景行天皇
テンプレート:基礎情報 天皇 景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日)。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。常陸風土記には大足日足天皇。播磨風土記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。
「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が出されている。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半かと考えられている。
系譜
- 皇后(前):播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ) - 若建吉備津日子女
- 皇后(後):八坂入媛命(やさかいりびめのみこと) - 八坂入彦命女
- 妃:水歯郎媛(みずはのいらつめ) - 磐衝別命女、石城別王妹
- 妃:五十河媛(いかわひめ)
- 妃:阿倍高田媛(あべのたかだひめ) - 阿倍氏木事女
- 妃:日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)
- 日向襲津彦皇子(ひむかのそつびこのみこ)
- 妃:襲武媛(そのたけひめ)
- 国乳別皇子(くにちわけのみこ)
- 国背別皇子(くにせわけのみこ、宮道別皇子)
- 豊戸別皇子(とよとわけのみこ)
- 妃:日向御刀媛(ひむかのみはかしびめ)
- 豊国別皇子(とよくにわけのみこ) - 日向国造祖
- 妃:伊那毘若郎女(いなびのわかいらつめ) - 若建吉備津日子女、播磨稲日大郎姫妹
- 真若王(まわかのみこ、真稚彦命)
- 彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)
- 妃:五十琴姫命(いごとひめのみこと) - 物部胆咋宿禰女
- 五十功彦命(いごとひこのみこと)
- (以下は母不詳、多くは『先代旧事本紀』に拠る)
- 若木之入日子王(わかきのいりひこのみこ) - 五十狭城入彦皇子と同一人か
- 銀王(しろがねのみこ、女性)
- 稚屋彦命(わかやひこのみこと)
- 天帯根命(あまたらしねのみこと)
- 武国皇別命(たけくにこうわけのみこ) - 武国凝別命と同一人か
- 大曽色別命(おおそしこわけのみこと)
- 石社別命(いわこそわけのみこと)
- 武押別命(たけおしわけのみこと)- 忍之別命と同一人か
- 曽能目別命(そのめわけのみこと)
- 十市入彦命(とおちいりびこのみこと)
- 襲小橋別命(そのおはしわけのみこと)
- 色己焦別命(しここりわけのみこと)
- 息長彦人大兄水城命(おきながのひこひとおおえのみずきのみこと) - 彦人大兄命と同一人か
- 熊忍津彦命(くまのおしつひこのみこと)
- 武弟別命(たけおとわけのみこと)
- 草木命(くさきのみこと)
- 手事別命(たごとわけのみこと)
- 大我門別命(おおあれとわけのみこと)
- 豊日別命(とよひわけのみこと)
- 三河宿禰命(みかわのすくねのみこと)
- 豊手別命(とよてわけのみこと)
- 倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)
- 豊津彦命(とよつひこのみこと)
- 大焦別命(おおこりわけのみこと)
『古事記』によれば記録に残っている御子が21人、残らなかった御子が59人、合計80人も御子がいたことになっている。
皇居
都は纒向日代宮(まきむくのひしろのみや、現在の奈良県桜井市穴師か)。晩年の景行天皇58年に、近江国に行幸、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太)に3年間滞在した後、同60年崩御。
事績
年代は『日本書紀』の編年に従って便宜を図った。
垂仁天皇37年1月1日に立太子。景行天皇元年7月に即位、翌2年3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后に立てる。
4年、美濃国に行幸し、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在。八坂入媛命を妃とする。
51年8月4日、八坂入媛命との間の皇子・稚足彦尊(後の成務天皇)を皇太子に立てる。
52年5月4日に播磨稲日大郎姫が崩御したので、同年7月7日に八坂入媛命を新たな皇后とする。
九州巡幸
景行12年熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺した。筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設ける。豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)で土蜘蛛を誅して、11月ようやく日向国に入る。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。18年3月に都へ向け出立し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、19年9月に還御した。なお、この天皇親征について、古事記には一切記されていない。
25年7月、武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させる。
日本武尊の活躍
27年8月、熊襲が再叛。10月に日本武尊を遣わして、熊襲を征討させる。首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命。
40年10月、日本武尊に蝦夷征討を命じる。尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かった。陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定する。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚。その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。そのまま伊勢国に入るが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御した(景行43年)。白鳥陵に葬られた。なお、『古事記』によれば、死の直前に大和を懐かしんで「思国歌(くにしのびうた)」を詠んだとされ、この歌は、大東亜戦争中に東アジア地域へ派遣された兵士の間で大変流行ったという。
- 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一)
53年、息子の日本武尊を追慕し、東国巡幸に出る。東国から戻って伊勢に滞在し、翌年9月に纒向宮に帰る。
58年、近江国に行幸、高穴穂宮に滞在すること3年。60年11月に崩御、143歳。『古事記』では137歳。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、奈良県天理市渋谷町にある山邊道上陵(山辺道上陵、やまのべのみちのえのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は渋谷向山古墳(前方後円墳、全長300m)。
『古事記』には「御陵は山邊の道上にあり」とある。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
在位年と西暦との対照
当天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。