藤原定家

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藤原 定家(ふじわら の さだいえ)は、鎌倉時代初期の公家歌人。諱は「ていか」と音読みされることが多い。小倉百人一首の撰者で権中納言定家を称する。


経歴

藤原北家御子左流藤原俊成の二男。最終官位は正二位権中納言京極殿または京極中納言と呼ばれた。法名は明静(みょうじょう)。歌人の寂蓮は従兄、太政大臣西園寺公経は義弟にあたる。

平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、御子左家の歌道における支配的地位を確立し、わが国の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきた歴史がある。

2つの勅撰集、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進。ほかにも秀歌撰に『定家八代抄』がある。歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』があり、本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。家集に『拾遺愚草』がある。拾遺愚草は六家集のひとつに数えられる。

宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を撰じた。定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」である。

源氏物語』『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わった(この際に用いた仮名遣いが定家仮名遣のもととなった)。また、『松浦宮物語』の作者は定家とする説が有力である。

18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(平成12年(2000年)、国宝に指定)を残した[1]。このうち、建仁元年(1201年)に後鳥羽天皇熊野行幸随行時に記した部分を特に『熊野御幸記』(国宝)と呼ぶ。

後世の評価

石田吉貞『藤原定家の研究』の序文には次のようにある。

「藤原定家については古来毀誉さまざまであり、すでに在世中から、「後鳥羽院御口伝」のように骨をさすばかりの痛烈な批判の書があるかと思えば、「源家長日記」のように一代の詩宗と認めたものもあるという風であった。が死後になると、中世ではほとんど神のごとく崇められ、歌道においては勿論、連歌をはじめ能楽や茶道においても、その芸術論のごとき、神託のように取扱われ、多くの偽書まで出るという有様であった。随ってその筆になるものは断簡零墨も至宝として尊重され、ためにその筆写にかかる本は、いわゆる定家本となって、現在に至るまで多くの古典の伝本中王座を占めて来ているのである。近世に至ると、中世的権威破壊の機運に逢って、定家の勢威も昔日の観は無くなったけれど、それでもまだ人麻呂・貫之と並ぶ大歌人として取扱われることに変わりはなかった。ところが明治に入ると、定家は古典文学の世界における偶像の代表のごとくに見られ、常軌を逸したとおもわれるほどのはげしい破壊排撃を受けた。その作品はとるにたらない技巧過飾のものとしてしりぞけられ、その歌学書はほとんどすべてが偽書として葬られるに至ったのである。(中略)しかし大正の中頃から昭和の初めにかけて、この廃墟の中から一つ一つ真実なものを拾いあげて、定家を築き直そうとする動きが現れて来た。(中略)(佐々木信綱小島吉雄風巻景次郎池田亀鑑らによって)それぞれ大きな開拓がなされ、その和歌作品に対しても、しだいに正しい見方を回復しようとする努力がなされるようになり、定家の人間像歌人像はようやく復元されようとするに至った。偉大なもの真にすぐれたものは、決して破壊されたままで消えてしまうものではない。定家像の復元に当たって示された多くの学徒のたゆまざる情熱を見て、私は深い感激に打たれざるを得なかった」。

戦後から現在にかけてはドナルド・キーン三島由紀夫小西甚一谷山茂塚本邦雄丸谷才一堀田善衛ら多くの作家や研究者が定家を積極的に評価してきた。

中世から近世にかけて定家を称え、また尊崇を示した多くの芸術家・文学者に中には、正徹心敬宗祇今川了俊京極為兼世阿弥金春禅竹細川幽斎松永貞徳小堀遠州霊元天皇松尾芭蕉本居宣長などがいる。

官歴

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藤原定家京極邸址、京都市中京区

※日付=旧暦

人物

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  • 美の使徒[3]、「美の鬼[4]、「歌聖[5]、「日本最初の近代詩人[6]などと呼ばれることがある日本を代表する詩人の一人。美への執念は百人一首の選歌に見られるように晩年まで衰えることがなかった。

歌風

  • 巧緻・難解、唯美主義的・夢幻的で、代表的な新古今調の歌人であるとされている。
  • 定家の和歌の性格について風巻景次郎著『新古今時代』の「『拾遺愚草』成立の考察」に簡単な要約がある。

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  • また石田吉貞は次のように言う。

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  • また谷山茂は以下のように指摘する。

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近代秀歌』定家自筆本(「やまとうたのみち あさきにゝてふかく やすきにゝてかたし わきまえしるひと 又いくばくならず むかし つらゆき 哥の心たくみに たけをよびがたく ことばつよく すがたおもしろきさまをこのみて 余情妖艶の躰をよまず それよりこのかた その流をうくるともがら ひとへにこのすがたにおもむく、、、、」)

定家のは、父の俊成と同じく法性寺流より入ったが、強情な性格をよく表した偏癖な別の書風を成した。能書といったものではなく、一見すると稚拙なところがあるが、線はよく練れて遒勁である。江戸時代には、小堀遠州松平治郷らに大変に愛好され、彼らは、この書風を定家流と称して大流行させた。

また、定家は古典文学作品の書写においては、原本に問題ありと考えれば、場合によっては校訂作業を加えることもあったが、基本的にはどんな誤りがあっても私意では訂正しない学者的慎重さを見せている[7]。なお、「定家自筆」とされる書の中には定家本人のものではなく、彼の監修の下に定家の子女や家臣などによって行われた作品が含まれているとする説もあり、議論が行われている(同様の趣旨の説は父の俊成や九条兼実など、当時の公家の書に関して広く指摘されている)[8]

政治家として

定家は藤原道長来孫(5代後の子孫)にあたる。だが、摂関家の嫡流から遠く、院近臣を輩出できなかった定家の御子左流は他の御堂流庶流(中御門流花山院流)と比較して不振であり、更に父・俊成は幼くして父を失って一時期は藤原顕頼葉室家)の養子となって諸国の受領を務めていたことから、中央貴族としての出世を外れて歌道での名声にも関わらず官位には恵まれなかった。

定家自身も若い頃に宮中にて、新嘗祭の最中に源雅行と乱闘したことで除籍処分を受ける[9][10]など波乱に満ち[11]、長年近衛中将を務めながら頭中将にはなれず、51歳の時に漸く公卿に達したがそれさえも姉の九条尼が藤原兼子(卿二位)に荘園を寄進したことによるものであった。それでも定家は九条家家司として仕えて摂関の側近として多くの公事の現場に立ち会って、有職故実を自己のものにしていくと共に、反九条家派の土御門通親らと政治的には激しく対立するなど、政治の激動の場に身を投じた。定家が有職故実に深い知識を有していたことや政務の中心に参画することを希望していたことは『明月記』などから窺い知ることは可能である。そして、寛喜4年(1232年)1月30日、定家は二条定高の後任として71歳にして念願の権中納言に就任する。当該期間の『明月記』の記述はほとんど現存しないものの、他の記録や日記によって定家がたびたび上卿の任を務め、特に石清水八幡宮に関する政策においては主導的な地位にあったことが知られている。また、貞永改元四条天皇践祚などの重要な議定にも参加している。だが、九条道家との間で何らかの対立を引き起こしたらしく[12]、同年の12月15日には「罷官」(更迭)の形(『公卿補任』)で権中納言を去ることになった[13]。こうして、定家が憧れて夢にまで見たとされる(『明月記』安貞元年9月27日条)藤原実資のように政治的な要職に就くことは適わなかった[14]

また、2代にわたる昇進に関する苦労から、嫡男とされた為家の出世にも心を砕いており、嘉禄元年(1225年)7月には同じく嫡男を蔵人頭にしようとする藤原実宣と激しく争って敗れている。だが、この年の12月に実宣の子公賢の後任として為家が蔵人頭に任ぜられ、一方の公賢は翌年1月に父が自分の妻を追い出して権門の娘を娶わせようとしたことに反発して出家してしまった。定家は自分も実宣と同じようなことを考えていた「至愚の父」であったことを反省している[15][16]。その後は、為家を公事・故実の面で指導しようと図った。定家が歌道のみならず、『次将装束抄』や『釋奠次第』など公事や有職故実の書を著した背景には自身のみならず、子孫の公家社会における立身を意図したものがあったと考えられている。

作品

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『住吉の名月』(月岡芳年『月百姿』)住吉明神の神託を受ける定家

勅撰和歌集

家集等

秀歌集

  • 秀歌大体:後堀河院に進献。
  • 定家八代抄:八代抄、八代知顕抄、二四代集、二四代抄、黄点歌勅撰抄とも。初撰本とそれを増補した精撰本とがある。
  • 八代集秀逸:定家単独撰、または後鳥羽院、藤原家隆との共撰。
  • 百人秀歌
  • 物語二百番歌合
  • 小倉百人一首

歌学書・注釈書

  • 詠歌大概:漢文体の歌論と「秀歌躰大略」と題する秀歌例からなる。快法親王に進献したものか。
  • 衣笠内府歌難詞:藤原家良に宛てた手紙。家良の歌を批評する。
  • 近代秀歌:和歌秘々、秘々抄、定家卿和歌式とも。実朝に送った初撰本と成立不明の再撰本とで秀歌例が大きく異なる。
  • 下官集:下官抄、僻案とも。草子や和歌の書式を述べる。
  • 顕註密勘:古今秘注抄、古今和歌集抄とも。顕昭の古今集への注に定家が補注したもの。
  • 五代簡要:万物部類倭歌抄とも。
  • 三代集之間事:三代集について父俊成から伝授されたものを中心に纏める。
  • 先達物語:京極黄門談、京極中納言定家卿相語、定家卿相談とも。藤原長綱の聞書き。
  • 定家十体:定家が10に分類した歌体にそれぞれの例歌を集めたもの。
  • 定家物語:古今集や万葉集の歌に関する質問に答えたもの。
  • 僻案抄:三代集注釈書。
  • 毎月抄:定家卿消息、和歌庭訓とも。偽作説も。
  • 万葉集長歌短歌説:定家卿長歌短歌之説、長歌短歌古今相違事、万葉集長歌載短歌字由事などとも。古今集雑躰の部に「長歌」を「短歌」と題してあることにつき、万葉集の例歌や題詞をあげて論証し正したもの。
  • 明月記:毎月抄に見えるが不詳。
  • 和歌会次第:定家卿和歌書様並会次第、和歌秘抄、和歌秘書などとも。

その他

偽作

  • 雨中吟:歌学書。
  • 桐火桶:歌学書。鵜鷺系偽書の一。
  • 愚見抄:歌学書。鵜鷺系偽書の一。歌の詠みかた、定家卿詠方集とも。
  • 愚秘抄:歌学書。鵜鷺系偽書の一。
  • 三五記:歌学書。鵜鷺系偽書の一。
  • 定家卿筆諌口訣
  • 定家卿自歌合
  • 定家卿鷹三百首
  • 未来記:歌学書。
  • 小倉問答

系譜

藤原北家長家流(御子左家)に属し、藤原道長来孫にあたる。

子孫

定家の子孫は御子左家(嫡流は別名二条家とも)として続いたが南北朝時代から室町時代にいたる戦乱により嫡流は断絶した。御子左家の分家である冷泉家は現在も京都に於いて続いており、この系統からは4家の羽林家上冷泉家下冷泉家藤谷家入江家)を輩出したことでも知られる。

脚注

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参考文献

  • 木村卜堂日本と中国の書史』社団法人日本書作家協会、1971年。
  • 松薗斉「藤原定家と日記―王朝官人としての定家」(初出:『愛知学院大学文学部紀要』25号(1996年))/改題「藤原定家と王朝日記」(所収:松薗斉『王朝日記論』(法政大学出版局、2006年) ISBN 978-4-588-25052-1 第5章)
  • 五味文彦『明月記の史料学』青史出版、2000年、ISBN 978-4921145088
  • 村山修一『藤原定家』吉川弘文館〈人物叢書〉新装版、1989年、ISBN 978-4642051729

定家自筆本の影印

  • 『拾遺愚草 上・中』冷泉家時雨亭叢書第八巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編.1993.朝日新聞社
  • 『拾遺愚草 下・拾遺愚草員外・俊成定家詠草・古筆断簡』冷泉家時雨亭叢書第九巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編.1995.朝日新聞社
  • 『明月記 一~五』冷泉家時雨亭叢書第五十六~六十巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編.1993~2003.朝日新聞社
  • 『京都冷泉家・国宝明月記』展覧会図録.2004.五島美術館
  • 『藤原定家自筆本 近代秀歌』佐々木信綱編.1930.竹柏会
  • 『近代秀歌』久松潜一解説.1958.武蔵野書院
  • 『藤原定家 近代秀歌』日本名跡叢刊33.1979.二玄社.
  • 『古今和歌集 嘉禄二年本・古今和歌集 貞応二年本』冷泉家時雨亭叢書第二巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編.1994.朝日新聞社
  • 『伊達本 古今和歌集―藤原定家筆』久曽神昇.2005.笠間書院
  • 『拾遺和歌集』久曽神昇編.全二冊.1990.汲古書院
  • 『後撰和歌集 天福二年本』冷泉家時雨亭叢書第三巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編.2004.朝日新聞社
  • 『御物更級日記 (笠間影印叢刊)』橋本不美男.1971,笠間書院
  • 『更級日記―翻刻・校注・影印』橋本不美男他.1995.笠間書院
  • 『更級日記[藤原定家筆]』日本名筆選43.2004.二玄社
  • 『冷泉家 王朝の和歌守(うたもり)展』展覧会図録.2009.朝日新聞社

関連項目

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交友・関連人物

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テンプレート:御子左家当主 テンプレート:百人一首 テンプレート:Normdatenテンプレート:リダイレクトの所属カテゴリ

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  1. 明月記にはおうし座超新星爆発が起こったこと(現在のかに星雲)に関する記述があり、天文学上、重要な資料となっている。
  2. 当該記事以前の記事は冷泉家時雨亭文庫所蔵の定家直筆の『公卿補任』写本・建暦元年条「藤定家」条による。国史大系本『公卿補任』と内容が異なる部分(国史大系本にある仁安2年12月30日条の紀伊守補任の記事が存在しないなど)があるものの、定家自身が記した官歴がより正確な記述と考えられている。なお、五味文彦によれば国史大系本に登場する仁安2年補任の紀伊守季光は定家のことではなく、同国の知行国主藤原光能の息子のことである。(五味、2000年、P4-5)
  3. 新潮社版『定家明月記私抄』帯の広告
  4. 河出書房新社『別冊文芸読本 百人一首』(丸谷才一編)の「百人一首」撰者考(石田吉貞)より(166頁下段)
  5. 国書刊行会『藤原定家全歌集』序文に引用される霊元天皇の言葉「人麻呂貫之が亡くなりたる後には、ただ京極の黄門のみぞ。古(いにしえ)を正し今を教へ、独(ひとり)この道の聖(ひじり)なりける」
  6. 丸谷才一『後鳥羽院』258頁
  7. 風巻景次郎『中世の文学伝統』より「八 源実朝、『金槐集』、実朝の歌の多くは風流の歌である」岩波書店1985年
  8. 家入博徳『中世書写論 -俊成・定家の書写と社会』勉誠出版、2010年、ISBN 978-4-585-0321-9
  9. 玉葉』文治元年11月25日条。なお、父・俊成が後白河上皇側近である左少弁藤原定長に充てた定家の赦免嘆願の書状が現存している。
  10. テンプレート:Cite news
  11. 五味文彦建久七年の政変の際にも九条兼実に連座して除籍処分を受けた可能性を指摘する(五味、2000年、p11-12)。
  12. 『明月記』貞永2年4月5・6・13日条。
  13. 五味、2000年、第三章第四節「中納言定家と上卿故実」(初出:『明月記研究』3号(明月記研究会、1998年))。
  14. 松薗、1996年
  15. 『明月記』嘉禄2年6月2日条。
  16. 五味、2000年、P225-226.