躍してくれていると聞いてうれしいよ」[18]と語った。

所属クラブ

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1998||rowspan="4"|浦和||28||J||27||9||0||0||2||0||29||9 |- |1999||rowspan="3"|8||J1||14||2||0||0||2||0||16||2 |- |2000||J2||24||7||0||0||2||1||26||8 |- |2001||J1||14||2||4||3||colspan="2"|-||18||5 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2001-02||rowspan="5"|フェイエノールト||rowspan="3"|14||rowspan="5"|エールディヴィジ||30||3||colspan="2"|-||2||1||32||4 |- |2002-03||29||7||colspan="2"|-||2||0||31||7 |- |2003-04||24||2||colspan="2"|-||1||0||25||2 |- |2004-05||rowspan="2"|8||25||7||colspan="2"|-||2||0||27||7 |- |2005-06||4||0||colspan="2"|-||0||0||4||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2006||rowspan="2"|浦和||18||rowspan="2"|J1||28||5||1||1||4||3||33||9 |- |2007||8||25||3||2||1||0||0||27||4 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2007-08||rowspan="3"|ボーフム||rowspan="3"|23||rowspan="3"|ブンデス1部|||12||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-|||12||0 |- |2008-09||8||0||colspan="2"|-||2||0||10||0 |- |2009-10||9||0||colspan="2"|-||1||0||10||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2010||rowspan="3"|清水||30||rowspan="3"|J1||30||2||6||1||5||1||41||4 |- |2011||rowspan="2"|18||26||6||2||1||2||1||30||8 |- |2012||14||0||0||0||0||0||14||0 |- テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2012-13||rowspan="2"|WSW||rowspan="2"|21||rowspan="2"|Aリーグ||24||7||colspan="2"|-||colspan="2"|-||24||7 |- |2013-14||23||2||colspan="2"|-||colspan="2"|-||23||2 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2014||札幌||44||J2||||||colspan="2"|-|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始178||29||15||7||15||5||208||41 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行24||7||0||0||2||1||26||8 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行112||19||colspan="2"|-||7||1||119||20 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行29||0||colspan="2"|-||3||0||32||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行47||9||colspan="2"|-||colspan="2"|-||47||9 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終390||64||15||7||27||7||432||78 |} その他の公式戦

  • 2006年
  • 2007年
    • スーパーカップ 1試合0得点
  • 2013年
    • Aリーグ ファイナルシリーズ 2試合1得点
  • 2014年
    • Aリーグ ファイナルシリーズ 2試合0得点

テンプレート:サッカー選手国際成績表 top テンプレート:サッカー選手国際成績表 th |2001-02||rowspan="5"|フェイエノールト||rowspan="3"|14||8||2||4||0||colspan="2"|- |- |2002-03||colspan="2"|-||5||0||colspan="2"|- |- |2003-04||4||0||colspan="2"|-||colspan="2"|- |- |2004-05||rowspan="2"|8||7||1||colspan="2"|-||colspan="2"|- |- |2005-06||1||0||colspan="2"|-||colspan="2"|- |- テンプレート:サッカー選手国際成績表 th |2007||浦和||8||8||2||colspan="2"|-||1||0 |- |2014||WSW||21||6||1||colspan="2"|-||colspan="2"|- |- !rowspan="2"|通算!!colspan="2"|UEFA |20||3||9||0||colspan="2"|- |- !colspan="2"|AFC |14||3||colspan="2"|-||1||0 |- |} その他の国際公式戦

タイトル

チーム

  • 1994年 - U-16アジアユース選手権優勝
  • 1999年 - ワールドユース準優勝
  • 2000年 - アジアカップ優勝
  • 2001年 - コンフェデレーションズカップ準優勝
  • 2002年 - UEFAカップ優勝
  • 2006年 - Jリーグ優勝、天皇杯優勝
  • 2007年 - AFCチャンピオンズリーグ優勝
  • 2013年 - Aリーグ、レギュラーシーズン優勝

個人

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 56試合 6得点 (1998-2008)[19]

テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |1998||3||0 |- |1999||0||0 |- |2000||12||1 |- |2001||9||1 |- |2002||8||1 |- |2003||5||0 |- |2004||7||2 |- |2005||2||0 |- |2006||9||1 |- |2007||0||0 |- |2008||1||0 |- !通算 |56||6 |}

ゴール

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2000年10月14日 レバノンサイダ テンプレート:KSAf ○ 4-1 AFCアジアカップ2000
2. 2001年5月31日 日本新潟 テンプレート:CANf ○ 3-0 FIFAコンフェデレーションズカップ2001
3. 2002年10月16日 日本、東京 テンプレート:JAMf △ 1-1 キリンチャレンジカップ2002
4. 2004年6月1日 イングランドマンチェスター テンプレート:ENGf △ 1-1 国際親善試合
5. 2004年9月8日 インドコルカタ テンプレート:INDf ○ 4-0 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選
6. 2006年2月22日 日本、横浜 ○ 6-0 AFCアジアカップ2007予選

CM出演

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:コンサドーレ札幌のメンバー テンプレート:浦和レッドダイヤモンズ歴代主将 テンプレート:Navboxes

テンプレート:Navboxes
  1. http://supportista.jp/news/1656
  2. 小野伸二、清水に変化をもたらしたカリスマ (2/2) “王国”の名にふさわしいチームへ
  3. 公式記録 2010Jリーグ ディビジョン1 第30節第1日
  4. 豪州クラブが清水MF小野伸二の獲得を発表
  5. テンプレート:Cite news
  6. テンプレート:Cite news
  7. http://labola.jp/player/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E4%BC%B8%E4%BA%8C
  8. http://www.nikkansports.com/news2/japan/rensai/m_ono.html
  9. http://www.resonacard.co.jp/reds/column/onceupon/column_0202.html
  10. 小野に競り負けガックリ 伊藤翔いきなり“FW魂”見せた
  11. http://www.plus-blog.sportsnavi.com/dsinput2/article/219
  12. 運動会で奮闘 ゴトビ監督「あんなに速く走った伸二は見たことない」
  13. 『NIKE football(Kodansha mook)』講談社刊、2002年4月20日発行
  14. http://www.tv-asahi.co.jp/ss/46/news/top.html
  15. http://germany2006.nikkansports.com/paper/p-sc-tp4-20060622-0052.html
  16. http://netherlands.worldcupblog.org/world-cup-2010/wes-sneijder-analysis-of-world-class-player.html
  17. http://www.sponichi.co.jp/soccer_worldcup/special/2010news/0618news/KFullNormal20100619141.html
  18. http://number.bunshun.jp/articles/-/46024?page=2
  19. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「daihyo」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません