平仮名

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テンプレート:Infobox WS 平仮名(ひらがな)とは、日本語の表記に用いられる音節文字のこと。仮名の一種で、借字(万葉仮名)を起源として成立した。借字として使われる漢字を、極度に草体化したものである。 テンプレート:See also

概要

現在の日本語で最も基本的な文字であり、主に次のような場面で用いられる。

  • 文章の表記に用いる場合
  • 音を示すことを目的とする場合
  • 一般と異なる表記による効果を目的とする場合
  • 書道の一分野である「かな」に用いる場合
  • 女性の人名につけられることがある。

太平洋戦争後、学習指導要領の制定により、日本学校教育では平仮名が最初に教えられるようになっている。

以下、それぞれ下の行に字源となる漢字を、「小学校令施行規則第一号表」によって示す。

あ段 い段 う段 え段 お段
あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行
ら行
わ行
 

歴史

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漢字からひらがなへの変化

平安時代初期の名僧である空海が平仮名を創作したという伝承があるが、これは現在では俗説であると考えられている[1]。平仮名のもとになったのは、奈良時代を中心に使われていた借字(しゃくじ)である。平安京に都が遷されて以降、借字として使用されていた漢字の草体化が進み、ついにもととなる漢字の草書体から独立したものが平仮名となり、文章を記す書記体系として確立した。

すでに8世紀末の正倉院文書には、字形や筆順の上で平安時代の平仮名と通じる半ば草体化した借字が記され、これは9世紀中頃の『藤原有年申文』(貞観9年〈867年〉)や同時期の『智証大師病中言上艸書』などの文書類、京都市の藤原良相(かなり上位の公卿。813~867)邸遺跡から見つかった土器群にも見られる[2]。また、宮城県多賀城跡遺跡から発掘された土器や、富山県射水市の赤田遺跡からも草仮名の書かれた墨書土器が発掘されているため、同時期に地方へ赴任した官人らによって、日本各地で普及し始めたと考えられる。

これら省略の進んだ草書の借字を、平仮名の前段階として草仮名(そうがな)と呼ぶ。宇多天皇宸翰の『周易抄』(寛平9年〈897年〉)では、訓注に草仮名を、傍訓に片仮名をそれぞれ使い分けており、この頃から平仮名が独立した文字体系として次第に意識されつつあったことが窺える。

9世紀後半から歌文の表記などに用いられていた平仮名が公的な文書に現れるのは、醍醐天皇の時代の勅撰和歌集である『古今和歌集』(延喜5年〈905年〉)が最初である。その序文は漢文である真名序と、仮名で書かれた仮名序のふたつがある。また承平5年(935年)頃に紀貫之が著した『土佐日記』については、後にその貫之自筆本の巻尾を藤原定家が臨書したものが伝わっており、当時すでに後世の平仮名とほぼ同じ字体が用いられていたことが確認できる。天暦5年(951年)の「醍醐寺五重塔天井板落書」になると、片仮名で記された和歌の一節を平仮名で書き換えており、この頃には平仮名は文字体系として完全に独立したものになっていたと考えられる。なお「平仮名」という言葉が登場するのは16世紀以降のことであり、これは片仮名と区別するために「普通の仮名」の意で呼ばれたものである。

平仮名による最初期の文学作品である紀貫之の著『土佐日記』は、作者が女性に仮託して書かれているというのが通説である[3]。貴族社会における平仮名は私的な場かあるいは女性によって用いられるものとされ、女流文学が平仮名で書かれた以外にも、和歌や消息などには性別を問わず平仮名を用いていた。それにより女手(おんなで)とも呼ばれた。平安時代の貴族の女性は、平仮名を使って多くの作品を残した。平仮名で書かれたものは私的な性格が強い文書に使われ、地位が低く見られていたが、中国との公的交流の断絶が長くなるにつれて、勅撰の和歌集に用いられるまでに進出した。

異体字は借字のそれと比べると遥かに少ない。平仮名による表現が頂点に達した平安時代末期の時点で、異体字の総数が約300種、そのうち個人が使用したのはおよそ100から200種ほどとされる。時代が下るにつれて字体は整理される傾向にある。

明治33年(1900年)、平安時代から続く平仮名のうち、小学校令施行規則の第一号表に48種の字体だけが示され、以後これらが公教育において教えられ一般に普及するようになり、現在に至っている。規則制定の理由は一音一字の原則に従ったためである。なお「え」「お」の第一号表の字体は現在のものと多少異なっていた。また「ゐ」「ゑ」は、現在は歴史的仮名遣などにおいてのみ用いられている。そして採用されなかった字体は以後、変体仮名と呼ばれることとなった。

ただし変体仮名の判読可能な人々はその後も当然存在していることから、その後数十年ほどは(漢字と)変体仮名のみで表記された書籍の出版も併存したと思われる。例えば昭和2年(1927年)発行の随筆叢書には「第一号表のかな表記(及び漢字)のみの文」のほか、「変体仮名(及び漢字)表記のみの文」も散見される[4]。しかし第二次大戦後は、「変体仮名(及び漢字)表示のみの文」は1900年代以前(江戸時代を含む)の書籍の復刻版に限られているようである[5]

なお、この変体仮名自体は1886年発行のJ・C・ヘボン著の『和英語林集成』の付表などでもみることができる[6]

脚注

  1. 14世紀後半に成立した『仮名文字遣』(行阿著)には、「行阿思案するに、権者(空海)の製作として真名(漢字)の極草の字を伊呂波に縮なして…」とあり、すなわちいろは歌を作ったのが弘法大師空海であるという伝承から、いろは歌を記すために「真名の極草」から平仮名を作ったのも空海であるということである。これはのちの『仮字本末』(伴信友著)にも、「空海僧都、その草体の仮名にもとづきて、さらに目安くなだらめ書きて、四十七音の字体を製り定めて…」とある。『国語学大系』第七巻・第九巻(厚生閣、1939年)所収『仮名文字遣』および『仮字本末』参照。
  2. テンプレート:Cite news
  3. 実際に冒頭の一節に「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」というくだりがある。ただし平成18年(2006年)に小松英雄が行った検証によると、この日記は女性に仮託したものではなく、冒頭の一節は「漢字ではなく、仮名文字で書いてみよう」という表明を、仮名の特性を活かした技法で巧みに表現したものであるという。
  4. たとえば『日本随筆大成』第2巻(吉川弘文館、1927年)など。
  5. 例えば『去来抄』中村俊定、山下登喜子 解説、笠間書房、1969年など。
  6. J・C・ヘボン『和英語林集成』(『講談社学術文庫』477)松村明解説 講談社、1989年 巻頭・付表

参考文献

  • 江守賢治 『字と書の歴史』 日本習字普及協会、1967年(ISBN 481950004X)
  • 小松茂美 『かな その成立と変遷』 岩波新書、1968年(ISBN 4004120977)

関連項目

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外部リンク