藤原時平

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藤原 時平(ふじわら の ときひら、貞観13年(871年) - 延喜9年4月4日909年4月26日))は、平安時代前期の公卿藤原北家摂政関白太政大臣藤原基経の長男。官位正二位左大臣正一位太政大臣本院大臣と号した。

藤原北家の嫡子として若くして栄達するが、父・基経の死の時点ではまだ若年であったため、宇多天皇親政を始め、皇親である源氏学者菅原道真を起用した。醍醐天皇即位すると道真とともに左右大臣に並ぶが次第に対立し、遂に道真を讒言して大宰府左遷させた。時平は政権を掌握すると意欲的に改革に着手するが、39歳の若さで死去した。その早すぎる死は怨霊となった道真の祟りと噂された。

生涯

藤原基経の長男として生まれる。父の基経は陽成天皇を廃し、光孝天皇を擁立して太政大臣として朝政を執り絶大な権力を有していた。光孝天皇は常に基経の意を迎えていた。

仁和2年(886年)16歳で元服する時平に対して、光孝天皇は宮中でも最も重要な仁寿殿で式を執り行わせ、自ら加冠の役を果たし、この少年に正五位下を授ける。その告文は学者で知られた参議橘広相が起草した。仁寿殿の庭には祝いの金銀で飾られた品々が並び、雅楽が演奏され清和天皇の第八皇子・貞数親王を始めとする上卿の子弟が舞を演じた。これは基経の権力の絶大なることを示す儀式だった。

翌仁和3年(887年)正月には早くも従四位下右近衛権中将に叙任され、8月に宇多天皇即位すると、時平は蔵人頭に補せられる。天皇は先帝に引き続いて基経に大政を委ね初めて関白に任ずるが、そのにあった「阿衡」の文字を巡って紛糾。最後は基経が天皇に自らの誤りを認めさせる詔を出させて、藤原氏の権勢を示す(阿衡事件)。だが、この事件が宇多天皇と藤原氏との間でしこりとなった。

寛平2年(890年)従四位上次いで従三位と越階昇叙され、20歳で公卿に列す。寛平3年(891年)父・基経が死去するが、時平はまだ21歳と若年のため摂関は置かれず、宇多天皇の親政となった。また、藤氏長者は大叔父の右大臣藤原良世が任じられた。天皇は時平を参議とするが、同時に仁明天皇の孫である源興基を起用、それ以後も源氏を起用することで藤原氏を牽制。そして寛平5年(893年)時平とは血縁関係のない敦仁親王を東宮に定め、時平が天皇の外戚となる道を封じた。同年、天皇は菅原道真を参議に起用する。道真は優れた学者として知られ、阿衡事件の際に、基経がなおも詔を起草した橘広相の流罪を求めたときに上書して諫言した人物であった。

しかしながら、藤原北家嫡流である時平が排斥されることはなく、寛平5年(893年中納言右近衛大将、寛平9年(897年正三位大納言兼左近衛大将に叙任されるなど順調に昇進した。

寛平9年(897年)宇多天皇は譲位して敦仁親王が即位した(醍醐天皇)。宇多上皇は新帝に「時平は功臣の子だが、年若く素行が悪いと聞く、朕はそれを聞き捨てにしていたが、最近は激励して政治を習わせるようにしている。そのために顧問を備えて、よろしく輔導すべきである」と戒めた。それにより、醍醐天皇は権大納言の官職にあった道真を起用して、時平とともに内覧を任せた。またこの年には、前年の藤原良世の致仕(引退)によって空席となっていた藤氏長者に時平は補されている。昌泰2年(899年)時平は左大臣に任ぜられるが、同時に道真も右大臣となり太政官の首班に並んだ。

学者の道真と貴公子の時平は気が合わなかった。時平は情に任せて裁決に誤りが多く、その都度に道真が異を唱えて、対立するようになる。道真は後援者である宇多法皇をしきりに訪ねて政務を相談し、法皇は天皇に道真に政務を委ねるよう相談した。これを知った時平の心中は穏やかではなかった[1]。一方、次の醍醐天皇と時平とは信頼関係が構築されており、宇多法皇と道真、醍醐天皇と時平という二派が形成されたともいわれる。

延喜元年(901年)時平は大納言源光と謀り、道真を讒言。醍醐天皇はこれを信じて道真を大宰権帥に左遷する(昌泰の変)。道真は2年後に大宰府で病死した。時平と道真との確執については、個人的な嫉妬のみならず、律令制の再建を志向する道真と社会の実情に合わせた政策を採ろうとした時平との政治改革を巡る対立に求める意見がある。

時平は道真を追放して政権を掌握した。政変の直後に同母妹の穏子を醍醐天皇の女御として入内させた。また宇多法皇との関係も改善するよう努めている。時平は意欲的に政治改革に着手し、延喜2年(902年)最初の荘園整理令を出し、史料上で最後といわれる班田を実行した。また、六国史の最後となった「日本三代実録」や延喜式の編纂を行った。時平の治世は延喜の治と呼ばれている。

延喜9年(909年)時平は39歳の若さで早逝した。そのため、道真の怨霊による祟りと噂された。なお、時平の死後、藤原北家の嫡流は弟の藤原忠平とその子孫へ移った。

人物・逸話

笑い上戸だったらしく、『大鏡』には職務中、史の放屁に思わず大笑いして、仕事に手が付かなくなってしまった話が残されている。また醍醐天皇とあらかじめ打ち合わせをしておいてわざと華美な装束で参内、天皇の怒りを買って退出、その後は自邸に閉じこもって誰とも面会しなかったところ、その噂が広まって都では贅沢が治まったという話も有名。これらの逸話を題材に歌舞伎作者並木五瓶安永6年 (1777) に書き上げたのが『天満宮菜種御供(てんまんぐう なたねの ごくう)、通称『時平の七笑』(しへいの しちわらい)である。

時平は好色も有名だったようで、『今昔物語』には次の逸話が載っている。時平の伯父の藤原国経在原業平の孫娘を北の方(妻)としていたが、その類い稀なる美貌の噂はすぐに時平の耳に届くところとなり、時平はそれが気になって居ても立ってもいられなってしまう。そこである日国経の邸を訪れて酒宴を開かせ、高齢の国経が酔い潰れた隙に北の方のもとを訪れ、彼女を「自分の妻にしてしまった」のである。この逸話を題材に谷崎潤一郎が昭和25年 (1950) に上梓したのが『少将滋幹の母』である。この北の方と時平の間に生まれたのが三男の藤原敦忠で、国経との間に生まれたのが藤原滋幹である。

政治的には自らが権門勢家の頭領だったにも関わらず、荘園整理令を出す等意欲的に施政に取り組み、有能な政治家ではあったが、その能力を発揮できた期間は短く、道真の怨霊と噂されたその早逝は、仲平の71歳、兼平の61 歳、忠平・穏子の70歳等(いずれも数え年)他の兄弟が当時としては総じて長命だっただけに余計目立った格好となってしまった。そして、その後はあまり仲は良くなかったという弟の藤原忠平及びその系統に政治の実権が移り、時平の系統はいつしか中級下級の官位に甘んじる家格となって歴史に埋もれることとなり、それが道真の比較的早い名誉回復につながるひとつの要因になったとも見られている。

『大鏡』によれば、雷神の怨霊となって現れた道真に対して、喝破して睨み付け、道真の怨霊を鎮めたという逸話が掲載されている[2]

官歴

特に典拠があげられていない限り、『日本三代実録』と『公卿補任』の記載による。日付は旧暦。

年紀 年齢 事歴
仁和 2 年
886年
16歳   1月  2日 元服、正五位下。
  4月  1日 次侍従。
仁和 3 年
887年
17歳   1月10日 従四位下。右近衛権中将。
  2月17日 右近衛権中将。
  8月26日 蔵人頭に補す(『蔵人補任』)。
  9月  8日 昇殿。
  9月21日 重ねて禁色を聴す。
仁和 5 年
889年
19歳   1月16日 讃岐権守を兼ぬ。
寛平 2 年
890年
20歳   1月  7日 従四位上。
11月26日 従三位(越階)。
寛平 3 年
891年
21歳   3月19日 参議に任ず。讃岐権守元の如し。
  4月11日 右衛門督を兼ぬ。
寛平 4 年
892年
22歳   2月21日 左衛門督を兼ぬ。
  5月  4日 検非違使別当を兼ぬ。
寛平 5 年
893年
23歳   2月16日 中納言。検非違使別当・左衛門督元の如し。
  2月22日 右近衛大将を兼ぬ。
  4月  2日 春宮大夫を兼ぬ。
寛平 9 年
897年
27歳   6月19日 大納言。左近衛大将を兼ぬ。氏長者。
  7月  3日 皇太子敦仁親王践祚(醍醐天皇)に依りて、春宮大夫を止む。
      菅原道真と共に天皇年少の間、奏請宣行(内覧)の詔が下る(『日本紀略』)。
  7月  7日 蔵人所別当を兼ぬ。
  7月13日 正三位。
昌泰元年
898年
28歳 10月  8日 東大寺俗別当に補す(『東大寺別当次第』)。
昌泰 2 年
899年
29歳   2月14日 左大臣。
  5月14日 東大寺俗別当に補す(『東大寺別当次第』『東南院文書』)。
昌泰 4 年
901年
31歳   1月  7日 従二位。
延喜 7 年
907年
37歳   1月  7日 正二位。
延喜 9 年
909年
39歳   4月  4日 薨去。
  4月  5日 贈正一位太政大臣。

系譜

脚注

  1. 神皇正統記』『扶桑略記』など
  2. 日本古代氏族人名辞典・537頁
  3. 尊卑分脈によると源昇の女

参考文献

  • 坂本太郎・平野邦雄「日本古代氏族人名辞典」(普及版)(吉川弘文館) ISBN 978-4-642-01458-8

関連項目

テンプレート:藤原氏長者