フィレンツェ

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テンプレート:コムーネ フィレンツェテンプレート:Lang-itテンプレート:IPA audio link)は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体コムーネ)。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。

中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。

市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている。1986年には欧州文化首都に選ばれた。

名称

語源

古代ローマ時代、花の女神フローラの町としてフロレンティア (Florentia) と名付けた事が語源とされている。周辺国ではフィレンツェのことを、英語でテンプレート:ルビ、スペイン語でテンプレート:ルビ、ドイツ語でテンプレート:ルビ、フランス語でテンプレート:ルビと呼ぶことにもその名残が見られる。

地理

位置・広がり・地勢

フィレンツェはSenese Clavey Hillsの盆地に位置している。アルノ川と三つの小川が当地を流れる。

隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。

歴史

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フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設されたが、直接の起源は紀元前59年、執政官カエサルによって入植者(退役軍人)への土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによる。中世には一時神聖ローマ帝国皇帝が支配した(テンプレート:仮リンク846年 - 1197年)。次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、1115年には自治都市、13世紀に共和制となった(フィレンツェ共和国1115年 - 1532年)。フィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めた。

1300年頃、二つの党派、教皇派・教皇党ネーリ(黒党)と皇帝党のビアンキ(白党)による内乱がはじまった(教皇派と皇帝派)。内乱は終止符が打たれ、敗れたビアンキに所属し、医師組合からプリオリに推されていたダンテ・アリギエーリ1302年、フィレンツェから追放される[1]。この間の事情については、当時のフィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニが年代記を残している。このような内部抗争が起ころうとも、都市は繁栄していた。

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その後、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトスカーナの中心都市となり、最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になった。そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことでフィレンツェは安定していた。もっとも裕福だった毛織物組合は14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200の店舗を所有していた。 メディチ家は金融業などで有力になり(テンプレート:仮リンク1397年 - 1494年)、商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェを美しい都市にする事業に着手した。14~15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にした。1410年ジョヴァンニ・ディ・ビッチローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、ピサ教会会議の対立教皇アレクサンデル5世が急死すると(暗殺説もある)、ヨハネス23世を対立教皇に据え、メディチ銀行は教皇庁との取引で莫大な利益を上げた。

1433年、労働者と富裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチは貴族党派によってフィレンツェから追放された。だが、翌年コジモは復帰して敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。1439年フィレンツェ公会議 1464年のコジモの死後は、その子ピエロにその権力を継承した。

孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。ロレンツォ・イル・マニーフィコ(偉大なるロレンツォ)とよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のボッティチェッリや人文主義者をその周囲にあつめた。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェは一時的にイタリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになった。フィレンツェのフローリン金貨は、全欧州の貿易の基準通貨となってフィレンツェの商業は世界を支配した。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花し、ボッティチェッリレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となって学問・芸術の大輪の花が開いた。教皇シクストゥス4世(在位:1471年 - 1484年)がメディチの特権を取り消し、1478年にロレンツォと弟ジュリアーノが襲撃されたパッツィ家の陰謀でメディチ家の打倒が図られたが、暗殺者らと陰謀に加担していたパッツィ家は捕らえられて処刑された。同年、シクストゥス4世はスペイン異端審問を許可し、ユダヤ人商人への借金が多かったフェルナンド2世は異端審問によって社会的に抹殺することで債務を帳消しにしていった。翌年に計画の首謀者とされたピサ大司教が殺害されると、教皇庁とフィレンツェとの間で2年間の戦争が勃発した。(首謀者はウルビーノ公国フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロとする研究もある。)1482年にシクストゥス4世は、ヴェネツィア軍によるフェラーラ公国への攻撃を計画したが(テンプレート:仮リンク)、ミラノ公国スフォルツァ家、フィレンツェのメディチ家アラゴン朝ナポリ王国が阻止に動くと、翌年にはヴェネツィアへ禁令を発した。1484年8月7日に「バニョーロの和議」(テンプレート:Lang-it)が締結され、8月12日にシクストゥス4世の薨去が発表されるまで、この混乱は続いた。

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1493年ボルジア家出身の教皇アレクサンデル6世(在位:1492年 - 1503年)は反ナポリ王国同盟を結成し、1494年秋にはフランスシャルル8世にナポリ王国の回復と称してイタリアを侵略させた。ロレンツォの跡をついだ子のピエロ2世は、ナポリ王フェルディナンド1世がフィレンツェ共和国・ミラノ公国・ヴェネツィア共和国と同盟していたため、フランスに対して20万グルテンの賠償と、かつて征服したピサをフランスに渡すという屈辱的な譲歩をした[2]。これに憤慨した民衆は、同年ピエロを含む一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。ピエロ失脚後にフィレンツェの指導者として登場したのは、ドミニコ会サン・マルコ修道院の院長ジロラモ・サヴォナローラだった。しかしロレンツォの宮廷のぜいたくを痛烈に非難していたサヴォナローラは、教皇をも批判するようになり、少しずつ民衆の支持を失っていった。1498年、サヴォナローラはとうとう民衆にとらえられ、裁判にかけられたのち処刑された。1499年マキャヴェッリはピサ戦役を計画し、翌年にフランス軍とスイス傭兵を用いて実施したが失敗に終わった。

1503年に教皇ピウス3世が在位26日で急死し(暗殺説あり)、チェーザレ・ボルジアの支持を取り付けた新教皇ユリウス2世(在位:1503年 - 1513年)が就任。チェーザレはすぐに失脚し、カンブレー同盟戦争1508年 - 1516年)が勃発。1512年スペイン軍によってメディチ家が権力の座に復帰すると、1513年2月にボスコリ事件マキャヴェッリが失脚し、3月メディチ家から新教皇レオ10世が誕生する。マキャヴェッリは隠遁生活中(1513年 - 1514年)に『君主論』『政略論』を完成した。1517年にレオ10世がサン・ピエトロ大聖堂建設資金の為にドイツでの贖宥状販売を認めると、ルター95ヶ条の論題でこれに抗議したことをきっかけに、1525年ドイツ農民戦争が勃発して宗教改革が本格化した。1521年ミラノ公国スフォルツァ家を追放した。

1527年に教皇クレメンス7世(在位:1523年 - 1534年)がフランス王・フランソワ1世と同盟を結んだことをきっかけに、カール5世による報復のローマ略奪を招いた責任を問われてふたたび追放された。1530年にはクレメンス7世と皇帝カール5世が和解したため、メディチ家はフィレンツェに帰還、復権する。1532年にはフィレンツェ公国1532年 - 1569年)となった。1533年にクレメンス7世は、フランス王フランソワ1世と縁組みをまとめ、カトリーヌ・ド・メディシスと後のアンリ2世が結婚。

カトリーヌは10人の子を産だものの、ユグノー戦争1562年 - 1598年)が勃発。教皇ピウス5世(在位:1566年 - 1572年)のフランスへの影響力を示したサン・バルテルミの虐殺1572年)が知られている。1569年には教皇ピウス5世の手でトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェはトスカーナ大公国1569年 - 1860年)の首都となったが、政治的・経済的に次第に衰退した。

ヴァロワ朝は断絶し、1589年アンリ4世 (フランス王)ブルボン朝を開いた。トスカーナ大公フランチェスコ1世(在位:1574年 - 1587年)は、娘マリー・ド・メディシスフランス国王アンリ4世 (フランス王)の2番目の王妃に据えることに成功し、息子ルイ13世 (フランス王)を生んだ。マリーは、アンリ4世の結んだ対ハプスブルク家政略結婚の政治方針をことごとく破棄し、リシュリューを支援者として登用しようとした。成人したルイ13世は、マリーをブロワ城へ幽閉したが、1618年三十年戦争が勃発すると、1619年にマリーは脱出して反乱したが鎮圧された。講和条約ヴェストファーレン条約が結ばれ、ヴェストファーレン体制における列強にメディチ家の名前はもはや無かった。三十年戦争からイングランドへ帰国したチャールズ1世は増税を行なってイングランド内戦を誘発し、オリバー・クロムウェルが台頭する。テンプレート:仮リンクが継続され、フランスとクロムウェルの派遣したイングランド共和国の連合軍はテンプレート:仮リンクに勝利し、1659年ピレネー条約を締結。マリーの二人の孫、ルイ14世マリー・テレーズ・ドートリッシュが結婚して、スペインは50万エスクードを持参金としてフランスに支払った。こうしてスペインは没落し、フランスの覇権が始まった。

1737年に継承者がとだえ、メディチ家のトスカーナ支配はおわった。トスカーナ大公国はオーストリアハプスブルク家に継承された。フェルディナンド3世は、1799年フランスによって退位させられたが、1814年復帰した。1849年に追放されたレオポルド2世はオーストリア軍とともに復帰したが、イタリアの独立をもとめる戦いが続き、1859年に退位した。結局、18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン時代を除いてハプスブルク家の支配下にあった。

1860年イタリア王国1861年 - 1946年)に合併され、1865年からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のおさめるイタリア王国の首都となるものの、1871年首都はローマに移された。第二次世界大戦中、フィレンツェの記念建築物の大部分は被害をまぬがれたが、ヴェッキオ橋をのぞく橋のすべてが1944年に破壊された。

1966年の大洪水でたくさんの芸術財産が被害をうけたが、その多くは精巧な修復技術で数年をかけて復元された。

行政

分離集落

フィレンツェには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。

  • Galluzzo, Settignano, Le Piagge, Gavinana, Isolotto, Trespiano, Legnaia, Ponte a Greve, Rovezzano, Novoli, Careggi, Peretola, Sollicciano, Rifredi, San Frediano, Oltrarno

社会

経済・産業

観光業、繊維工業、金属加工業、製薬業、ガラス窯業ジュエリー刺繍などの工芸が盛んである。 観光はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂サンタ・クローチェ聖堂サン・ロレンツォ聖堂サンタ・マリア・ノヴェッラ教会ウフィツィ美術館などの歴史的な建造物が中心である。 貴金属皮ジャケットなどの革製品、フィレンツェ紙や、手作り香水や化粧品、焼き物など、伝統的手工芸製品の小売店も多い。

自然・環境

気候

フィレンツェは温暖湿潤気候 (Cfa) と、地中海性気候 (Csa) の境界線上である。[3]当地は活発な降水によって蒸し暑い夏と、涼しく湿った冬が特徴である。いくつもも丘に囲まれて、7月から8月にかけては蒸し暑くなる。また盆地ゆえ風が少なく、夏の気温は周りの沿岸部より高い。夏の降雨は対流によるもの。一方冬の降雨降雪は別の理由によるものである。最高気温の公式記録は1983年7月26日の42.6°Cで、最低気温は1985年1月12日の-23.2°Cである。[4]

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観光

スポーツ

イタリアサッカーリーグのセリエAACFフィオレンティーナ (ACF Fiorentina SpA)が本拠を置いている。かつて、中田英寿が在籍していた。6月末の聖ヨハネの日にはこのフィレンツェの守護聖人にちなんで、サンタ・クローチェ聖堂の広場で古式サッカー(Calcio Storico)が4つのチームで行われる。

交通

鉄道

鉄道では、トレニタリアの路線がいくつもフィレンツェを一つの拠点とし、各都市とを結んでいる。街のターミナル駅は市街地に近いフィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅(フィレンツェSMN駅)で、ユーロスター・イタリアをはじめとする優等列車、さらにはヨーロッパの他国へ向かう国際列車が発着する。

街の外縁にはフィレンツェ・リフレディ駅フィレンツェ・カンポ・ディ・マルテ駅といった中核駅があり、頭端式ホームを採用しているフィレンツェSMN駅での折り返しを避けるため、短絡線を経由して同駅に立ち寄らず、代わりにそれら外縁の駅をフィレンツェにおける停車駅としている列車が存在する。

市内交通

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フィレンツェSMN駅前のトラム

市内の交通はこれまでもっぱら路線バスが担っており、軌道系交通機関は長く存在していなかったが、フィレンツェSMN駅前から隣町のスカンディッチまで通じるトラムが2010年2月14日に開通した[5]。またフィレンツェSMN駅の周辺には都市間バスのターミナルがあり、ルッカプラートアレッツォサン・ジミニャーノなどへ向かうバスが発着している。

空港

空港は中規模空港であるフィレンツェ・ペレトラ空港が北西の郊外にあり、ヨーロッパ各地とを結んでいる。しかし滑走路が1,700m程度しかなく大型機の発着は困難であるため、フィレンツェから西に鉄道(レオポルダ線)ないしバスで1時間程度行ったところにある、ピサガリレオ・ガリレイ国際空港も実質的にフィレンツェの玄関として機能している。

姉妹都市

フィレンツェ市には多くの姉妹都市がある。 テンプレート:Col-begin テンプレート:Col-3

岐阜の繊維業界を中心にイタリアの都市との姉妹都市提携の機運が高まり、ファッションの中心地で繊維業の盛んなフィレンツェと提携[6]

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駐日イタリア大使の京都訪問、京都市長のフィレンツェ訪問から進展[6]。風光明媚な景観、豊富な文化遺産など類似点とする[6]

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フィレンツェの著名な人物

政争に敗れ、死刑宣告を受けてフィレンツェを追放される。その大著『神曲』の中では、フィレンツェの堕落を嘆き、悪し様に罵っている。『神曲』天国篇完成後、1321年ラヴェンナで客死して当地に埋められた。フィレンツェは遺骨の返還を要求しているが、ラヴェンナはこれに応じていない。

フィレンツェが登場するフィクション

小説

  • 眺めのいい部屋
  • マリア様がみてる:「フィレンツェ煎餅」なるインチキ名物が登場
  • 冷静と情熱のあいだ Blu・Rosso
  • メディチ家の暗号:マイケル・ホワイトのミステリー。
  • 春の戴冠辻邦生が、名画「ヴィーナスの誕生」のボッティチェッリを通し、ルネサンス期のフィレンツェを描いた大長編小説
  • 銀色のフィレンツェーメディチ家殺人事件:塩野七生の歴史小説、マルコ・ダンドロと美貌の娼妓の冒険。ヴェネチア編、ローマ編の三部作の2作目
  • わが友マキアヴェッリ:塩野七生の歴史小説
  • 地上のヴィーナス:サラ・デュナントが描く14歳の少女の物語。メディチ家が崩壊した直後のフィレンツェが舞台
  • 真夜中の訪問客:イギリスの女流作家、マグダレン・ナブのミステリー。フィレンツェの街と人々の描写が秀逸
  • 検察官:イギリスの女流作家、マグダレン・ナブ作のポリティカル・ミステリー。ジャーナリストのパオロ・ヴァゲッジとの共著
  • 未完のモザイク:ジュリオ・レオ-ニの小説で、14世紀のフィレンツェを舞台に「神曲」の作者ダンテが殺人事件を捜査
  • 殺しはフィレンツェ仕上げで:コーネリアス・ハーシュバーグのミステリー。1964年のエドガー賞受賞作
  • 星の運命:ミカエラ・ロスナーの小説。少年とミケランジェロの交友を描くファンタジー歴史小説
  • 女ごころ:サマセット・モームのサスペンス風小説。ショーン・ペン主演の映画「真夜中の銃声」の原作

戯曲

映画

コンピュータゲーム

漫画

関連項目

脚注

  1. 西村貞二『マキャベリズム』講談社・1991(p.32)
  2. 西村貞二『マキャベリズム』講談社・1991(p.36)
  3. テンプレート:Cite web
  4. テンプレート:Cite web
  5. “フィレンツェのトラムT1線開通” H.I.S.イタリア支店 ♪カプチーノ天国♪ 2011年12月21日閲覧。
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 テンプレート:Cite web

外部リンク

テンプレート:Commons&cat

公式
観光

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