マイク・タイソン

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“マイク”マイケル・ジェラルド・タイソンMichael Gerard "Mike" Tyson、男性、1966年6月30日 - )は、アメリカ合衆国の元プロボクサー

ボクシングスタイル

身長180cm(諸説あるが、慈恵医大で測定したところ180cmだった)、リーチ180cm、周囲50cm超の首を誇る。ヘビー級としては小柄ながら巨漢ボクサーをガードごと薙ぎ倒す桁外れのパンチ力と、ヘビー級史上最速の評価をモハメド・アリと分かつスピード、急所を正確にコンビネーションで打ち抜く高度なオフェンス技術、そして相手のパンチをガードのみに頼らず、そのほとんどに空を切らせる鉄壁のディフェンス技術を武器に次々に大男たちをマットに沈め、モハメド・アリ引退後のヘビー級の停滞期を打ち破りパウンド・フォー・パウンドの頂点に君臨した。現役時代のみならず、長いボクシングの歴史の中においても、最盛期のタイソンはモハメド・アリと並んで最強ボクサーの有力な候補である。

フロイド・パターソンと同門下であり、ともに小柄であることやピーカブースタイルなど、両者には共通点が多い。

来歴

幼少時代

生い立ち
1966年6月30日アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区ベッドフォード・スタイベサント地区に生まれる。
家族には5歳年上の兄ロドニーと2歳年上の姉デニスがいる。兄は医師助手として、Los Angeles County-University of Southern California Medical Centerに勤めていて、弟のキャリアを支えており、タイソンのラスベガスでのボクシング戦で何度か目撃されている。タイソンは兄についてインタビューされた際に「兄貴とは深い絆で結ばれている。兄貴はいつも立派だったが自分は何もなかった」と述べている。デニスは心臓麻痺で1991年に25歳で死去している。
父親のJimmy Kirkpatrickはタイソンが2歳のときに家族を捨て蒸発している。以後、家族は母親のローラ・スミス・タイソンによって養われる。母親はタイソンが16歳のときにタイソンをボクシングマネージャだったカス・ダマトの手に託して死去している。以後、ダマトはタイソンの法的保護者になる。
タイソンが幼い頃、一家はブルックリン区内に住んでいた。経済的な問題で、家を転々とした後に、タイソンが7歳の時に当時のアメリカ合衆国の中でも最悪のゲットーと呼ばれていたブルックリン区ブラウンズヴィルに落ち着き、タイソンはそこで育つことになる。
いじめにより非行へ
幼少の頃はその内向的な性格で、現在でもその独特の甘えたようなイントネーションにその名残がうかがえる。スポーツジャーナリストの二宮清純はタイソンへの取材を通じてタイソンに対し自閉症児の様な印象を受けたと語っている。実際、タイソンは自閉症ではないが躁うつ病と診断されており、長期に渡り治療を受けていた。
内向的な性格や、大きな近眼鏡を着用していたことから、近所の不良少年達に嘲笑されいじめの対象となる。だが、大事にしていたペットのを年上の不良グループの少年たちに虐殺され、我を忘れてその不良達を殴り倒したことから自身の強さに気付き、徐々に荒んだ生活へ進む。[1]

少年時代

ボクシングとの出会い
12歳までに51回も逮捕され、ニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン少年院に収監。そこで更生プログラムの一環として行われていたボクシングと出会い、少年院のボクシング担当教官だったボビー・スチュワートからカス・ダマトに伝わり、タイソンの才能に驚愕したダマトが身元引受人となったため少年院を出所後、ダマトの下でボクシングの英才教育を受けることになる。
アマチュアでの活躍
まずはアマチュアボクシングでキャリアをスタートし13歳の時に初試合を行った。数年間キャリアを積んでいき、ジュニア・オリンピックのタイトル等を獲得。その後ロサンゼルスオリンピックへの参加を狙うが、国内予選の最終選考会の決勝戦でダウンを奪いながら判定負けを喫し、オリンピックへの参加は叶わなかった。
タイソンのアマチュアでの通算成績は記録に残っている中では52戦47勝5敗。ただし、USアマチュアボクシング連盟の管理下にない非公式の試合も多く戦っているため、正確な戦績は不明。

プロボクサー時代

破竹の勢いで王座へ
1985年3月6日に18歳でプロデビューし、ヘクター・メルセデスに1RTKO勝ちで初戦を白星で飾る。この年、11連勝を飾った直後トレーナーのカス・ダマトが死去。
その後、通算28連勝し1986年11月22日、29戦目にしてトレバー・バービックに2RTKO勝利し、WBC世界ヘビー級王座を獲得。史上最年少(20歳5か月)で世界ヘビー級王者となる。翌年、1987年3月7日にはジェームス・スミスに判定勝ちし、WBA世界ヘビー級タイトルを獲得。さらに同年8月、トニー・タッカーに判定勝ちしてIBF世界ヘビー級タイトルを獲得して3団体統一に成功。
1988年2月に、元ファッションモデルで女優のロビン・ギブンスと結婚(TVでギブンスを見かけて一目惚れしたのが始まりという)。しかし、すぐに離婚した。
ドン・キングによるプロモート
通算9度の防衛に成功することになるが、1988年に行われたマイケル・スピンクス戦後、カス・ダマトがその生前「グリズリーには近づいても、ドン・キングには近付くな」、絶対に組んではいけないと言っていたドン・キングにプロモートを受ける。ドン・キングにプロモートを受けるようになってからは精彩を欠くようになり、一般的にこの1988年までがタイソンの絶頂期と言われている。
この年の前半、ボクシングを始めた頃からの後援者であったビル・ケイトンと共にタイソンのマネージメントを担当し、そしてダマト以外では最もタイソンから信頼されていたジム・ジェイコブスが白血病により突然死去。その頃からドン・キングがタイソンの獲得を狙いタイソンの妻であったロビン・ギブンスに頻繁に接触し取り入ったため、タイソンのチームに亀裂が入り始める。そして年の後半、ダマトの死後からそのボクシング理論を引き継いでタイソンに教えていたケビン・ルーニーを突然解雇。そして、マネージャーのビル・ケイトンも解雇し、ダマトが残したチームはバラバラとなる。
その後、タイソンはドン・キングとの契約を正式に結ぶことになる。家族同然だったルーニーはボクシングのトレーナーとしてだけでなく、タイソンのモラルや私生活の監視役でもあった。新しいチーム態勢ではタイソンの周囲に金目当ての「イエスマン」ばかりが集まり、タイソンの私生活は急激に乱れる。離婚騒動、自殺未遂、訴訟沙汰、交通事故、放蕩、練習不足、度重なった試合の延期・・、リング外でのトラブルの話題が増えていく。
緩慢で雑なボクシング
案の定、プロ入り以来初めての長期ブランクを経た1989年フランク・ブルーノ戦では、別人のような緩慢で雑なボクシングを披露した。このブルーノ戦は勝利するも、まともにカウンターを貰い初めてグラつく姿も見せている。タイソンの兄弟子ホセ・トーレスはこの試合を見て「カスが教えたものは何もかも失われていた。左右への動き、コンビネーション、タイミング、忍耐、最も基本的な左ジャブ・・・。そして、カス・ダマトと深い繋がりのあったコーナーマン達もそこにはいなかった・・・」というコメントを残している。
次戦のカール・ウイリアムス戦では、わずか1Rのフック一発で試合が決したため目立たなかったが、その動きにかつての切れはなく、生放送では解説の浜田剛史が、タイソンのボクシングに首を傾げるような発言をしている。また、浜田は次の試合の直前には、前回東京で行った試合の前にはコンディションは完璧であったが、それが85パーセントまでしか仕上がっていないと指摘した[2]。次戦、タイソンは試合を急にキャンセル(ドノバン・ラドックとの防衛戦が決定していた)するなど相変わらずゴタゴタが続き、1990年2月11日に日本東京ドームジェームス・ダグラスに10ラウンドKO負けしてタイトルを失う(TVで試合中継を見ていたケビン・ルーニーは瞼の腫れにエンスウェルではなく氷嚢を使用したセコンドの無知さに歯噛みしていたという)。これがタイソンのプロキャリアにおける初黒星だった。
レイプ事件により収監
さらにタイソンの転落は続く。1991年にディズィリー・ワシントンをホテルの一室でレイプしたとして、1992年に刑務所へと収監された(この事件に関してケビン・ルーニーは、タイソンがハメられたと見解を出している。[1]一方ではドン・キングが単に必要経費を惜しんで門外漢の弁護士に裁判を依頼したための結果であるという説もある)。
6年の懲役刑を言い渡されたが3年間服役後の1995年に仮釈放され、翌年の1996年3月16日、フランク・ブルーノを3RKOで破り、WBC世界ヘビー級タイトルを再度獲得し、世界王者へと復権する。なお、服役中にイスラム教に改宗し、マリク・アブドゥル・アシスという名を持った。同年9月、ブルース・セルドンを1ラウンドTKOで破り、WBA世界ヘビー級タイトルも獲得。再び統一王者になったが、11月にイベンダー・ホリフィールドに11ラウンドTKOで敗れ、タイトルを失う。
耳噛み事件
翌年6月28日に行われた再戦では、ホリフィールドのWBA世界ヘビー級王座に挑戦するが、耳噛み事件(雑誌等で世紀の噛み付きとも称された)を起こし、2回の耳噛みにより3R終了時に失格負けとなった。この反則行為により、試合後はリング上で大混乱となり、一年間のライセンス停止処分を受けた。後年、ホリフィールドとはこの件に関しては和解しておりカメラの前で当時の事を冗談交じりに語り合う姿が写し出されている。
1999年に復帰するも、年に1試合程度と試合間隔が極端に開くようになる。2002年6月8日にレノックス・ルイスの持つWBC、IBF、IBO世界ヘビー級王座に挑戦。結果は8RKO負け。2003年6月、暴行容疑で再度逮捕。

8月2日米連邦裁判所に破産を申請。

2004年4月15日、K-1の試合出場契約を結ぶ。日本国内でのプロモート契約であるが、薬物犯罪者という理由で日本に入国できなかったため、実現は不可能であった。2004年7月30日、復帰戦となるノンタイトルマッチで1ラウンド中盤で靭帯断裂。その怪我が響き、ダニー・ウィリアムズに4ラウンドKO負け。2004年12月、器物損壊容疑で逮捕。
事実上の引退
2005年6月12日、前回の試合で傷めた膝を手術し復帰。無名のケビン・マクブライドを相手に戦うも、年齢から来る体力の衰え、そして膝の怪我の影響からか動きに精彩を欠き、6ラウンド終了後棄権しTKO負け。試合後のリング上でのインタビューで 「もうこれ以上、ボクシングを侮辱したくない」 と、引退を示唆した。正式な引退発表をしなかったが、結局はこれが最後の試合となり、1985年のプロデビューから2005年まで丸20年のプロキャリアに終止符を打った。
ファイル:Mike Tyson festival de Cannes.jpg
2008年、カンヌ国際映画祭にて

引退後〜現在

波乱に満ちた生活
2006年12月29日、自動車でナイトクラブから帰宅する途中にパトカーと遭遇。衝突しかけた折りに取り調べを受けた際、飲酒運転およびコカイン使用所持(再犯)が発覚したことにより逮捕された。2007年11月19日、禁固1日と執行猶予3年の判決。
2008年5月16日、ジェームズ・トバック監督によるドキュメンタリー“マイク・タイソン THE MOVIE”が第61回カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映された。同日行われた記者会見では、タイソン本人が作品の題材となった自らの人生について語った。
2009年6月6日、ラスベガスで3度目の結婚式を挙げた[3]。11月12日、ロサンゼルス国際空港で自分と家族の写真を撮ろうとしたカメラマンともみ合いになり暴行をした疑いで逮捕されたが、その後証拠不十分のため不起訴処分となった。
2010年7月2日、メッカ巡礼のためサウジアラビア入りをする[4]
国際ボクシング殿堂
2011年6月12日、ボクシングを志してからの目標でもあった国際ボクシング殿堂への殿堂入りを果たす。
WWE殿堂
ライセンス停止中の1998年3月29日、アメリカのプロレス団体WWEの『レッスルマニアXIV』のメインイベントにて特別レフェリーを務めた経緯から、2012年3月31日にWWE殿堂に迎えられた。
禁止薬物の服用を告白
 2013年11月12日に出版された自叙伝「Undisputed Truth」にて、現役時代に試合前に禁止薬物を服用し、他人の尿を使って薬物検査をパスしていた事を明かした[5]。本人は「完全なコカイン中毒だった」と語る。

日本の格闘技団体等との関係

  • タイソンのネームバリューは格闘技団体にとっては最高のターゲットである。アントニオ猪木が最初に、後にK-1、さらにはPRIDEが頻繁にタイソン招聘を望んでいる。が、タイソンの収入と日本プロレス界が出せる金額にあまりにも差があり実現することはなかった。
  • 2003年8月15日、K-1 WORLD GP 2003 in LAS VEGASではボブ・サップキモとの試合後に「Tyson, you're next!!(タイソン、次はお前だ!)」とリングサイドで観戦していたタイソンを挑発すると、タイソンが「Sign the contract big boy.(契約書にサインしな、デカい坊や)」と返答したことからサップとの対戦が行われるのではと格闘技ファンの期待を煽ったが、未だ実現していない。高額なファイトマネーが下げられない事やタイソンの犯罪歴による入国不可問題(日本国または日本国以外の国の法令に違反して1年以上の懲役もしくは禁固、又はこれらの相当する刑に処せられた事のある者は原則として日本に入国不可)などが絡んでいる。サップは当初から対戦が頓挫すると予想していたが、これ以来タイソンとサップは共に食事に出かけるなど友人関係を築き上げている。[6]

逸話

テンプレート:雑多な内容の箇条書き

  • かつて日本テレビ系で放送されていた『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』にゲストとして出演したことがある。その際、解答者として出演していたタイソンファンの安部譲二がタイソンにミリオンスロットのボタンを押してもらったが、使い勝手のわからないタイソンは「アーイ!」と叫んでボタンをおもいっきり押しスロットを破壊してしまい、女性出演者が「あっ壊しちゃった!」と驚き笑う事態となった。ちなみに破壊の度合いは得点が表示される画面が消えたというもので、筐体の全壊には至っていない。
  • 1987年に元々は景品用だった『パンチアウト!!』を、タイソン自身がゲーム中に出てくる『マイクタイソン・パンチアウト!!』として一般販売された。CMやパッケージにもタイソンが起用されていたが、肖像権や数々の不祥事によりバーチャルコンソール等で移植される際は全て景品版になっている。
  • ストリートファイターII』に登場しているマイク・バイソン(MIKE BISON, M.BISON)は彼がモデルとなっているが、海外版では肖像権等の影響で名前のみバルログ(BALROG)に変更されている。
  • 無類の女好きであり、多いときには一晩で24人もの女性と寝たという。トレバー・バービック戦やジェームス・スミス戦では淋病治療中の中での試合だった。結果的にこの女好きな性格が災いし(本人はいまだに無罪を主張しているものの)レイプの訴えを起こされ有罪を宣告されている。この事件以外にも多くの女性から何度もセクハラ等で訴えを起こされている(女性の狂言であったと発覚したケースも多い)。
  • 余りにパンチ力が強かったためアマチュア時代からスパーリングの相手に苦労しており、15歳時には週給1000ドルを支払って当時の世界ヘビー級王者ラリー・ホームズのスパーリングパートナー達を雇っていた。雇う際、スパーリングパートナーから出された条件としてタイソンは20オンスの大きなグローブを着用しスパーリングパートナーは通常の14オンスのグローブを着用というものがあった。そして、週給1000ドルという金はカス・ダマトの後援者であったビル・ケイトンジム・ジェイコブスが負担していた。
  • ダマトは速い速度で相手との距離を詰める生粋のファイタータイプを育成することを得意としたが、このタイプがなじむ一番の条件は小柄であることだった。本人もこれを十分承知しており、タイソンが一番背が伸びる時期だった頃に背中に25kgの錘をつけさせて毎日ジョギングさせたという。
  • 兄弟子のホセ・トーレスによればタイソンはカス・ダマトと初めて会った12歳時に身長は5フィート7インチ(約170cm)・体重は186ポンド(約84kg)あり筋肉の塊だったという。トーレスはその後当時を振り返りこう語っている。「9歳から12歳の間に、51回も逮捕されたということに驚き、それ以上にタイソンの才能にビックリした。こんな子がいるのか、という程のスピードだった。彼が世界チャンピオンになることを疑う人なんていなかった。でも、当時からカスの家の外で、しょっちゅう問題を起こしていた」。
  • カス・ダマトは12歳のタイソンの練習を初めて見せられた際、そのリング上でのパフォーマンスにタイソンがまだ12歳であることに信じられない様子だったという。ダマトの友人でもあった作家ピート・ハミルはその後、13歳のタイソンを初めて見た時の印象をこう語っている。「信じられないようなパンチ力だったよ。それにあのスピード。正にダイヤモンドの原石だった。でもマイクには拭い去れない影みたいなものが感じられた。いつも悲しそうにしてるんだ。話し掛けても、決してこちらの目を見ようとしない」。
  • 2009年に娘を事故で失い、そのショックから立ち直り人生を変えるため、肉食を絶ちヴィーガン(菜食主義)へ転向したことを告白。

戦績

  • プロボクシング:58戦 50勝 44KO 6敗 2無効試合

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獲得タイトル

  • 第12代WBC世界ヘビー級王座
  • 第34代WBA世界ヘビー級王座
  • 第4代IBF世界ヘビー級王座
  • 第19代WBC世界ヘビー級王座
  • 第42代WBA世界ヘビー級王座

出演作品

映画

CM

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. タイソンはこのときのことを後に、「お袋はストリートで新しい服をかっぱらってきた俺のことを喜んではいなかった。俺はお袋とそのことについてどう思うかと話したり知ろうとする機会がなかった。プロとして自分のキャリアには影響していないが、精神的・個人的に自分の重荷となった」と語っている。
  2. テンプレート:Cite news
  3. タイソン氏3度目の結婚 ボクシングニュース「Box-on!」 2009年6月12日
  4. マイク・タイソンさん、メッカ巡礼 服役後に入信 朝日新聞 2010年7月4日
  5. マイク・タイソン、試合前の薬物使用を認める 検査には他人の尿を使用 YAHOO! JAPAN ニュース 2013年11月13日
  6. ボブ・サップ『野獣の怒り』(双葉社)