塩崎恭久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:政治家 塩崎 恭久(しおざき やすひさ、1950年(昭和25年)11月7日 - )は、日本政治家自由民主党所属の衆議院議員(6期)。

参議院議員(1期)、衆議院法務委員長内閣官房長官第73代)、拉致問題担当大臣等を歴任。

来歴

愛媛県松山市生まれ。東京都立新宿高等学校卒業後、駿台予備学校で1年間の浪人生活を送った後、東京大学に入学する。1975年東京大学教養学部教養学科アメリカ科を卒業し、日本銀行に入行。1982年ハーバード大学大学院ケネディスクール)を修了し、行政修士号を取得した。同年、父・塩崎潤経済企画庁長官就任に伴い、日銀を退職し父の秘書官に転じる。後に日銀に復職した。1985年、父の総務庁長官就任に伴い再び日銀を退職し、再度父の秘書官を務めた。

1993年、父・潤の引退を受け、第40回衆議院議員総選挙旧愛媛1区から自由民主党公認で出馬し、初当選。2年後の1995年小選挙区比例代表並立制の導入に伴う選挙区調整により、参院への鞍替えが決定(新愛媛1区は関谷勝嗣が引き継いだ)。第17回参議院議員通常選挙愛媛県選挙区から出馬し当選する。1997年大蔵政務次官に就任。

1998年頃から安倍晋三石原伸晃根本匠に塩崎を加えた政策グループNAISを結成し、社会保障福祉政策を中心に議論、提言を行う。また金融危機に伴う1998年金融国会では石原伸晃や民主党の若手議員らと連携。金融再生トータルプラン、金融再生法の策定に奔走し、政策新人類と呼ばれて注目された。また橋本内閣の下でも日本版金融ビッグバンを提唱し、バブル崩壊後の日本の金融再生に取り組んだ。

2000年、参院議員を任期途中で辞職。関谷の地盤を引き継ぎ、第42回衆議院議員総選挙愛媛1区から出馬し当選(変則コスタリカ方式により関谷が参院へ転出)。同年末の第2次森内閣不信任決議案をめぐる、いわゆる「加藤の乱」では、当時加藤派に所属していたため加藤紘一に同調するも、加藤の思うように内閣不信任決議案への同調者が集まらず、倒閣運動は頓挫する。塩崎は石原と共に加藤を強く非難し、無派閥に転じた。

行動を共にした石原ら、加藤の乱に同調した議員たちがその後、小泉純一郎首相の下で重用される中、塩崎には目立った復権の動きがなかった。2005年、5年間の無派閥生活から加藤の乱による加藤派分裂により堀内光雄古賀誠ら反加藤グループにより結成された堀内派に入会。同年、第3次小泉内閣外務副大臣に就任する。

2006年、自民党愛媛県連会長に就任。同年の自由民主党総裁選挙では自身の当選同期である安倍晋三を支持した。安倍が総裁に選出された後、塩崎は安倍内閣内閣官房長官拉致問題担当大臣を兼務)として初入閣した。首相、官房長官の出身派閥が異なるのは1989年宇野内閣以来17年ぶりである(宇野宗佑首相は中曽根派塩川正十郎内閣官房長官は安倍派2000年第1次森内閣森喜朗首相(森派)、青木幹雄内閣官房長官(橋本派)で出身派閥が異なったが、これは小渕恵三の危篤(後に死去)に伴う居抜き内閣であり、小渕・青木は同一派閥に所属していた)。

自殺対策基本法の成立にともない、内閣府特別の機関として自殺総合対策会議が新設されると、その初代会長に就任した。2007年安倍改造内閣では再任されず、内閣官房長官を退任(後任は与謝野馨)。

内閣改造後間もなく、安倍が首相辞任の意向を表明。安倍の辞任を受けて行われた2007年自由民主党総裁選挙に際して、世耕弘成ら一部の中堅・若手議員から塩崎の立候補を望む動きがあったものの、出馬には至らなかった[1]

麻生内閣発足後、2008年国籍法改正をめぐっては、法改正を強く推進し改正法成立に尽力するも、国籍法改正反対派からは「A級戦犯」と非難された[2]。また、速やかな政策実現を求める有志議員の会を結成し、同会の中心になって麻生おろしに動いたため、津島派会長の津島雄二を「に塩を送っている」と嘆かせた。2009年東京都議会議員選挙での与党惨敗を受け、かつて袂を分かった加藤紘一の意向を受け、第45回衆議院議員総選挙の前に両院議員総会を開催し、自民党総裁選挙を実施するよう党執行部に求めるための署名集めに奔走したが、党執行部の巻き返しによりこの動きは頓挫した[3]

第45回衆議院議員総選挙では、愛媛1区で民主党が擁立した元南海放送アナウンサー永江孝子の猛追を受けるが、約2800票差で永江を破り、通算5回目の当選(永江も比例復活。愛媛1区で次点の候補者が比例復活したのは初めて)。

2011年9月30日に成立した東京電力福島原子力発電所事故調査委員会法の立法、修正過程には、松井孝治参議院議員らとともに、当初から実務者として関わった。

2012年からは自由民主党政務調査会会長代理、経済再生本部本部長代行に就任。

政策

東京電力救済

東京電力救済法案に賛成した(なお当人は東京電力の株式を1659株保有している[1]。)また、地下式原子力発電所政策推進議員連盟に所属し、原子力発電を推進している。

日本銀行法改正について

日本銀行法改正について「中央銀行が政治など外部からの圧力から独立していなければならないという仕組みは、歴史上いろいろな失敗を経験したうえで生まれた、民主主義の知恵、資本主義の知恵である。中央銀行の独立性は、デフレ解消の単なる短期的な対症療法として安易に放棄してはならない。日銀法さえ改正すれば景気が良くなるような、短絡的な印象を国民に振りまくのは百害あって一利なしである」と述べている[4]

人物・逸話

  • 高校時代は学生運動・学園紛争の全盛期にあたり、塩崎も新宿高校では生徒会長も務めたが、学生運動への参加を嫌う学校側に対し、自由な運動の容認を要求し、校長室を数人で占拠して10日間のストライキを行う等した[5][6]
    • 高校時代にAmerican Field Service(AFS)で1年間のアメリカ留学を経験。その際、ベトナム戦争に反対する集会にも参加していた。帰国後は一つ下の学年に在籍し、同級に坂本龍一がいた。
    • 新宿高校での学生運動の中心は塩崎、坂本、馬場憲治で、3人でバリケード封鎖等を行った。坂本から「どうせ、おまえはそのうち自民党の代議士になるんだろうから、そのときは応援に行ってやるよ」と言われていた。その後、坂本とは学生時代に女性問題をめぐって袂を分かっていたが、坂本がアカデミー賞を受賞した際に塩崎が祝いを送り、交流が再開。坂本は塩崎の応援演説へ駆けつけた[7]
  • 日本共産党参議院議員筆坂秀世とは参議院議員時代、清水谷の参議院議員宿舎の大浴場でしばしば談笑した、文字通り裸の付き合いの間柄だったという[8]
  • 内閣官房長官時代は午前5時に起床し、各方面にメールで指示を出すスタイルで知られ、土日返上で閣僚や官僚と打ち合わせを行う等、初入閣ながら精力的に仕事をこなした。官僚依存から脱却するための行政改革を推進し、事務方が上げた人事案を度々ひっくり返し、年金記録問題でも厚生労働省社会保険庁の尻を叩き続けたため、「官僚嫌いの長官」と恐れられていたといい、塩崎本人も「霞が関で最も嫌われる政治家」を自認していた[9]
    • 塩崎のこのような姿勢や政策立案能力については、行革担当相の渡辺喜美ら共に公務員の天下り規制の強化に取り組み、自民党内の慎重派や官僚を相手に粘り強い交渉を展開して「男を上げた」との評価がある[10]一方、「安倍お友達内閣」の象徴とも揶揄された。

家族

家族は妻、2男。学生時代の同級生だった妻・千枝子は松山東雲女子大学学長代行・教授。長男・彰久は弁護士、次男・哲也は三菱商事勤務。父は衆議院議員を務め、経済企画庁長官総務庁長官などを歴任した塩崎潤。長姉は政策研究大学院大学教授山根裕子。次姉は外交官の角崎利夫夫人で、アジア防災センター主任研究員の角崎悦子[11]

献金

不祥事

事務所費問題

2007年7月20日、塩崎の地元後援会と自民党の選挙区支部の事務所費に関して、2005年に1330万円の使途不明金があると日本共産党しんぶん赤旗日曜版が報じた[13][14]。後援会と自民党支部は共に松山市内のビル2階に事務所を置いており、2005年の事務所費は両団体合わせて約2100万円となっている。家賃はそれぞれ月10万円で年240万円、電話代やリース料などで530万円が支出され、残りの計1330万円が使途不明となっていると指摘されている[15]。塩崎事務所側は、経費は全て適法に支出され、公表されていると反論した[15]

政治資金パーティ

内閣官房長官だった2007年4月と7月、大規模な政治資金パーティを自粛すると定めた大臣規範に反し、パーティを開催して計約3800万円の収入を得ていたことが政治資金収支報告書で分かった[16]

職員の私的流用問題

2007年8月20日、事務所の職員が塩崎が代表を務める自民党愛媛県第1選挙区支部の政治資金の一部を私的に流用していた事実が判明した[17][18]。同職員はその発覚を防ぐために、2005年の選挙運動費用収支報告書に添付していた領収書の一部を、下記金額分、同支部の平成17年政治資金収支報告書に重複して添付していた[18]。その職員は8月19日付で解雇された。塩崎は20日、愛媛県選挙管理委員会に領収書の訂正を届け出た。

その他

2008年9月11日、塩崎が支部長を務める自民党愛媛県第1選挙区支部が、ウナギ蒲焼の産地を偽装したとして不正競争防止法違反の疑いで家宅捜索を受けていた伊予市内の食品会社から、合計132万円の寄付を受けていたことが判明した[19]。塩崎の事務所は、一支援者としての適法な支援だったが事件の推移に照らして全額を返還したとの説明を行った[19]

所属団体・議員連盟

著訳書

  • ロバート・ライシュ他「アメリカの挑戦」(中岡望らとの共訳 東洋経済新報社
  • スヴェン・スティンモ「税制と民主主義―近代国家の財政を賄うためのスウェーデン・イギリス・アメリカのアプローチ」(塩崎潤と共訳 今日社刊)
  • 「日本復活 「壊す改革」から「つくる改革」へ」(プレジデント社刊)
  • 「日本経済起死回生トータルプラン」(石原伸晃根本匠渡辺喜美らとの共著 光文社刊)
  • 「「国会原発事故調査委員会」立法府からの挑戦状」(東京プレスクラブ新書)

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

  1. 転送 Template:S-start


テンプレート:S-par |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
柳本卓治 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院法務委員長
2004年 - 2005年 |style="width:30%"|次代:
石原伸晃 テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
安倍晋三 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣官房長官
第73代:2006年 - 2007年 |style="width:30%"|次代:
与謝野馨 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
創設 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 自殺総合対策会議会長
初代:2006年 - 2007年 |style="width:30%"|次代:
与謝野馨 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
逢沢一郎
谷川秀善 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 外務副大臣
金田勝年と共同
2005年 - 2006年 |style="width:30%"|次代:
岩屋毅
浅野勝人

  1. 転送 Template:End

テンプレート:内閣官房長官

テンプレート:外務副大臣
  1. 「山本氏が出馬断念 一本化不調、棚橋氏も困難」共同通信2008年9月19日
  2. 『週刊新潮』 12月18日号
  3. 文藝春秋 麻生「最後の迷走」の末に玉砕解散
  4. 塩崎恭久レポート 「中央銀行の独立性」は民主主義の知恵だ! 白川日銀への不信任を「日銀法改正」で実現するのは筋違い。現代ビジネス 2012年05月22日
  5. こころの玉手箱①「高校時代の制帽~自由を渇望、闘う生徒会長」日経新聞夕刊2008年4月14日
  6. テンプレート:Cite web
  7. 「SELDOM‐ILLEGAL―時には、違法」坂本龍一著(角川書店)
  8. 村上正邦平野貞夫・筆坂秀世『参議院なんかいらない』(幻冬舎新書)
  9. 「安倍内閣の閣僚通信簿」朝日新聞2007年8月24日
  10. 「公務員制度改革『男を上げた』塩崎官房長官」産経新聞2007年4月14日
  11. 塩崎恭久 近現代・系図ワールド~政治家系大事典~塩崎潤
  12. パーティ券リストの面々 しんぶん赤旗 2003年9月12日
  13. テンプレート:Cite web
  14. テンプレート:Cite news
  15. 15.0 15.1 テンプレート:Cite news
  16. 産経新聞 2008年9月12日
  17. テンプレート:Cite news
  18. 18.0 18.1 テンプレート:Cite news
  19. 19.0 19.1 テンプレート:Cite news