デ・トマソ

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デ・トマソまたはデ・トマゾDe Tomaso )は、イタリアの自動車メーカーである。

1959年デ・トマソ・アウトモビリとして、アルゼンチン出身のアレハンドロ・デ・トマソイタリアモデナに設立した。アレハンドロは技術者でも、新事業を積極的に立ち上げることに野心を燃やす実業家でもなく、レーサーとして腕を鳴らした人物だった。2003年にアレハンドロが亡くなり、会社は2004年5月に解散された。その後2009年11月、フィアットの元重役であったイタリアの実業家ジャン・マリオ・ロシニョーロが商標権を取得。2011年ジュネーブモーターショーにて「デ・トマソ」ブランドで新型車を発表、新生デ・トマソとして復活した。

エンブレムはアレハンドロの母国・アルゼンチンの国旗にも使われる「水色・白・水色」の配色に古代エジプト女神イシス」を表す象形文字ヒエログリフ)を組み合わせたもの。アレハンドロは「妻・イザベル」のイニシャルと称していたというが、その主張に従うとアレハンドロ自身は冥界の王オシリスに当たることから、ローマンカトリックのお膝下たるイタリアではタブー視されていた。

歴史

テンプレート:Vertical images list デ・トマソははじめから、市販車の生産をしていたわけではなかった。起業してからの数年間はフォーミュラマシンの自社製作にほとんどを費やしていた。しかも、コンポーネント製作もフレームに限っての話で、エンジンや駆動系は市販のものを搭載していた。

1963年に3台の試作車を発表。このうちの1台であるヴァレルンガ1500は、アルミ製オープンカーからFRPクーペボディに変更して市販され、世界初のミッドシップ・ロードカーの1台として名を知られるようになった。エンジンはフォード製、ミッションはフォルクスワーゲン製(中身はヒューランド)が、デ・トマソ製のクラッチ・エンジンアダプターを介して裏返しに取り付けられている。また、リアハブはマグネシウムで作られている。

1966年、2台目の市販車はマングスタで、フォードと共同開発した最初の車種であった。デ・トマソ初期においてフォードは、経営判断にかかわるような重要な影響を与えていた。マングスタではエンジンをアメリカフォード製4.7リッターV8にしている。マングスタのボディワークはカロッツェリア・ギア[1]でおこなわれている。マングスタは400台程製作された。

1971年にはフォードのスポーツカープロジェクトに参加して生まれたパンテーラを発表、アレハンドロとアイアコッカの関係を象徴するように、フォード製5.8リッターV8エンジンにボディはカロッツェリア・ギアだった上にアメリカではフォードのリンカーンマーキュリーの契約ディーラーで販売された。パンテーラはデ・トマソ史上最大の生産台数を記録し、商業的にも成功した。フォードとの契約期間であった1971年から1973年の間には6,128台がモデナで生産された。

1970年代初頭のオイルショックのため、後ろ盾であったフォードが手を引き、フォード向けのパンテーラ生産は1973年で終了している。通常の自動車でも厳しい時代となったこの時期にスポーツカーにとっては冬の時代となり、スポーツカーメーカーは会社解散に追い込まれるところもあった。

しかしアレハンドロは、1975年マセラティを買収したのを皮切りに、イノチェンティベネリを次々と買収するなど、1970年代から1980年代にかけて事業拡大という経営手腕によって乗り切ろうとした。この時期にはマセラティのビトゥルボが商業的に成功を見た。また、イノチェンティBLMCMiniダイハツ製エンジンを搭載した小型車も生産した他、1980年代中盤には、1978年にフォードを解雇され、その後クライスラー会長となったアイアコッカの依頼により、 クライスラーの車体にマセラティのエンジンを搭載した「TC バイ・マセラティ」の生産を行い、販売的には失敗したもののマセラティとデ・トマソに利益をもたらした。

デ・トマソ自体は1970年代以降リファインを繰り返しながらパンテーラ、高級サルーンドーヴィル、ドーヴィルの車体を短縮したGTカー、ロンシャンなどを販売していた。

新たに一から設計された車両として1994年になってようやくグアラを登場させたが少量生産されたのみにとどまった。次いでFR2シーターのスポーツカー、ビグアの開発に賭けることとしたが、度重なる商標権の移動などでデ・トマソとしての販売には至らず最終的にはクヴェール・モデナによってマングスタという車名で販売されることで世に出たものの短命に終わり、MGローバーのクヴェール・モデナ買収によってMG XpowerSVの基礎となった。

パンテーラの生産を打ち切った1993年、創始者のアレハンドロが病に冒され入院。療養していたものの2003年5月21日心不全が原因で他界。2004年5月、会社はアレハンドロの遺族によって解散された。

2011年、ジュネーブモーターショーにて復活したデ・トマソはコンセプトカーを発表した。 テンプレート:-

レース活動

テンプレート:旧F1コンストラクター 1961年にはアルファ・ロメオを、1970年にはコスワースのエンジンをそれぞれ搭載してF1に参戦したが、結果を残せず早々に撤退した。

1970年の参戦の際にはのちにウィリアムズF1チームを創設するフランク・ウィリアムズがチームの運営を行っていた。

ファイル:De Tomaso Tipo 505.jpg
1970年シーズンの参戦車両(ティーポ505)

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過去の車種


関連項目

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外部リンク

テンプレート:自動車 テンプレート:デ・トマソの車種

脚注

  1. 1967年にアレハンドロに買収されていたが1970年にアレハンドロと関係が深かったイタリア系アメリカ人リー・アイアコッカが社長となったフォードに売却されている。