ボブ・サップ

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テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:MMA statsbox3 ロバート・マルコム・"ボブ"・サップRobert Malcolm "Bob" Sapp1974年9月22日[1] - )は、アメリカ合衆国キックボクサープロレスラー総合格闘家タレント俳優コロラド州コロラドスプリングス出身。元はNFL選手であったものの、日本では2002年からの格闘技の活動から大いなる人気を獲得。ニックネームは「ザ・ビースト」。

来歴

テンプレート:雑多な内容の箇条書き 教育熱心で厳格な家庭で育った。特に両親の離婚後母の教育熱がエスカレートし、テレビは教育テレビのみ視聴することを許されていたとインタビューで語った。

少年時から様々なスポーツに取り組み、高校時で既に体重115kgという大柄だった。17歳でワシントン州シアトルにあるワシントン大学アメリカンフットボールの奨学生として入学し、学業では社会学薬学を専攻。カレッジフットボールではオフェンスのラインとして活躍し、NFL入りを表明したため、大学は3年間で特進卒業した。

1997年、NFLシカゴ・ベアーズにドラフト3巡(全体69位)指名で入団するも、度重なる故障に見舞われ、翌シーズンにミネソタ・バイキングスに移籍。さらにボルチモア・レイブンズへ移籍するも両足のアキレス腱を痛め、負傷前の実力を取り戻すに至らなかったため、2000年に現役続行を断念。

同年、プロレスラーに転向し、アメリカのプロレス団体であるWCWに入団したが、WCWが倒産したため数試合の(前座)出場のみにとどまった。後、病院に遺体搬出の仕事に就き収入を得る。NFL時代のパワーリフトMAXは、ベンチプレス266kg、インクラインベンチ363kg、パワークリーン191kgと公表している[2]。また、100mを11秒台で走っていた。

その後、同じく元WCWの選手でかつてK-1に参戦していた友人のサム・グレコの紹介でK-1にスカウトされ、2002年、格闘家としてPRIDE、K-1に参戦。試合ではフットボールの経験を生かした肉弾的な戦いを得意とし、自らをビーストと呼ぶことから、「野獣」「ビースト」といったキャッチコピー(ちなみに、PRIDEにデビューした当初は「暗黒肉弾魔人」)を得た。格闘家として活躍時の体脂肪率は11 - 13%程度で、筋力維持のため毎日400g程度のプロテインパウダーを摂取しトレーニングに励んでいた[2]。来日当初は異国の勝手がわからず、その巨体を小さくして萎縮していたが、活動初期には手にした生肉を貪り食うなど食人を意識したギミック(役付け)で登場。

2002年8月にPRIDE王者のアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラに善戦し、さらに10月と12月にK-1王者のアーネスト・ホーストに勝利したことで格闘技ファンにも実力を認められ、一方、私生活では知性派であることがメディアに紹介されるにつれ、そのギャップから親しみやすいキャラクターとして話題を呼び、日本の数多くの番組やテレビCMに多く出演することとなった。2004年には映画『IZO』、『デビルマン』に出演した。また、漫画「バビブベボブボブ!!さっぷくん」が月刊コロコロコミック(2003年7月号 - 2006年4月号)に連載された。

同年4月28日、PRIDE.20で日本デビュー。山本憲尚(現山本宜久)を1R2分44秒で下す。

同年6月2日、K-1 SURVIVAL 2002で中迫剛と対戦、K-1ルールを無視して中迫を投げ飛ばし上から殴るなど暴走し反則負け。乱闘騒ぎになる大荒れの試合となった。試合後、石井和義館長は「このままでは収まらない。2人にはきっちり決着をつけさせる」と明言した。

同年6月23日、PRIDE.21田村潔司と対戦、開始11秒でKO勝利。

同年8月28日、Dynamite!にてアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラに2ラウンド4分02秒で一本負けを喫するも、ノゲイラのフィニッシュ・ホールドである三角絞めを、持ち上げてリングに叩きつけて阻止するなど、その怪力ぶりを発揮。

同年9月22日、K-1 ANDY SPIRITSでシリル・アビディと対戦し、KO勝ち。

同年10月5日、K-1 WORLD GP 2002 開幕戦にてアーネスト・ホーストと対戦、パンチと圧力で攻め1R終了時にドクターストップによりTKO勝ち。K-1を3度制したホーストに勝利したことで知名度は急上昇する。

同年11月17日に、サップをエースとするK-1によるプロレスイベント「ファンタジーファイトWRESTLE-1」が旗揚げ。フジテレビは「ボブ・サップのバトル・エンターテイメント W-1」というサップの冠番組としてゴールデンタイムに録画中継した。

同年12月7日、K-1 WORLD GP 2002 決勝戦のGP準々決勝にてアーネスト・ホーストと再戦、2R2分53秒でKO勝ち。しかし右拳を骨折しGP準決勝を棄権した。王者になったのは、サップに2度負けたホーストだった。

同年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2002ではプロレスラーの高山善廣相手に打撃では勝負をせずにタックルで倒し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。

2003年3月5日、フジテレビのバラエティ番組「力あわせてゴーゴゴー!!」内の企画で、シングル「SAPP Time!」をリリースした。オリコン週間チャートは最高28位。

同3月30日、K-1 WORLD GP 2003 in さいたまでミルコ・クロコップと対戦し、左ストレートでKO負け。試合後、右眼窩内側壁骨折および右眼窩壁骨折と診断された[3]

同年8月15日、K-1 WORLD GP 2003 in ラスベガスでキモと対戦、2R1分11秒右フックでKO勝ち。試合終了後、マイク・タイソンを挑発した。

同年10月11日、K-1 WORLD GP 2003 開幕戦にてレミー・ボンヤスキーと対戦、2Rに倒れたレミーを殴ってしまい反則負け。

同年12月31日、K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!にて曙太郎と対戦、1R2分58秒でKO勝ち。そのシーンは瞬間最高視聴率で民放がNHK紅白歌合戦を史上初めて上回り、大きな話題となった。

2004年3月28日、新日本プロレスにて佐々木健介と対戦、8分24秒体固めで勝利し、第37代IWGPヘビー級王座につく。

同年5月3日、新日本プロレスにて中邑真輔と対戦、12分31秒体固めで勝利し、IWGPヘビー級王座の初防衛に成功する。

同年5月22日のK-1 ROMANEX藤田和之と対戦、序盤でテイクダウンをとられ、一方的に藤田の打撃を浴びタップアウトで敗北。試合後、保持していたIWGPヘビー級王座を返上。

同年12月31日、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!においてジェロム・レ・バンナと、1Rと3RはK-1ルール、2Rと4Rは総合格闘技ルールで行うミックスルールで対戦し、時間切れ引き分け。

2005年5月からサム・グレコの下で修行し、6月14日のK-1 WORLD GP 2005 IN HIROSHIMAで開催されたJAPAN GPに出場。中尾芳広堀啓富平辰文を破り優勝。

総合格闘技大会HERO'Sでは、2005年3月26日にキム・ミンスに右ストレートでKO勝利、7月6日にはアラン・カラエフに左ストレートでKO勝利を収めた。11月5日には「HERO'S 2005 in SEOUL」においてキム・ジョンワンに、8秒でKO勝ち。

並行してプロレスにも参戦。2005年8月4日、「WRESTLE-1 GP 2005 開幕戦」においてジャイアント・バーナードと対戦し、5分30秒、横入りエビ固めで勝利。

同年10月2日、「WRESTLE-1 GP 2005 2回戦」において秋山準と対戦し、7分21秒、ビーストボムからのエビ固めで勝利。

2006年5月13日、K-1 WORLD GP 2006 IN AMSTERDAMにおいて、アーネスト・ホーストの国内引退試合の相手を務めるはずであったが、契約問題のこじれから試合直前になって試合をボイコット。この件でサップは弁護士を介しての声明文や外国人記者クラブで会見を行うなどし、一方、FEG社長谷川貞治もサップへ法的措置をとると会見するなどして、両者で争うことになった[4]。『サンデー毎日』2006年12月31日号では、映画に出演すると共に、獣医を目指して勉強中と報じられた。10月15日にはWWEトライアウトを受けていた。

2007年2月10日、Cage Rage 20のリングに上がり、4月21日のCage Rage 21への参戦を表明したが、開催直前になって出場がキャンセルされた[5]

同年6月、サップを契約違反として民事裁判の提訴をしたK-1と和解[6]、6月23日のK-1 WORLD GP 2007 IN AMSTERDAMでピーター・アーツと対戦。試合は、開始早々突進しみぞおちへの左膝蹴りを受けダウン、そのまま立ち上がらず26秒でKO負けを喫した。その姿に観客からは大ブーイングとともにリングに物が投げ入れられた。試合後の会見で谷川貞治K-1イベントプロデューサーは裏切られたと不快感を露わにした[7]。なおこの試合前に発表されたサップの体重は180kgと、1年前に比べ20 - 30kg重く体が緩んでいた。各メディアで練習不足による肥満が指摘された。

同年10月16日、ハッスルの会場に姿を現し、モンスター・ボノの「バブー」をパロって「ボブー」と言った。11月22日、ハッスルマニア2007でHGに勝利。

同年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!ボビー・オロゴンと対戦、パウンドでKO勝ち。

2008年2月23日、米国での総合格闘技デビュー戦となるStrikeforce: At The Domeでヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤと対戦し、パンチを連打されTKO負け。Strikeforceとは15試合の長期契約を締結したと報道された。

同年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜DJ OZMAプロデュース試合でキン肉万太郎と対戦し、スタンドパンチ連打でTKO勝ちを収めた。

2009年1月、プロ野球北海道日本ハムファイターズ坪井智哉と東京都内のジムで自主トレーニング(格闘技トレーニング)を行った。

同年5月26日、DREAM.9のスーパーハルクトーナメント1回戦でミノワマンと対戦し、アキレス腱固めで一本負け。

同年6月27日、Ultimate Chaosでボビー・ラシュリーと対戦し、グラウンドパンチで1ラウンド3分17秒、タップアウト負け。闘争心を見せない試合ぶりに観客からブーイングを浴びる[8]

同年10月6日、ゲガール・ムサシの負傷欠場により敗者復活となり[9]DREAM.11のスーパーハルクトーナメント準決勝でソクジュと対戦し、パウンドでTKO負け。

2010年、格闘家として第一線を退き、韓国でトークショーの司会や、会社の経営に乗り出していると明言[10]

同年11月27日、スウェーデンのRumble of the Kingsのメインでユルゲン・クルトとK-1ルールで対戦し、ひざ蹴り一発で戦意を喪失して、タオル投入による1ラウンド98秒のTKO負け[11][12]

同年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜鈴川真一とIGF特別ルールで対戦する予定だったが、試合放棄したため、「サップの戦意喪失」として不戦敗扱いとなった[13][14]。試合放棄の理由の詳細は、#FEGとの争いの2010年Dynamite!!試合放棄およびFEGファイトマネー未払い問題を参照。

東日本大震災後の2011年8月にはチャリティーオークション参加や避難所へ訪問している[15]

2013年1月4日、新日本プロレス矢野通からラブコールを受ける形でCHAOSのサポートメンバーとして、久々にプロレスに参戦。試合はタッグメンバーの飯塚高史が対戦組の中西学のアルゼンチンバックブリーカーによるギブアップで敗れるものの、試合後のバックステージでのコメントで新日本プロレスに再参戦する意思を見せている。因みに、この日の試合の対戦組メンバーにかつて2003年12月31日のK-1で対戦したがいた。

同年3月、著書『野獣の怒り』で、谷川貞治の放漫なマネジメントを批判。また自身はドン・フライほか引退したファイターへの支援活動を開始しており、40歳で引退すると表明した。

同年9月には、武藤敬司の設立したプロレス団体「WRESTLE-1」の旗揚げ戦に参加、メインイベントで武藤とタッグチームを組んで、ゾディアック&レネ・デュプリと対戦し、勝利した。

人物・エピソード

身長に関しては諸説あるが、PRIDE初参戦時は205cmと紹介されていた。後にK-1にも出場、そのときは200cmに訂正された。大学フットボール時代ならびにNFL時代は6フィート4インチ≒193cmである。利き手(書字など)は左だが、利き腕(ストレートパンチなど)は右である。

一部で「ボブ・サップは元NFLプレイヤーのウォーレン・サップ(2013年プロフットボール殿堂入り)の兄弟(または従兄弟)である」というまったくの誤報が流れたが、ボブ・サップとウォーレン・サップとの間に特筆すべき血縁関係はない。なお、ウォーレン・サップはフロリダ州オーランド出身であり、マイアミ大学の卒業生である。

2006年5月13日、K-1 WORLD GP 2006 IN AMSTERDAMにおいて、アーネスト・ホーストの国内引退試合の相手を務めるはずであったが、契約問題のこじれから試合直前になって出場を固辞、試合をボイコットした。FEG側の説明では「(サップ側から)試合前に無理難題を吹っかけられ、拒否したら突然『やらない』と言い出した」としていて、その無理難題の内容は「契約上明かすことは出来ない」として説明を避けた。契約上問題があると法的措置も検討していて、K-1永久追放の可能性も示唆していた。この時谷川の口から4月23日プロレスリング・ノア日本武道館興行のオファーを蹴っていることが明かされた。本人はハッスルに参戦したいと語っていた。2006年6月27日、K-1オランダ大会ボイコットの件に関しての声明を発表し、当時の詳細を語った。その中でサップは、オランダでK-1を共催した人物から脅されたとも語っている[16]。これに対し6月29日、K-1サイドは「事実に反する」と反論し、サップ側から長期契約からのリリースの要求があったと主張[17]。さらに7月3日、ボブ・サップの代理人から、K-1サイドの事実誤認に対する指摘がなされた[18]。その後2007年6月、サップ側の申し入れによりFEGと和解、6月23日のK-1 WORLD GP 2007 IN AMSTERDAMに出場することとなった。しかし、試合内容に激怒した谷川は、損害賠償などの法的措置を取り下げないことを発表した。2010年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜では、エグゼクティブプロデューサーに就任したアントニオ猪木による提供試合として鈴川真一の対戦相手としてIGF特別ルールでマッチメイクされた[19]。しかし大会当日になってサップが試合放棄したことにより、戦意喪失による鈴川の不戦勝と発表された[14]。これを受けて谷川は1月1日の記者会見の場にて「二度と呼ぶことはないでしょう」と事実上のFEG関連興行からの永久追放を宣言した[20]。谷川はサップが「売店で俺のフィギュアが売っているが、ロイヤリティをもらってない」と言っていたという。さらに素手で戦うIGF特別ルールがプロレスなのか格闘技なのかの解釈の違いがファイトマネーのトラブルの原因になったという憶測については、FEGもIGFも格闘技のつもりでオファーしたとしている[21]。一方、サップの側は、3万ドルのファイトマネーでFEGからオファーされたのに来日すると1万5千ドルに半減されたのが試合放棄の原因だとインターネットメディアで主張した[22]。対戦相手だった鈴川が所属するIGFの渉外のサイモン・ケリー猪木Twitterで、一番悪いのは主催のFEGだとサップに同情するコメントをしている[23]。また、同時期から主催者側FEGが多額の負債により各選手へのファイトマネーが未払いになっていたことがのちに発覚(FEGの項参照)し、サップの主張が裏付けられるかたちとなった。

スポーツマン№1決定戦成績表

  • ワークアウトガイズ ミルク缶が連結していなかったので失格
  • スピンオフ №1
  • ザ・タッグオブウォー 準決勝敗退(3位)
  • ザ・ガロンスロー 2004年大会5m50cm 2006年大会7m00cm

暴露本「野獣の怒り」

2013年には自身の証言を口述筆記した暴露本である「野獣の怒り」を双葉社から出版した。本著での内容は以下のとおりである。[24][25]

リング上関連
自身とk-1の関係が悪化した原因は谷川の能力の低さやK-1という組織の杜撰な経営実態にあったと主張し、FBIがK-1やPRIDEの組織的犯罪を疑惑視しているという説も唱えた。
  • 2006年5月15日の『K-1ワールドグランプリ』アムステルダム大会は敵前逃亡ではなく契約延長の話がまとまらず無契約状態のまま試合当日を迎えてしまったという問題故に試合を行えないと判断したことが真相であり、試合出場を拒んだ自身に対してオランダ人プロモーターがマフィアらしき男と共に控室でギャングの存在を示唆しつつ銃を取り出す仕草を見せて出場を強要したと説明した。
  • 2006年のある日にFBIから捜査協力要請が来たのでオフィスに向かい、そこで担当官は捜査について何もいわなかったが自身は「FBIはK-1の組織的犯罪、マネーロンダリングや脱税、そしてマフィアやヤクザとの関係などを疑惑視している」と悟ったと記述されている。
  • 谷川との関係が悪化した直因は2003年12月31日の曙戦であり、それについて「イベントは大成功だったが、それで谷川は天狗になってしまった。最初に会った頃は腰の低い、シャイでいいヤツだったんだけどな……。」と谷川の変貌ぶりを表現すると共に、件の試合で1R終了間際に曙がうつ伏せに倒れたまま微動だにしない姿を見せた際のレフェリーの対応を見て「"(完全にダウンしているのに)何をやっているんだ!"と思ったよ。試合を続けさせたい"別の理由"でもあるのかと疑ったくらいだ。試合終了のゴングが鳴るや、オレは曙のもとに走った。曙を助けないと、本当に死んでしまうと思ったんだよ。」とK-1の安全管理の拙さを感じたことも話した。
  • 本著を出版する直前の時期にはガオグライ・ゲーンノラシンが徹底的に困窮しており、タイ国内で1戦ごとに(タイの物価相場が日本の10分の1程度とは言え)10ドルから20ドルのファイトマネーを受けることで精一杯と証言されている。
リング外
  • K-1ファイターの中には婦女暴行を起こすものも存在したためK-1側がグルーピーの女性を一部ファイターに手配することでトラブルに発展する可能性を避けていたとしている。自らの性的嗜癖についても記述がある。
  • 元ファイターの窮状について、「ゲーリー・グッドリッジはパンチドランカー、アレクセイ・イグナショフはアルコール中毒、マイケル・マクドナルド[26]は統合失調症に苦しんでいる。」と証言しており、生活に困ったファイターをサポートするためスポンサーを集めて引退基金を作り彼らに還元されるように活動していると明かしている。
  • マイク・タイソンとは今や個人的に食事する間柄である。ファイトマネーで折り合いがつかない、タイソン本人の犯罪歴から日本への入国が不可能といった問題によりK-1でタイソン戦が実現しないとサップ本人が当初より予想していたことも明かされている。

戦績

キックボクシング

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総合格闘技

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獲得タイトル

得意技

ビーストボム
自らも前方に倒れこむ形のパワーボムを使用。プロレスでのフィニッシュ・ホールド
ドロップキック
正面飛び式を使用。あの巨体から繰り出されるとは思えない程、打点が高い。コーナーポスト最上段からのミサイルキックはフィニッシュブローとしても使われた。
ビーストバックブリーカー
ビーストラリアット
カウンター式のラリアット
ゴリラプレス
喉輪落とし

出演

映画

テレビ

CM

PV

出版物

書籍

  • ザ・ビースト ボブ・サップ公式マガジン (扶桑社、2002年)
  • 野獣の怒り (双葉社、2013年)

CD

  • SAPP Time!(ロッテ「モナ王」CMソング、2003年3月5日)[27]

ビデオ

  • SAPP Time!(DVD版・VHS版、2003年5月21日)[27]

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:IWGPヘビー級王座

テンプレート:プロレス大賞MVP歴代受賞者
  1. 出生年には1973年生まれ説と1974年生まれ説があるが、これはサップの両親が離婚して、両親の出生届けが父(1973年)、母(1974年)となったためである。
  2. 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
  3. サップ骨折癒えず 復活に黄信号も「再戦は避けられない」 スポーツナビ 2003年4月2日
  4. K-1 ついにサップと法廷闘争へ。PRIDE参戦のメレンデスも提訴 BOUTREVIEW 2006年10月11日
  5. ケージレイジ 4.21 ロンドン:サップまたも急遽欠場。代役アボット BOUTREVIEW 2007年4月20日
  6. ボブ・サップが緊急来日、K-1と電撃和解! 因縁の地・オランダでピーター・アーツとの復帰戦が決定 スポーツナビ 2007年6月18日
  7. (レポ) K-1 6.23 オランダ:サップ秒殺負け。スロウィンスキー優勝 BOUTREVIEW 2007年6月26日
  8. 【Ultimate Chaos】ラシュリーが戦意なきサップを撃破 MMAPLANET 2009年6月28日
  9. 【DREAM】10・6川尻達也がレスリングの強豪と対戦!ボブ・サップが敗者復活 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年9月18日
  10. 文化放送大竹まことゴールデンラジオにて2010年7月8日放送
  11. サップがお決まりの戦意喪失、キシェンコは本領発揮 livedoorスポーツ(MMAPLANET配信記事)2010年11月30日
  12. Rumble of the Kings 主要試合レポート MMAPLANET 2010年11月30日
  13. DREAM公式サイトによる試合詳細
  14. 14.0 14.1 【Dynamite!!】ボブ・サップがまたしても敵前逃亡!当日に試合をドタキャン 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年12月31日
  15. ボブサップが避難所を訪問 支援とエールを贈る
  16. 「ボブ・サップ声明文 K-1欧州GPの真相について」 スポーツナビ 2006年6月29日
  17. 「谷川氏、サップ声明文を否定。『事実に反する』」 スポーツナビ 2006年6月29日
  18. 「ボブ・サップ代理人、谷川氏の反論について重大な事実誤認を指摘」 スポーツナビ 2006年7月3日
  19. Dynamite!!】12・31石井慧は“K-1の番長”バンナと対戦!猪木特別試合で鈴川VSサップ 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年12月22日
  20. 【ニュース】谷川代表がFEG再建を発表!春からイベント再開、海外大会も示唆 格闘技ウェブマガジンGBR 2011年1月1日
  21. kamipro』No.155、エンタープレイン、2011年、p.55。谷川貞治インタビュー。
  22. Bob Sapp explains DREAM "Dynamite!! 2010" no-show, says DREAM is "broke" MMA JUNKIE.COM 2011年1月18日
  23. SimonInoki 2011年1月17日
  24. 野獣ボブ・サップ怒りの暴露「格闘技界のカネ、女、FBI」 vol.1デジタル大衆 週刊大衆4月1日号
  25. 野獣ボブ・サップ怒りの暴露「格闘技界のカネ、女、FBI」 vol.2 デジタル大衆 週刊大衆4月1日号
  26. カナダ出身の格闘家で、1965年生まれ。彼とは別にアメリカ出身で同姓同名の格闘家・マイケル・マクドナルドが存在するが、こちらは1991年生まれでありUFCを中心として総合格闘技一本に絞った競技生活を送っている。後者はK-1崩壊に至るまでK-1参戦経験がない。
  27. 27.0 27.1 ボブ・サップ「SAPP Time!」 FORLIFE MUSIC ENTERTAINMENT公式サイト