源信 (公卿)

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源 信(みなもと の まこと、弘仁元年(810年) - 貞観10年閏12月28日869年2月13日))は、平安時代前期の公卿嵯峨天皇の七男(第一源氏)。官位正二位左大臣正一位。初代源氏長者北辺大臣と号した。

経歴

弘仁5年(814年)に弟のとともに源朝臣の姓を賜与されて臣籍降下し、左京一条坊に貫付せられて戸主となった。天長2年(825年)無位から従四位上に直叙され、翌天長3年(826年侍従に任ぜられる。治部卿播磨権守を経て天長8年(831年)7月に22歳で参議に任ぜられ、同年正月に従三位非参議)に叙せられた弟の常に半年遅れて公卿に列す。

天長10年(833年仁明天皇即位後まもなく従三位に叙せられる。仁明朝では天皇の外伯父・橘氏公や、嵯峨上皇の女婿でその信頼が非常に篤かった藤原良房には官位で越えられるものの順調な昇進を果たし、承和9年(842年)に発生した承和の変の直後に中納言、承和15年(848年大納言に任ぜられる。文徳朝の斉衡4年(857年)良房の太政大臣任官に伴い左大臣に昇進。

貞観8年(866年応天門の変において大納言伴善男の誣告により、応天門放火の嫌疑を受け、右大臣藤原良相と伴善男との通謀により、朝廷の兵士により信の邸宅が取り囲まれる。しかし、太政大臣藤原良房はこの出兵を承知しておらず、清和天皇に対して状況を確認したところ、天皇も初耳であるとのことで、結局により参議大江音人左中弁藤原家宗が信の邸宅に派遣されて仲裁が行われた。信は平素より伴善男と不仲であったことから、もともと危惧を抱きつつも、危機から逃れるための対策は行っていなかったところ、思いかけず虎口を逃れることができたという。信は所有していた駿馬12頭・従者40余名を朝廷に献上し、反乱の意図がないことを示そうとしたが、朝廷は受け取らず全て返却した[1]。なお、変にて朝廷の兵に邸を包囲され、絶望した家の人々が嘆き悲しむ様子が『伴大納言絵詞』に描かれている。

この事件は信に大きな精神的打撃を与え、以後門を閉じて篭居していた。貞観10年閏12月(869年2月)気分転換の為摂津国河辺郡狩猟に出かけるが、その最中に落馬して深泥に陥った。救い出され呼吸停止状態から一旦蘇生したものの、意識不明のまま数日後の28日に薨去享年60。最終官位は左大臣正二位。翌貞観11年(869年)3月正一位位階贈位された[1]

人物

生来、才知に優れる一方、洗練されていて上品な性質であり、人並みならぬ気高さがあった。

古人が書き残した書物を好んで読み、の腕前も優れ、図画も巧みで彩色がすばらしくの形の絵はまるで本物のようであった。また、嵯峨上皇からは親しく琵琶など楽器の教習も受けた。あらゆる物事に対してその深奥を究めたが、特に鷹狩りには非常に心を注いだという[1]

系譜

  • 父:嵯峨天皇
  • 母:広井氏[1]または広幡氏、藤井氏[2]
  • 妻:不詳
    • 男子:源叶
    • 男子:源平
    • 男子:源恭(初名は謹)
    • 男子:源有
    • 男子:源好
    • 男子:源保 - 若狭守従五位下
    • 男子:源任
    • 男子:源昌
    • 男子:春尋[3]

脚注

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参考文献

  • 1.0 1.1 1.2 1.3 『日本三代実録』貞観10年閏12月28日条
  • 『尊卑分脈』
  • 知的障害があったため、父の信によって系譜から削除されたが、のちに兄弟の平・恭・保らの奏請により春朝臣姓を賜与された(『日本三代実録』元慶5年6月9日条)