リガ

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テンプレート:世界の市 リーガリガテンプレート:Lang-lvテンプレート:Lang-ruテンプレート:Lang-etテンプレート:Lang-ltテンプレート:Lang-de)は、ラトビア共和国首都で、同国最大の人口を擁する都市。人口は69万9,203人(2012年時点)。

日本語では「リガ」と表記する場合が多いが、これは標準ドイツ語名の発音に基づいたもので、ラトビア語では「リーガ」という。

バルト海真珠」と讃えられる美しい港町で、その旧市街はユネスコ世界遺産文化遺産)に登録されている。

概要

世界遺産に登録されている旧市街「リガ歴史地区」は約300棟のアールヌーボー調の建築物の宝庫として著名である。新市街は官庁やオフィスが集まる。郊外には、ラトビア民俗博物館があり、野外博物館も兼ねている。また、保養地として知られる海岸、ユールマーラも西方にある。人口約70万人のリガ市はラトビア国内はもとより、バルト三国最大の都市でもある。市内で最も高い建築物はリガラジオ&テレビタワーである。

歴史

リガの記録は既に2世紀には見られる。長くヴァリャーグによる東ローマ帝国への交易ルートとして、ダウガヴァ川は古来より利用されており、河口から15キロに広がるリガは、天然の良港であった。リガという名称もリヴォニア語の「円」という意味から由来する、とされる。(港の形状が円形だった。)

12世紀までには交易だけでなく漁業や畜産の拠点となり、ドイツ人商人の入植も12世紀半ばから盛んになる。教皇インノケンティウス3世の命を受けたシトー会アルベルトが、1200年北方十字軍を組織しリヴォニアに侵攻、23隻の軍艦と1500人の十字軍兵でリガを制圧し、リーヴ人の服属と改宗を行った。1202年に、アルベルトは、リヴォニア帯剣騎士団をリガで創立。以降、リガはバルト海とロシアの中継貿易拠点として重きをなしてくる。1282年にはハンザ同盟に加盟。経済発展の地歩を固めるが、同時にリガの繁栄は侵略者を招くこととなる。1522年には、プロテスタントを受容。1561年ドイツ騎士団の解散で、それ以後の20年間は帝国自由都市となる。

1581年から、リガはポーランド・リトアニア共和国の支配を、1621年からはグスタフ2世アドルフスウェーデン王国の支配を受ける。リガはスウェーデン王国最大の都市であった。18世紀大北方戦争が起こると、ロシアのピョートル1世がリガに侵攻、スウェーデン時代は終焉を迎える。

ニスタット条約で、リガはロシアに割譲され、第一次世界大戦までロシア領として、ロシアの重要な交易拠点とされた。20世紀まで、ロシアでモスクワサンクトペテルブルクに次ぐ第3の都市はリガであった。しかし、支配者の変遷にかかわらず、リガの住民の多くは、バルト・ドイツ人であった。

そうした中で、19世紀後半には、ラトビアの民族主義が覚醒。1918年にはラトビアはブレスト=リトフスク条約でドイツに割譲されるも、第一次世界大戦の終結でラトビアは独立を宣言。第二次世界大戦までの数年間は、リガが外交・文化的に英国に接近した時代だった。第二次世界大戦が始めると、リガはまずソ連に、そしてナチス・ドイツの軍事占領を経験する。大戦中、バルト・ドイツ人はドイツ本国に脱出し、リガのゲットーにいたユダヤ人は銃殺されるかカイザーヴァルト強制収容所送りとなった。1945年にソ連の赤軍が再度リガに軍事侵攻。ラトビア人を大量に処刑、シベリア送りにしたことから、市の人口は3分の1にまで激減することになった。代わりに、ソ連政府はロシア人をリガに集団移住させ、リガ市の民族構成は一変してしまう。1991年、ラトビアは独立を回復、リガも首都に返り咲いた。

気候

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人口構成・言語

テンプレート:Bar box リガの人口は696,618人(2013年)であり、バルト三国で最大である。しかし、独立を回復した1991年以降は減少に転じている。これは低い出生率とロシア系住民の流出やEU加盟後の他のEU諸国への海外移住が原因で、このままだと2050年には現在の半分にまで減少するという調査結果もある。住民の民族構成はラトビア全体と比べるとラトビア人の割合が少なく、ロシア人の割合が高い。独立回復時には、ソ連時代にラトビアに移住してきた者、及びその子孫で独立回復以前に出生したもの(つまり主にロシア人)にはラトビアの市民権は自動的に付与されなかった。そのため、2013年の調査によるとリガ市民の21.9%が無国籍者となっている。

これはリガの人口低下の一因でもある。2008年の調査では、リガのロシア人の比率は、1989年には47.3%であったが、2010年には40.7%に減少し、2006年にリガ市においては、ラトビア人の数がロシア人を上回った。

このように、ロシア人が多いために、ロシア語が広範囲に使われているが公用語はラトビア語のみである。

交通

市内交通は、リガ交通局Rīgas Satiksmeによって運営され、トラム(11路線)、トロリーバス(20路線)、市内バス(40路線)、ミニバス、などがある。

リガ旧市街

テンプレート:Infobox リガ旧市街は、南縁にリーガ駅と中央市場、西縁がダウガヴァ川と河港、そして東側が新市街である。

「ドイツよりもドイツらしい」と言われるような中世ドイツらしさが残るのは、ドイツ人によって都市の基礎が形作られたという歴史ゆえであろう。旧市街は中世ドイツの商業都市の特徴が多く見られ、とりわけハンザ同盟時代の街並みがよく残されている。世界遺産に登録されたのも、ロマネスクゴシックバロックなどの建築様式が混在する、歴史的学術的価値の高さによる。ソ連支配の時代、旧市街の開発は不活発であり、これが街並み保存に寄与したとみることもできる。バルトのパリと呼ばれる。

見所

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core

リガ出身の人物

姉妹都市

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関連書籍

アルタ・タバカ編『リガ案内』(土曜社、2012年)

外部リンク

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