八九式中戦車

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テンプレート:戦車 八九式中戦車(はちきゅうしきちゅうせんしゃ)、は1920年代後期に開発・採用された大日本帝国陸軍戦車中戦車)。日本初の国産制式戦車として開発・量産された。

開発

先の試製一号戦車の成功を受け、戦車の国産化に自信を深めた陸軍であったが、試製一号戦車は18 tという大重量であった[1]1925年(大正14年)から1935年(昭和10年)まで、陸軍には軽戦車重戦車の区分しかなく、

と決められていた。

日本は、軽戦車を主力とし、軽戦車より重い戦車は重戦車に分類し、数は少ないが軽戦車を補完する役割とし、軽戦車(主力・多数)と重戦車(補完・少数)の二本立てで、戦車隊を整備する方針であった。

そこで1928年(昭和3年)3月28日に、新たに10 t程度の軽戦車を開発することを決定し[3]、試製一号戦車の成果を基に、1927年(昭和2年)に輸入したイギリスビッカースC型中戦車を参考にして、開発することになった。秘匿名称(試作名称)はイ号(ロ号は九二式重装甲車、ハ号は九五式軽戦車)。

開発は陸軍技術本部第4研究所で1928年(昭和3年)3月に始まり、同年4月に設計要目が決定、8月に概略設計図面が出来上がり、直ちに陸軍造兵廠大阪工廠に発注され1929年(昭和4年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成した。

以後の量産は改修型も含め、民間企業である三菱航空機(1928年(昭和3年)に三菱内燃機から改称。のちの1934年(昭和9年)に三菱造船と合併し三菱重工業となる)にて行われた。1929年(昭和4年)12月1日に三菱航空機は、戦車工場として大井工場を新設し、名古屋製作所芝浦分工場と併せて東京製作所とした。1931年(昭和6年)の満州事変後、日本製鋼所神戸製鋼所汽車製造株式会社[4]も生産に関わるようになった。1937年(昭和12年)には下丸子に三菱重工業東京機器製作所丸子工場が新設され、1938年(昭和13年)に陸軍指定の戦車専門工場として稼働し、国産戦車の6割を生産するようになる[5]

1929年10月には東京青森間660kmの長距離運行試験に成功し、同年同月に八九式軽戦車として仮制式化(仮制定)された。初期試作車は、予定通り重量が9.8 tにおさまったため軽戦車に分類されたが、部隊の運用経験から度々改修が施され(この改修によって機動性は悪化している)、最終的な完成形では車体重量が11.8 t に増加した結果、分類基準の10 tを超えてしまった。さらに八九式軽戦車よりも軽量な九五式軽戦車が開発されたため新たに中戦車の区分が設けられ、1935年(昭和10年)9月13日に制式名称を八九式中戦車と改定(再分類)されている。

また、のちの九七式中戦車(チハ車)の頃からカタカナ2文字の秘匿名称(試作名称)を付すようになり、さかのぼって八九式中戦車には甲型にチイ、乙型はチロとされた。この「チ」は中戦車、「イ」はイロハ順で1番目を意味する。しかし命名が遅過ぎたためか、実際に運用部隊等でチイ、チロと呼ばれることはなかったようである。

試作車が完成し仮制式化されても、試作車の改修や、日本で初めての戦車の量産故に、すぐには量産体制が整わず、八九式軽戦車の生産は遅々として進まず、間に合わせとして、1930年(昭和5年)に、フランスからルノーNC27軽戦車を10輌(12輌説あり)輸入したが、装甲厚を除き攻撃力や対射撃抗堪性・走行性能など総合性能は、八九式軽戦車の方が優れていた。生産数は甲型が1934年(昭和9年)までに220輌、乙型が1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)にかけて184輌以上である(甲型が1930年(昭和5年)から1935年(昭和10年)にかけて283輌、乙型が1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて126輌、総計409輌との説あり)。

八九式は軽戦車と中戦車の二面性を持つ戦車であり、のちに軽戦車としての後継として九五式軽戦車が、中戦車としての後継として九七式中戦車が開発・採用されている。

設計

車体

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八九式中戦車乙型

前期生産車は水冷ガソリンエンジンを搭載していたが、後期生産車では空冷ディーゼルエンジンに変更された。のちにガソリンエンジン搭載型は甲型、ディーゼルエンジン搭載型は乙型と分類された。

また、前期型車体と後期型車体の形状は別物に近く異なった物になっている。甲乙の分類はエンジンの違いによる区分であり、これは必ずしも前期後期の車体形状の違いと一致しない。日本軍の機密保持が徹底していた為、諸外国では形状が変化した後期型車体の八九式を、新型の九四式中戦車であると誤って認識していた[6]

酷暑地域での運用を想定して設計されており、断熱材として戦闘室と砲塔石綿の内貼りが施されていた。戦闘室と機関室は石綿加工板の中央隔壁で仕切られ、隔壁には戦闘室と機関室を通じる連絡扉があった。乗員はこの連絡扉を潜って機関室に入り、エンジンや各機器の整備や調整を行った。

機関室右側には上下に並んだ風扇(シロッコファン)があり、エンジンの冷却と戦闘室の換気を行った。射撃時は一酸化炭素中毒対策として、連絡扉や車体各部の窓を開けて行った。始動電動機(セルモーター)が付いていたが、補助用に戦闘室側の隔壁に人力始動装置用ハンドルが付いていた。乙型ではハンドルは廃止された。

車体左袖部(ゆうぶ、車体側面の張り出し部分)最後部に水タンクが設置してあり、水冷ガソリンエンジンの予備冷却水にする他に、乗員用の飲料水にした。戦闘室内後部左側に蛇口がある。各型に共通する装備であり、空冷ディーゼルエンジン搭載の乙型では純粋な飲料用であった。 テンプレート:-

攻撃力

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八九式中戦車甲型(甲後期型)。車体前面の車載軽機関銃は取り除かれている

本車は歩兵直協用途に開発され、機関銃陣地撲滅を目標としていたため、主砲は対戦車戦闘などを想定していない短砲身であった。元々試製一号戦車用に開発された試製五十七粍戦車砲を、肩当を用いた直接照準操作方式[7]に改修した、18.4口径九〇式五糎七戦車砲を装備した。砲塔旋回は人力で、砲塔旋回用ハンドルを回して行う。砲塔の種類は、試作型砲塔・旧型砲塔・新型砲塔に大きく分類される。

照準器の射距離は500mまでで固定目標限定であった一方、方向射界(左右)の微調整と高低射界(俯仰)の全範囲は砲手の肩付操作で行うことから、ハンドル操作で行うよりもかなり照準は早く、空薬莢も自動排莢され、右片手で装填を行うため連続射撃もでき、徐行中であれば行進間射撃も可能であった。

榴弾威力は、九〇式榴弾の場合で弾頭炸薬量250g、九二式徹甲弾でも弾頭炸薬量103gと多く、徹甲弾(名称は徹甲弾だが、実際は徹甲榴弾(AP-HE))であっても榴弾威力を重視した設計となっていた。これらは同時期に開発された九一式手榴弾(炸薬量65g)の2倍弱~4倍強程度の炸薬量であった。

徹甲弾の貫徹能力は、ニセコ鋼板に対する試製徹甲弾を用いた試験では射距離45m/30.4mm、350m/25.7mm(存速326m/s秒)、1,400m/20.5mm(同264m/秒)、1,800m/17.5mm(同246m/秒)であった[8]

なお甲初期型の一部は、間に合わせに、九〇式五糎七戦車砲ではなく口径37mmの改造狙撃砲を装備していた(第一次上海事変に参加した5輌など)。また九〇式戦車砲の替わりに、車載用に改造した三年式機関銃(改造三年式機関銃)を主武装として旧型砲塔前部に装備した、機関銃装備型が甲初期型に存在した。その車輌の砲塔後部に機関銃は装備されていない。

1941年7月に陸軍技術本部が調整した「試作兵器発注現況調書」によれば、試作兵器として八九式中戦車に75mm砲短(該当する75mm短砲身戦車砲として当時試験されていた九九式七糎半戦車砲がある)を搭載する改修を行う記述がある。この改修車輌の希望完成年月は1941年11月となっている[9]

また八九式中戦車の九〇式五糎七戦車砲、及び九七式中戦車の九七式五糎七戦車砲の砲身を互換性のある長砲身37mm戦車砲(一式三十七粍戦車砲を基に開発)へと換装することが検討されており、1942年2月、この試製三十七粍戦車砲の試験が行われている[10]。これは本車や九七式中戦車の旧式化した短砲身57mm戦車砲を、砲身のみ換装することにより一式三十七粍戦車砲と同等威力の戦車砲へと改修することを企図したものであった。この試製三十七粍戦車砲(初速約804m/s)は、一式三十七粍砲や一式三十七粍戦車砲と弾薬(弾薬筒)は共通であり互換性があった。


本車は副武装として、初期には保弾板給弾方式の改造三年式機関銃を、のちに改造十一年式軽機関銃を経て車載用に改造した、弾倉給弾方式の九一式車載軽機関銃を車体前面と砲塔後面に装備した。

初陣の満州事変以降、中国大陸における戦いでは攻撃力不足が問題となるような深刻な脅威にぶつかることはなかった。むしろ本車への最大の不満はその低い機動力であった。これは、中国大陸におけるほとんどの戦いが「追撃戦」の様相を呈していたからである。八九式はスペック上は良道を最高速度 25km/h で走行することが可能だったが、悪路・路外では最高速度を発揮できず、8km/h ~ 12km/h 程度が実用速度となった。この反省が機動力を重視した九五式軽戦車の開発に繋がっている。しかし、ノモンハン事件太平洋戦争大東亜戦争)では対戦車戦闘能力の欠如が問題となった。

防御力

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八九式中戦車乙型

日本製鋼所が1924年(大正13年)に開発したニセコ鋼板を採用した[11]。表面浸炭処理をしたニッケル・クローム鋼で、防弾鋼板の他、船舶部品の素材としても使用された。

溶接技術の発達していない時期の開発のため、本車の装甲板はフレームにリベットで接合されていたが、これは装甲板をリベットによって接合する各国の戦車に共通の問題として防御上好ましいものではなかった。リベット接合の場合、リベットの頭に被弾すると残りの部分が弾け飛び、車内を跳ね回って乗員を傷つける危険性が高かった。

装甲厚は、車体前面が17mm、車体側面上部と車体後面(一部は12mm)が15mm、車体側面下部が12mm+増加装甲3mm、車体下面が5mm、車体上面が10mm、砲塔周囲が17mm、砲塔上面が10mmである。射距離150mの十一年式平射歩兵砲(口径37mm)の射撃に抗堪できる装甲厚とされた。

実戦では、中支における八九式中戦車の被弾記録によると、7.92mm徹甲実包(7.7mm徹甲実包や、7.92mm普通実包以上に威力がある)を、射距離30m~70mから複数被弾した事例が記載されている。これらは、あらゆる角度から被弾しても装甲に十数mm侵徹した事例はあるものの貫通することはなかった。ただし一例だけ射距離30mから弾着角85度で被弾した場合、装甲に17mm侵徹(「砲塔部に侵入」であり貫通とは記載せず)したとなっている。13mm機関砲徹甲弾を被弾した場合は、射距離200mから弾着角90度で着弾した9発のうち1発が貫通、同距離で弾着角30度で着弾した場合は8発命中しても8mm侵徹するものの貫通することはなかった。20mm機関砲徹甲弾を被弾した場合は、射距離250mから弾着角90度で着弾した11発のうち4発が貫通した。37mm砲徹甲弾(3.7 cm PaK 36と思われる)を被弾した場合は、射距離300m以内ならばあらゆる角度から被弾しても貫通、となっており、射距離500mから弾着角30度で着弾した場合は貫通せず、深さ3mm、幅18mm、長さ40mmの侵徹痕が出来た、と記載されている[12]

機動力

エンジン

甲型の水冷ガソリンエンジンはダイムラーが開発した航空用水冷直列6気筒100hpガソリンエンジンを戦車用に転用した物である。これはタウベに搭載された物と同系列で、日本では東京砲兵工廠1916年(大正5年)にダ式六型の名称で国産化され、モ式六型偵察機に搭載された。1917年(大正6年)に東京砲兵工廠は、民間工場育成のために、東京瓦斯電気工業(瓦斯電。後のいすゞ自動車)と日本製鋼所に航空用エンジンを試作発注した。1918年(大正7年)に瓦斯電ではダ式一〇〇馬力発動機が、日本製鋼所室蘭工業所では室0号が製造された。これらは日本国内の民間工場初の航空用エンジンの製造でもあった。日本製鋼所では採算が取れなかったために、わずか20基の生産で航空用エンジンの生産事業から撤退したが、のちに室0号は戦車用エンジン開発の参考用に日本製鋼所東京製作所に譲渡された。以後の戦車用エンジンとしての量産は瓦斯電で行われた。出力は105 hp/1,400 rpm、最大118 hp/1,600 rpm、排気量は9,500cc。

乙型の空冷ディーゼルエンジンの搭載は車体形状の変更より遅れ、三菱が1932年(昭和7年)から、アメリカのフランクリン製「シリーズ15」空冷直列6気筒ガソリンエンジンや、イギリスのデ・ハビランド製「ジプシーI」空冷直列4気筒ガソリンエンジンを参考に開発を開始し、最初の試作エンジンが1933年(昭和8年)末に完成、1934年(昭和9年)~1935年(昭和10年)頃から、車体に搭載され、耐寒試験、実用試験、耐久試験を行い、エンジンに改良を加え、1936年(昭和11年)に社内記号三菱A六一二〇VD(「イ号機」とも呼ばれる)は制式採用となった(「三菱A六一二〇VDb」とする説もある)。六一二〇とは6気筒120hpを意味する。水冷ガソリンエンジンから空冷ディーセルエンジンへは、重量は330kgから650Kgへと重くなったが、大きさはほとんど変わらなかったので、車体形状を変更することなく、巧く換装することができた。テンプレート:要出典範囲。但し、現在閲覧できる当時の諸元表上の数値は「空冷6気筒・最大120馬力」である[13]。出力は120 hp、最大108 hp、排気量は14,300cc。燃料搭載量は170l、消費は1時間で約18l。

なお八九式中戦車乙型(空冷として初)は、ポーランド7TP(液冷として初)と並んで、世界初のディーゼルエンジン搭載戦車である。

空冷ディーゼルエンジンは、燃費が良く、圧縮による自己着火なので点火プラグなどの電装系と、空冷なので冷却水循環配管を省略でき、故に整備性が高く、燃料が軽油なので攻撃や事故で損傷した際に火災になりにくく(実際にノモンハン事件では火炎瓶攻撃により炎上するガソリンエンジン装備のソ連軍戦車が続出した)、冷却水の調達(水が凍る厳冬地では困難だった)が不要で、また凍結することがないのでエンジンが破損しない、などが利点だった。反面、潤滑油を多く消費し、排煙、騒音、振動が酷くなり、また始動が難しく、冬の満州では車体の下に穴を掘りそこで焚き火をしてエンジンを温めて始動させていた。一般に同一馬力あたりでは、ディーゼルエンジンはガソリンエンジンに対して大きくて重く、日本のディーゼルエンジンはそれが特に顕著だった。そのためこれを採用した日本の戦闘車輌は、限られた車内空間と積載可能重量を、大きくて重くて低出力のディーゼルエンジンが占めるため、狭い居住性、薄い装甲、貧弱な武装、走行性能の悪化など、様々な面で制約を受けた。また実戦経験に基づいた武装や装甲の強化といった改修を求める意見に対しても車体に余裕が無いため、僅かな改善や能力向上しかできない結果に繋がった。

消音器マフラー)は甲・乙ともに、機関室の左側面後方のフェンダー上に1つ配置されていた。

走行装置

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フィリピン攻略戦において、歩兵と荷物を乗せて行軍中の八九式中戦車

これより後の国産戦車が車体前方に起動輪(スプロケットホイール)があるのとは異なり、本車は車体後方にある後輪駆動方式である。しかし動力伝達機構がコの字型と複雑な配置であった[14]。また履帯外れ防止用に誘導輪(アイドラーホイール)にも歯があった。転輪は小型の物が片側9個(4個で1組が2組、最前部の1個は衝撃緩衝用に独立した制衝転輪)、上部支持輪は前期型で片側5個、後期型で片側4個あった。小転輪を多数並べる方式は、地形追従性は良いが、高速走行には不向きであり、転輪数が多いため整備面でも運用上の実用性を下げた。車体下部側面には装甲板(懸架框、けんかきょう)があり、リーフ式サスペンションを守る役目の他、誘導輪と起動輪を挟み込むように支えていた。上部支持輪(リターン・ローラー)とフェンダーは装甲板から伸びる支持架で支えられていた。

履帯は、甲極初期型では履板のピッチ(縦幅)の長い、含ニッケル特殊鋳鋼製の初期型履帯を装着していたが、それ以後は、1930年(昭和5年)に輸入したヴィッカース 6t戦車の履帯を参考に、イギリスのハットフィールド鋼を模倣し、1932年(昭和7年)頃に小松製作所が開発(技術導入)した、ピッチの短い精密鋳造されたハイマンガン鋼(マンガンを高含有する鋼)製の後期型履帯を装着していた。ハイマンガン鋼製履帯は鋼製履帯に比べ、高い耐磨耗性をもち、以後の国産戦車の履帯の標準となった。また履板形状にもいくつかの種類があった。片側の履板枚数は、ピッチの長い初期型履帯が50枚、ピッチの短い後期型履帯が74枚、後期型懸架装置に変更された甲中期型後期仕様以後では81枚であった。また車体前方にある誘導輪の位置を前後に微調整することで、履帯のテンションを調整することができた。

甲中期型以降の車体後部にはルノー FTに見られるような尾体(尾橇、ソリ)が付いていた。これは車体の全長を長くすることで塹壕を越える際に落ち込むことを防ぐ以外に土手を登る際に後転するのを防ぐ意味がある。これにより超壕能力が2mから2.5mになった。しかし実際には、塹壕戦が主流だった第一次世界大戦と異なり、追撃戦が主流となった日中戦争では、本来の目的である超壕用としてはほとんど役に立たず、荷物置き場として使用されていた[15]。尾体の積載能力としては、ドラム缶3本を積むことができたとされる。甲後期型では車体後面にセルモーター強化用の蓄電池収納箱が増設され、尾体はそれを囲んで保護する役割も果たしている。また、尾体の付いていない車輌も存在した。 テンプレート:-

甲型と乙型

エンジンが変更された当時から、八九式中戦車は「ガソリンエンジン搭載型を甲型、ディーゼルエンジン搭載型を乙型」としてエンジンを中心に区分されていた。

戦後、エンジン変更と同時に車体形状が変化したと思われていたので、「甲型(ガソリンエンジン搭載型)は前期型車体(甲型車体と一般に呼ばれる)であり、乙型(ディーゼルエンジン搭載型)は後期型車体(乙型車体と一般に呼ばれる)である」と、エンジンと車体形状が対応して一致していると思われていた。そのため甲乙といえばエンジンの種類だけでなく、同時に車体形状の型を意味していた。しかしながら、一見車体形状が乙型でありながらガソリンエンジンを搭載していた八九式が多数存在したことが判明し、エンジンと車体形状が必ずしも対応していないことが知られるようになった。この場合エンジンを中心にした本来の区分だと、この八九式は乙型ではなく、甲型(ガソリンエンジン搭載型)の後期型車体に分類される。これは車体変更が1933年(昭和8年)からであり、エンジン変更が1934年(昭和9年)~1935年(昭和10年)頃からと、ずれがあるためである。

前期型車体(甲型車体)と後期型車体(乙型車体)の違い

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八九式中戦車甲前期型。前期型砲塔の特徴である小型のトルコ帽型車長展望塔。
  • 前期型では車体正面の傾斜角度が途中で折れて変わっているが、後期型では同一平面になっている。
  • 前期型では操縦手席が車体左側で機銃手席が車体右側に並んでいたが、後期型では操縦手席と機銃手席の位置が入れ替わっている。そのため前方機銃や乗降扉と、操縦手用視察窓の位置も左右入れ替わっている。
  • 操縦手が外部視察に使う回転展望窓(ストロボスコープ)の、モーターで回転する円形の板が、前期型の放射状のスリットから細かい穴開き状に変更されている。また板が露出した部分が円形から、上半分を装甲で覆い半円形になっている。
  • 前期型では車体側面両側に2つあった前照灯が、後期型では正面中央寄りに1つ埋め込み式に蓋付きで装備している。
  • 後期型には尾体が付いている。
  • 後期型では超壕能力を増すために、車体前方にある誘導輪が前方に50cm程突出している。
  • 後期型では前期型より、地上と車体のクリアランスが15cm程高くなっている。
  • 後期型では側方視察用の窓が車体左右袖部前部に設けられている。
  • 前期型砲塔は前面が曲面だが、後期型は平面になっている。
  • 前期型砲塔には小型のトルコ帽型車長展望塔がついているが、後期型ではハッチ付きの大型車長展望塔(キューポラ)になっている。
  • 車体左右袖部の燃料・水タンクの上面にある蓋の、位置や数が異なる。給油口蓋は、前期型では右5個左2個、後期型では右4個左3個、乙型では廃止。給水口蓋は、各型左袖部最後部に1個。

車体形状の分類と変遷

本車の車体形状は、試作車および甲初期型・甲中期型・甲後期型・乙型に分類される。以下に各型の特徴と変遷を記すが、これらの特徴は厳密に区分されるものではなく、それぞれの特徴が混ざった車輌が存在する。

試作車

水冷ガソリンエンジン搭載型。操縦手席が車体左側、機銃手席が車体右側にある。操縦主席前面は操縦手フードが突出している。機銃主席前面は一枚板である。乗降用前扉は車体前面右側にあり、車体中央向きに開く。試作型砲塔を搭載している。回転展望窓が砲塔左右両側にある。砲塔の回転展望窓は手動式。展望塔は無い。前期型懸架装置。試製五糎七戦車砲と改造三年式機関銃を装備。機関銃の銃身は剥き出しで防弾器は付いていない。フェンダー支持架は前が2本、後ろが3本。給水口蓋は、各型左袖部上面最後部に1個。

甲初期型

1931年(昭和6年)の生産開始から1933年(昭和8年)半ばまでの仕様。水冷ガソリンエンジン搭載型。車体前面が大きく変化し、途中で傾斜角度の変わる、くの字型になる。旧型砲塔。トルコ帽型展望塔の設置。砲塔上面の乗降用ハッチは左右に二分割。旧型砲塔に大型展望塔が付いた物もある。砲塔右側の回転展望窓の廃止。初期型車体に後から新型砲塔を搭載した車輌もある。前期型懸架装置。乗降用前扉は上下二分割で車体右向きに開く。操縦手用の視察扉の回転展望窓は車体左寄りである。大型前照灯が車体前部左右に設置されている。九〇式五糎七戦車砲と改造三年式機関銃(後に九一式車載機関銃)を装備。一部車輌は37mm改造狙撃砲を装備。生産途中から機関銃の銃身に防弾器が追加される。遡って尾体と気化器(キャブレター)用空気取り入れ口を設置した車輌がある。車体左右袖部上面の給油口蓋は、右5個左2個。甲極初期型は履板のピッチが長い、鋼製の初期型履帯を装備している。1932年(昭和7年)以後は履板のピッチが短い、ハイマンガン鋼製の後期型履帯を装備している。

甲中期型

1933年(昭和8年)後期から1934年(昭和9年)頃までの仕様。甲中期型は、甲初期型から甲後期型への過渡期であり、生産数は少ないとされる。水冷ガソリンエンジン搭載型。車体前面が大きく変化し、傾斜した一枚板になる。乗降用前扉は一枚板になり、車体右向きに開く。操縦手用の視察扉の形状がブロック状になる。視察扉の回転展望窓は車体中央寄りになる。側方視察用の窓が車体左右袖部(ゆうぶ、車体側面の張り出し部分)前部に設けられる。車体右袖部前部に拳銃孔(ピストルポート)と覘視孔が設置される。車体左右袖部上面の給油口蓋は、右5個左2個。車体前面中央に小型前照灯(明暗二段階切り替え式)を装甲蓋付きの格納式に設置する。フェンダー支持架の廃止。超壕用の尾体が装備されるが、無い車輌もある。車体後部上面に気化器用空気取り入れ口が設置される。九〇式五糎七戦車砲と九一式車載軽機関銃を装備。車体銃の基部に装甲被(カバー)が追加される。マフラー基部に防弾板が追加される。前部フェンダーに補強板が追加される。甲中期型は、砲塔と懸架装置によって、前期仕様と後期仕様にさらに分類される。

  • 甲中期型前期仕様

旧型砲塔。前期型懸架装置。旧型砲塔に大型展望塔が付いた物もある。

  • 甲中期型後期仕様

新型砲塔。砲塔前面が平らになる。大型展望塔が設置される。大型展望塔は前後に二分割のハッチを持つ。砲塔左側の回転展望窓は廃止される。後期型懸架装置。後期型懸架装置では、超壕能力を高めるために誘導輪が前方に50cm突出する。またサスペンション取り付け位置が15cm下げられ、車体下面と地表とのクリアランスが広くなる。上部転輪(リターン・ローラー)が5個から4個になる。また上部転輪支持架が廃止され、上部転輪が片持ち式になる。

甲後期型

1934年(昭和9年)頃からの仕様。水冷ガソリンエンジン搭載型。新型砲塔。後期型懸架装置。操縦手席と視察扉を車体右側に移設し、換わりに車体左側に機銃手席と機関銃と車体左向きに開く乗降用前扉が設置される。新型砲塔に高射具が設置される。砲塔前面と車体前面に増加装甲を施した車輌がある。車体前面装甲板は中央で左右二分割。車体左袖部前部に拳銃孔と覘視孔が設置される(右は廃止)。始動電動機の強化に伴い、車体後面(尾体の付け根)に蓄電池収納箱が増設される。それに伴い車体後部上面に点検扉が設置される。マフラーの排気口は円筒形。車体左右袖部上面の給油口蓋は右4個左3個。

乙型

八九式中戦車の最終型である。空冷ディーゼルエンジン搭載型。これにより機関室右側の放熱函(ラジエーター)が不要になり、そこに車体左右袖部の燃料タンクを移設する。代わりに機関室内にあった蓄電池と滑油タンクを車体左右袖部に移設する。車体左右袖部上面の給油口蓋が廃止される。車体後部上面右側に燃料補給口蓋が主・副2つ設置される。車体右袖部最後部上面に滑油補給口蓋が1個設置される。新型砲塔。後期型懸架装置。車体左右袖部前部に拳銃孔と覘視孔が設置される。エンジンの真上の冷却用空気排出鎧窓にヒンジが設けられ、左に開くようになる。風扇真上の冷却用空気排出鎧窓が廃止される。シロッコファンと空冷ディーゼルエンジンが風洞で繋がれる。車体後部斜面中央の点検扉が大型になる。車体後部上面の冷却水補給口蓋と滑油補給口蓋が廃止される。車体後部上面の気化器用空気取り入れ口と点検扉が廃止される。後部フェンダーが延長される。マフラーの防護枠が変更される。マフラーの排気口は平たく潰れた三角形。これらが乙型を見分ける特徴である。

実戦

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ノモンハン事件における八九式中戦車と戦車兵。中央奥は九七式中戦車

本車は1931年(昭和6年)の満州事変で初陣を経験した。百武俊吉大尉率いる臨時派遣第1戦車隊に、ルノー FT-17軽戦車やルノーNC27軽戦車の置き換えとして配備された。

1932年(昭和7年)に勃発した第一次上海事変では、重見伊三雄大尉率いる独立戦車第2中隊に本車5輛が配備された。また同隊にはルノー乙型戦車10輛も配備され、実戦比較された結果、八九式に軍配が上がった。この戦いでは戦車部隊が注目を集め、「鉄牛部隊」として活躍が報じられた(当の戦車兵はこの名称を好まず、のちの戦いでは「鉄獅子(てつじし)」と報じられるようになる)。しかし、中国国民革命軍の精鋭第十九路軍の激しい抵抗と、網目のようなクリークに妨げられ、必ずしも楽な戦いではなかった。

1933年(昭和8年)に発動された熱河作戦に於ける承徳攻略戦で、臨時派遣第1戦車隊は日本初となる機械化部隊である川原挺進隊に加わったが、本車は悪路に起因する足回りの故障が多発し、活躍の主役はより高速な九二式重装甲車に奪われた。この作戦では日本初の戦車単独による夜襲なども行われている。

初めて本格的な対戦車戦闘を経験した1939年(昭和14年)のノモンハン事件においては、九五式軽戦車と少数の九七式中戦車とともに中戦車の主力として投入された。この戦いでは、日本軍戦車の対戦車戦闘における攻撃・防御両面能力不足が露見した。そのため、九七式中戦車では対戦車能力を向上させた新型戦車砲の開発(試製四十七粍戦車砲)が同年から行われ、これは一式四十七粍戦車砲として制式採用され新砲塔チハに搭載、また1940年(昭和15年)には攻撃力・防御力・機動力全体を向上させたチヘ車(一式中戦車)の開発が行われた。しかしながら日本の国力の低さおよび、1930年代後期から第二次大戦にかけては航空機と艦艇の開発・生産が優先され、後継戦車の開発・量産が遅延していたため八九式の改良も放置される事となった。

太平洋戦争開戦時には、九五式軽戦車・九七式中戦車への更新が進んでいたが、南方作戦フィリピン攻略戦において戦車第4連隊が装備する少数の本車が投入された。また、末期のルソン島防衛戦の際には、戦車不足のため、既に引退していた本車までもかき集められ戦闘に参加している。

軍神西住戦車長

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西住小次郎と搭乗車

テンプレート:Main 本車は「軍神」として有名になった西住小次郎大尉の乗車であった。西住は戦車第5大隊第2中隊隷下の小隊長として、支那事変における1937年(昭和12年)の第二次上海事変から徐州会戦中の1938年(昭和13年)5月17日に流れ弾に当たって戦死するまでの間、30回以上の戦闘に参加した。

現存車両

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陸軍兵器博物館の甲後期型

アメリカアバディーンにある陸軍兵器博物館およびフィリピンレイテ島南部ラグナ州サン・パブロ市ビラ・エスクデロにある博物館に、太平洋戦争中に鹵獲された甲後期型が屋外展示にて保管されている。また乙型が三式中戦車(チヌ車)とともに陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校に保管されている。現存する乙型は世界にこの一輌のみである。

土浦駐屯地の乙型は隊員教育の一環として自走可能状態までレストアされており、2007年(平成19年)10月14日の開庁55周年記念駐屯地祭で公開された。エンジンや電気系統などは現代の物を使用しており軽快に走行する。砲身は木製の精巧なダミーではあるが上下に可動し、砲塔前面の増加装甲が再現されている。 テンプレート:-

登場作品

  • ガールズ&パンツァー』 - 日本のテレビアニメーション。Bチーム(バレー部、アヒルさんチーム)が八九式中戦車甲型(甲後期型)に搭乗する。製作にあたり陸上自衛隊保管車輌への取材も行われた。
  • バサラ戦車隊』 - 終戦直前の満州を舞台に、侵攻するソ連軍から民間人を守って奮闘する「バサラ戦車隊」の活躍を描いた漫画。作者は望月三起也。月刊誌「アーマーモデリング」に掲載。発行は大日本絵画

脚注

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参考文献

関連項目

テンプレート:戦間期の戦車

テンプレート:第二次世界大戦の日本の装甲戦闘車両テンプレート:Sister
  1. 結果としてそうなってしまったというよりも、そもそも設計段階から16 t仕様で重量の嵩む多砲塔戦車として開発されたことから、軽戦車として造る意図は無く、戦車の国産化を決定づけるためのデモンストレーターとして、当時の日本の技術で可能な限り大きくて強力な戦車を造ろうとしていたと想像される。
  2. イギリスでは中戦車だが日本では重戦車扱い。
  3. 同時に重戦車(後の試製九一式重戦車)の開発も決定している。このことから1928年(昭和3年)当時の日本陸軍は、10t程度の軽戦車(主力・多数)と18t程度の重戦車(補完・少数、多砲塔戦車)の二本立てで戦車隊を整備する構想を持っていたものと推察される。ところがすぐにその構想は、第一次世界大戦後の不況および1929年(昭和4年)からの世界的大不況を契機とする、軍事予算の削減による、新世代の6t級軽戦車およびカーデン・ロイド系豆戦車を主力とする、安価かつ高速軽量な装甲車輌を求める、世界的潮流の変化により、1930年(昭和5年)を境に大きく転換し、1930年代半ばの6t程度の軽戦車(主力・多数)と12t程度の中戦車(補完・少数、単砲塔戦車)の二本立て+豆戦車(補助車輌)を整備する構想に変化していったものと考えられる。そこで1930年に、6t級の軽戦車であるヴィッカース 6トン戦車ルノー NC27 軽戦車フィアット3000Bおよび装輪装軌併用式戦車と、豆戦車であるカーデン・ロイド Mk.VIが輸入され、比較検討と研究が行われ、その結果、ヴィッカース 6t戦車を参考に後の九五式軽戦車と、カーデン・ロイド Mk.VIを参考に後の九四式軽装甲車が開発されることになったと考えられる。
  4. 汽車製造株式会社製の八九式は部隊からは不評だったといわれている。
  5. 当時から下丸子は一大工業地域であり、主な工場として、1928年(昭和3年)に三井精機の前身である津上製作所(工作機械製造)、1934年(昭和9年)に北辰電機(光学工業)、1935年(昭和10年)に日本精工kk(ボールベアリング製造)、1937年(昭和12年)にキヤノン光学kkなどが移転してきた。これらの工場の多くは、1943年(昭和18年)に軍需会社法により軍需工場に指定された。
  6. これは後期型車体が登場したのが1933年(昭和8年)からで、一般に知られるようになったのが1934年(昭和9年)だからである。
  7. この方式が以後の日本戦車に主砲同軸機関銃の採用を困難にした原因にもなった。
  8. 「歩兵火器弾丸効力試験 等」12頁。
    なお前2者(射距離45mと350mの試験)では弾頭に亀裂が生じたとある。</br>
  9. 『機甲入門』p551、p552
  10. 「試製1式37粍砲、試製1式37粍戦車砲、試製37粍戦車砲、97式5糎7戦車砲機能抗堪弾道性試験要報」
  11. ニセコの名称は公式には日本製鋼所の略であるが、それと同時に、ニッケル・クローム鋼と、日本製鋼所室蘭工場近くの地名であるニセコとをかけたトリプルミーニングである。
  12. 『機甲入門』p535、p536
  13. 館山海軍砲術学校「陸戦兵器要目表」37頁、陸軍省「陸軍軍需審議会に於いて審議の件」53-54頁等
  14. 車体後部左側に縦に配置された直列エンジンから出力軸が前方に出て、右に曲がって、さらに後方に曲がって、車体後部中央のクラッチ変速機に繋がっていた
  15. 身の回りの品を積めるので、乗員や随伴歩兵には重宝され好評だったが、そうした使用法は後部サスペンションがへたるため整備兵には不評だった。