藤原基経

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テンプレート:基礎情報 公家 藤原 基経(ふじわら の もとつね)は、平安時代前期の公卿

摂政であった叔父藤原良房養子となり、良房の死後、清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てた。次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任した。

生涯

中納言藤原長良の三男として生まれたが、時の権力者で男子がいなかった叔父の良房に見込まれて[1]、その養嗣子となった[2]

仁寿元年(852年東宮元服した際に、文徳天皇が自ら加冠するほどの厚遇を受け、正六位上に叙される。斉衡年間(854年 - 857年)から天安年間(857年 - 859年)に左兵衛尉少納言左近衛少将を経て蔵人頭に補せられる。貞観年間(859年 - 877年)に左近衛中将を兼任し、参議に任ぜられて公卿に列する。

貞観8年(866年)、応天門の炎上の際し大納言伴善男左大臣源信を誣告し、右大臣藤原良相が左近衛中将であった基経に逮捕を命じるも、基経はこれを怪しみ養父の良房に告げ、良房の尽力によって信は無実となった。その後、密告があり、伴善男が真犯人とされ、流罪となり、連座した大伴氏紀氏が大量に処罰され、これら上古からの名族へ大打撃を与えた(応天門の変)。同年、従三位に叙し、中納言を拝す。

その後、左近衛中将を兼ね、更に左近衛大将へ進み、陸奥出羽按察使を兼ねる。貞観12年(870年)大納言に転じる。貞観14年(872年右大臣を拝する。同年、摂政だった養父良房が薨去、代わって朝廷において実権を握った。基経の実妹の高子は清和天皇の女御で、第一皇子の貞明親王を生んでいた。翌年、従二位に叙される。

貞観18年(876年)清和天皇は貞明親王に譲位(陽成天皇)。まだ9歳と幼少であったため、良房の先例に従い新帝の伯父である基経は摂政に任じられた。元慶2年(878年)、出羽国蝦夷俘囚が反乱を起こしたため、能吏で知られた藤原保則、武人の小野春風らを起用し、翌年までにこれを鎮撫せしめた(元慶の乱)。また、元慶3年(879年)以降数年をかけて、約50年ぶりに班田収授を実施している。

元慶3年(879年)、菅原是善らと編纂した日本文徳天皇実録全10巻を完成させた。

元慶4年(880年太政大臣に任ぜられる(同年、摂政を改めて関白となると『公卿補任』などにあるが、正史の『日本三代実録』にはなく、江戸時代に編纂された『大日本史』などでは、この時の関白宣下を採っていない。今日の歴史学者でも「関白」の呼称が成立していない時期に遡及させて関白任命とすることに疑問も出されている[3])。翌年、従一位

元慶6年(882年)、陽成天皇が元服するが、この頃から関係が険悪になった。基経は辞職を申し出るが、許されなかった。これはこの時代の記録によく見られる儀礼的な辞退ではなく、政治的な意味があったと考えられている[4]。その後、基経は辞職が認められないとみるや、朝廷への出仕を停止し、自邸の堀河院に引き籠もってしまった。ただし、清和天皇の譲位のに「少主ノ未親万機之間」摂政に任ずると書かれている以上、元服を機に親政(天皇が万機を親らす)への準備を進めた後に辞表を提出し、その後に自宅に退いて天皇の判断を待つのは当然の行為で、しかも儀礼的な辞退の範囲とされる3度目の辞表提出中に天皇の退位騒動が起きたものであるとして、これをもって基経と天皇の関係を判断することは出来ないとする反論もある[5]

元慶7年(883年)11月、宮中で天皇の乳母紀全子)の子・源益が殺される事件が起きた。それが本当に殺人事件なのか、あるいは過失致死といった類の事故なのかは明らかではなく、また犯人も不明とされたが、宮中では陽成天皇が殴り殺したのだと噂された。

この事件の直後、好きの陽成天皇が厩を禁中につくり、卑位の者に世話をさせ、飼っていた事実が明らかになる。基経は宮中に入り、天皇の取り巻きと馬を放逐させた。後の記録には陽成天皇は暴君として描かれており、それによると天皇はを捕え、またはを闘わせて喜び、人を木に登らせて墜落死させたという。

元慶8年(884年)、基経は天皇の廃立を考え、仁明天皇のときに廃太子された恒貞親王に打診したが、既に出家していた親王から拒否された。そこで仁明天皇の第三皇子の時康親王が謙虚寛大な性格であったので、これを新帝と決めた。時康親王の母は藤原総継の娘・沢子で、基経の母・乙春とは姉妹であり、基経は時康親王の従兄弟にあたる。

公卿を集めて天皇の廃位と時康親王の推戴を議したところ、左大臣源融嵯峨天皇の第12皇子)は自分もその資格があるはずだと言いだした。基経はを賜った者が帝位についた例はないと退け、次いで参議藤原諸葛が基経に従わぬ者は斬ると恫喝に及び、廷議は決した。公卿会議の決定を持って、陽成天皇に退位を迫った。孤立した年少の天皇に、抗する術はなかった。

基経は時康親王を即位させた(光孝天皇)。光孝天皇は擁立に報いるために太政大臣である基経に大政を委任する詔まで発した。これをいわゆる「実質上の関白就任」と呼ぶこともある。天皇は既に55歳だったが、皇嗣の決定も基経に委ねるつもりで、あえて定めなかった。

仁和3年(887年)、光孝天皇が重篤に陥ると、基経は第7皇子の源定省を皇嗣に推挙した。定省は天皇の意中の皇子であり、天皇は基経の手を取って喜んだ。もっとも、定省は光孝天皇即位以前より尚侍を務めた基経の妹淑子に養育されており、藤原氏とも無関係ではなかった。臣籍降下した者が即位した先例がないため、臨終の天皇は定省を親王に復し、東宮となした日に崩じた。定省はただちに即位した(宇多天皇)。

宇多天皇は先帝の例に倣い大政を基経に委ねることとし、左大弁橘広相に起草させ「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのにち奏下すべし」との詔をする。関白の号がここで初めて登場する。基経は儀礼的にいったん辞意を乞うが、天皇は重ねて広相に起草させ「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」との詔をした。阿衡とは中国の故事によるものだが、これを文章博士藤原佐世が「阿衡には位貴しも、職掌なし」と基経に告げたため、基経はならばと政務を放棄してしまった。

問題が長期化して半年にもおよび政務が渋滞してしまい宇多天皇は困りはて、真意を伝えて慰撫するが、基経は納得しない。阿衡の職掌について学者に検討させ、広相は言いがかりであることを抗弁するが、学者たちは基経の意を迎えるばかりだった。結局、広相を罷免し、天皇が自らの誤りを認める詔を発布することで決着がついた(阿衡事件)。これにより藤原氏の権力が天皇よりも強いことをあらためて世に知らしめることになった。これをいわゆる「正式の関白就任」と呼ぶこともある。基経はなおも広相を流罪とすることを求めるが、菅原道真が書を送って諫言しておさめた。この事件は天皇にとって屈辱だったようで、基経の死後に菅原道真を重用するようになる。

宇多天皇と基経との関係は一応修復され、政務をとりはじめた。仁和4年(888年)に娘の温子女御に上がっている。

寛平3年(891年)、病床につき薨去。正一位が贈られ、昭宣と諡された。

系譜

官歴

※日付=旧暦

後世

基経を中祖とする藤原北家および藤原北家と近しい関係にある村上源氏が朝廷の主流を占めつづけたこともあり、近代以前には暴君・陽成天皇を廃した「功臣」として昌邑王劉賀を廃した前漢霍光に擬える説が儒学者を中心に唱えられた。村上源氏の北畠親房は『神皇正統記』において廃位を称賛し、その「積善の余慶」によって基経の子孫が摂関位を独占したと記述している。

登場作品

脚注

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  1. 北山茂夫『日本の歴史4 平安京』、中公文庫1973年、242頁
  2. ただし、瀧波貞子は良房の意中の後継者は弟の良相であり、基経が後継者としての地位が確立したのは応天門の変で良房・良相の関係の亀裂が決定的になってからであるとする。瀧波は長良没後から応天門の変までの時期、良相の子常行が一貫して基経を上回る昇進を遂げていることを指摘する。瀧波貞子「陽成天皇廃位の真相」朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代、思文閣出版、2009年、55-61頁
  3. 佐々木宗雄『平安時代国制史の研究』、校倉書房2001年 18-26頁
  4. 北山茂夫『日本の歴史4 平安京』、中公文庫、1973年、262-263頁
  5. 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』、吉川弘文館1986年、213-220頁