グスタフ・マーラー

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テンプレート:ウィキポータルリンク グスタフ・マーラーGustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)は、ウィーンで活躍した作曲家指揮者交響曲歌曲の大家として知られる。

生涯

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チェコのイフラヴァのマーラーの家
夫妻の間には14人の子供が産まれているが、半数の7名は幼少時に死亡している(当時は乳幼児の死亡率が極めて高かった)。うち5人はジフテリアであった[1]。長男イージドールも早世しており、グスタフ・マーラーはいわば長男として育てられる。特に6人目に心臓水腫に長期間苦しみ12歳で死んだ男の子エルンストは、幼少期のマーラーの最初の悲しい体験となる。マーラーは盲目のエルンストを愛し、数ヶ月間ベッドから離れずに世話をした[1]
父ベルンハルトは独力で酒造業を創業し経営しており、地元ユダヤ人社会の実業家(成功者)であった。性格は強くたくましく精力的で気位が高く負けず嫌いだった。私生活においては図書館と呼べるほどの書庫を持つ読書家であった。ユダヤ系の母は生まれつき足が不自由で、家柄はよかったが、あきらめの心境でベルンハルトと愛のない結婚をした。結婚生活は初日から不幸であった。当初、モラヴィアのカリシトという村で生活を始めた。父はそこで酒の蒸留所を作った。家族は冗談でそれを「工場」と言ったりした。ユダヤ人に転居の自由が許されて後に家族はイーグラウに移転し、そこでも同じ商売を始める。気位が高いベルンハルトは、他人になじまず孤立していた[1]。当時のイーグラウにはキリスト教ドイツ人も多く住んでおり、民族的な対立は少なかった。ベルンハルトも、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持つと共に、グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施した。幼いグスタフは、ドイツ語を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていた。息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ(当初は自分の酒造業を継がせるつもりだった)、より完全な音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。彼は自己向上の意欲に燃える性格であったが、その望みをかなえるすべを知らなかったために、子供たちに夢を託した[1]
ベルンハルトの母、すなわちマーラーの祖母は男勝りの女で行商を生業とし、18歳の頃から大きなかごを背に売り歩いていた。晩年には、行商を規制したある法律に触れる事件を起こし、重刑を言い渡される不幸が起こったが、刑に服する気は毛頭なく、直ちにウィーンへ赴くと皇帝フランツ・ヨーゼフに直訴する。皇帝は彼女の体力と80歳という高齢に感動し、特赦した。マーラーの一徹な性格はこの祖母譲りだとアルマ・マーラーは語っている[1]
父ベルンハルトは酒癖が悪く、妻や病弱の弟エルンストにも尽きることない暴力をふるったが、グスタフには毎日のように机の抽出しの整理が悪いと言って怒った。父が整理を命じるのはそこだけであったが、グスタフは治さなかった。父との折り合いが悪かったことで、プラハのグリュンフェルト音楽寮に預けられ、音楽の勉強をすることになる。ここでグスタフは初めて人生の悪に触れる。彼の服や靴はなくなりいつの間にか他人がそれを身に着けていた。また、ある暗い部屋に座っていた時に、その家の息子と召使の動物的な情事を偶然目にする。彼は、跳びあがり女を助けようとするが、女は彼の行為に感謝しなかったばかりか、逆に2人から罵られ、黙っているように誓わされる。その不快な記憶は長く消えなかった[1]

略歴

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マーラーが晩年に指揮をしたニューヨークのメトロポリタン・オペラ
  • 1907年(47歳) 長女マリア・アンナ死亡。マーラー自身は心臓病と診断される。12月メトロポリタン・オペラから招かれ渡米。《交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」》完成。
  • 1908年(48歳) 5月ウィーンへ戻る。トプラッハ(当時オーストリア領・現在のドロミテ・アルプスドッビアーコ)にて《大地の歌》を仕上げる。秋に再度渡米。
  • 1909年(49歳) ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。春、ヨーロッパに帰る。夏にトプラッハで《交響曲第9番ニ長調》に着手し、約2カ月で完成させる。10月、渡米。
  • 1910年(50歳) 4月ヨーロッパに帰る。クロード・ドビュッシーポール・デュカスに会う。8月、自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受ける。18歳年下の妻が自分の傍に居る事を、夜中じゅう確認せざるを得ない強迫症状と、もっとも崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かんできて、かき乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。ここへ来てようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。9月12日ミュンヘンで交響曲第8番《千人の交響曲》を自らの指揮で初演。自作自演では初の大成功を収める。
  • 1911年(50歳) 2月、アメリカで感染性心内膜炎と診断され、病躯をおしてウィーンに戻る。5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症のため息を引き取った。臨終の言葉は「モーツァルト・・・(Mozarterl)[2]」である。ウィーンのグリンツィング墓地に葬られた。「私の墓を訪ねる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない人に訪ねてもらう必要は無い」というマーラー生前の考えを反映し、墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外、生没年を含め何も刻まれていない。マーラーの死後、評論家たちはマーラーのアメリカ脱出を「文化の悲劇」と呼んだ[3]

人物・作品

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死の2年前、1909年のマーラー

出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている。マーラーが生まれ育った時期は、オーストリアが長らく盟主として君臨したドイツの統一から除外され、ハンガリーやチェコなど多数の非ドイツ人地域を持つ別国家として斜陽の道を歩み始めた頃でもあった。彼は生涯の大部分をウィーンで送り、指揮者としては高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはこの地で評価されず、その(完成された)交響曲は10曲中7曲がドイツで初演されている。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに国籍を問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです」と答えている。

酒造業者の息子として育ったマーラーは、黒ビールを好んで飲んだが自体には弱かった。

交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うものが多いのが特徴である。第1番には、歌曲集『さすらう若人の歌』と『嘆きの歌』、第2番は歌曲集『少年の魔法の角笛』と『嘆きの歌』の素材が使用されている。第3番は『若き日の歌』から、第4番は歌詞が『少年の魔法の角笛』から音楽の素材は第3番から来ている。また、『嘆きの歌』は交響的であるが交響曲の記載がなく、『大地の歌』は大規模な管弦楽伴奏歌曲であるが、作曲者により交響曲と題されていても、出版されたスコアにはその記載がない。

歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多いことが特徴となっているが、この作曲家においては交響曲と歌曲の境が余りはっきりしないのも特徴の一つである。ちなみに現代作曲家のルチアーノ・ベリオはピアノ伴奏のままの『若き日の歌』のオーケストレーション化を試みている。

多くの作品においては調性的統一よりも、曲の経過と共に調性を変化させて最終的に遠隔調へ至らせる手法(発展的調性または徘徊性調性:5番・7番・9番など)が見られる。また、晩年になるにつれ次第に多調無調的要素が大きくなっていった。

アマチュアリズムが大好きであり、アイヴズの交響曲第三番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由が主なものだったと言われている。

指揮者としては、自身と同じユダヤ系のブルーノ・ワルターオットー・クレンペラーらに大きな影響を与えた。特に徹底した音楽性以上の完全主義、緩急自在なテンポ変化、激しい身振りと小節線に囚われない草書的な指揮法はカリカチュア化されるほどの衝撃を当時の人々に与えた。オーケストラ演奏の録音は時代の制約もあり残っていないが、交響曲第4番・5番や歌曲を自ら弾いたピアノロール(最近はスコアの強弱の処理も可能で原典に近い形に復刻されている)、および唯一ピアノ曲の録音(信頼性に問題がある)が残されている。

ニューヨーク・フィルハーモニック在任中、演奏する曲に対しては譜面にかなり手をいれたようで、後にこのオーケストラの指揮者となったトスカニーニは、マーラーの手書き修正が入ったこれら譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ」と罵ったという逸話が残されている。もっとも、シューマンの『交響曲第2番』、『交響曲第3番「ライン」』の演奏では、マーラーによるオーケストレーションの変更を多く採用している。

ブルックナーとの関係

ウィーンを中心に活動した交響曲作家の先輩として36歳年上のアントン・ブルックナーがおり、マーラーはブルックナーとも深く交流を持っている。

17歳でウィーン大学に籍を置いたマーラーは、ブルックナーによる和声学の講義を受けている(前出)。同年マーラーはブルックナーの交響曲第3番(第2稿)の初演を聴き、感動の言葉をブルックナーに伝えた(なお演奏会自体は大失敗だった)。その言葉に感激したブルックナーは、この曲の4手ピアノ版への編曲をわずか17歳のマーラーに依頼した。これはのちに出版されている。

ブルックナーとマーラーは、その作曲哲学や思想、また年齢にも大きな隔たりがあり、マーラー自身も「私はブルックナーの弟子だったことはない」と述懐しているが、その尊敬の念は生涯消えていない。ブルックナーの死後でありマーラー自身の最晩年でもある1910年には、ブルックナーの交響曲を出版しようとしたウニフェルザル出版社のためにマーラーがその費用を肩代わりし、自身に支払われるはずだった多額の印税を放棄している。

シェーンベルクとの関係

マーラーはアルノルト・シェーンベルクの才能を高く評価しており、また深い友好関係を築いていた。

彼の弦楽四重奏曲第1番室内交響曲第1番ホ長調の初演にマーラーは共に出向いている。前者の演奏会では大声で野次を飛ばす聴衆の一人を怒鳴りつけた。この際は相手から「お前の汚い交響曲にも叫んでるんだよ」と返されると「君だって汚い顔だ」とやり返し、とっくみあいの喧嘩を起こしそうになった。後者の演奏会では、演奏中これ見よがしに音を立てながら席を立つ聴衆に対し「静かにしろ!」と一喝し、演奏が終わってのブーイングの中、ほかの聴衆がいなくなるまで決然と拍手をし続けた。この演奏会から帰宅したマーラーは、アルマに対し「私には彼(シェーンベルク)の音楽は分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのかもしれない。私は老いぼれで、彼の音楽にはついていけないのだろう」と語ったという。また、臨終の際は「私が死んだあと、誰がシェーンベルクの面倒を見てくれるんだ」と涙したという。

シェーンベルクの側でも、当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称している。

シェーンベルクとツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となった。興奮した二人が「もうこんな家に来るものか」と叫んで出て行けば、マーラーも「二度と来るな!」とやり返すほど険悪な雰囲気となった。だが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は何してるんだ」と気にし出し、二人のほうも何食わぬ顔をして家に来て、再び交流が始まった。

主要作品

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自作の交響曲第1番を指揮をするマーラーを、皮肉を込めて描いたカリカチュア(テオ・ツァッシェ作)

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交響曲・管弦楽曲

声楽曲

  • カンタータ『嘆きの歌』 (Das klagende Lied,1878-80)
  • 歌曲集『若き日の歌』 (Lieder und Gesänge,1880-91) - 全3集14曲

その他の作品

ウィーン音楽院に在籍していた頃の室内楽曲。1973年に再発見されている
偽作とみなされることが多い(ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲も参照)
  • 交響詩『葬礼』(Todtenfeier,1891)
本来、交響曲第2番の第1楽章の初稿
  • 花の章(Blumine,1884-88)
本来、交響曲第1番の第2楽章として作曲されたが、1896年に改訂の際に削除されたもの

オペラ

以下の3曲のオペラはいずれも完成されず、そのまま破棄(もしくは紛失)している。

  • 『シュヴァーベン候エルンスト』(Herzog Ernst von Schwaben,1875-78)
  • 『アルゴー船の人々』(Die Argonauten,1878-80)
  • 『リューベツァール』(Rübezahl,1879-83)

編曲作品

原曲は1820年から21年にかけて作曲されたが未完成に終わったため、作曲者の孫にあたるカール・フォン・ウェーバーがマーラー(当時26歳)に補完を依頼し、1887年に完成された。補完版の初演は1888年にライプツィヒの市立歌劇場でマーラーの指揮により行われている。
1878年に原曲を4手ピアノ用に編曲したもの
交響曲第9番の第1楽章や第3楽章にトロンボーンを取り入れている
原曲を弦楽合奏版にしたもの
原曲を弦楽合奏版にしたもの
近年ではリッカルド・シャイーがこの編曲版を全曲録音している
これは原曲の第2番と第3番を5曲選び抜いて、新しい組曲の形式に編曲したものである

グスタフ・マーラーを扱った作品

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マーラーの指揮姿をカリカチャチュアライズした風刺画

脚注

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参考文献

  • 『マーラー カラー版作曲家の生涯』 新潮社 : ISBN 4-10-103811-2
  • 『ブルックナー カラー版作曲家の生涯』 新潮社 : ISBN 4-10-106611-6

外部リンク

先代:
アルトゥル・ニキシュ
ライプツィヒ歌劇場
総監督
1886年 - 1888年
次代:
オットー・ローゼ
先代:
初代
プラハ・ドイツ歌劇場
指揮者
1888年 - 1891年
次代:
カール・ムック
先代:
ハンス・フォン・ビューロー
ハンブルク市立歌劇場
音楽監督
1891年 - 1897年
次代:
オットー・クレンペラー

テンプレート:ウィーン国立歌劇場監督 テンプレート:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 首席指揮者 テンプレート:メトロポリタン歌劇場指揮者 テンプレート:ニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 アルマ・マーラー著「グスタフ・マーラー」石井宏訳(中央公庫)
  2. オーストリア方言。語尾に「erl」を付けることにより、愛称形になる(モーツァルトゥル)。
  3. 音楽の手帖-マーラー(青土社) 14P「立ったまま夢見る男」辻井喬