フットボール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

フットボールテンプレート:Lang-en-short)は、程度の差はあるが、得点するために指定された相手陣地のゴールにボールを蹴り込む要素を含む様々なスポーツを意味する。これらの中で世界的に最も人気があるのはアソシエーション・フットボールであり、より一般的には単に「フットボール」あるいは「サッカー」として知られている。ただし、「フットボール」という語句がどのスポーツを意味するかはその地域でどのフットボールが最も人気があるかによって異なり、アメリカンフットボールオーストラリアンフットボールカナディアンフットボールゲーリックフットボールラグビーリーグラグビーユニオン[1]、その他のフットボール競技が最も人気のある地域ではそれぞれのスポーツがフットボールと呼ばれる。

歴史的には様々なフットボールがあり、大半は小作人に人気の競技として見られる。現代のフットボール競技は、18世紀および19世紀のイングランドパブリックスクールにおけるこれらの競技の成文化に遡ることができる[2][3]大英帝国の影響力と力によってこれらのフットボールのルールは大英帝国が支配する地域の外にも広がっていたが[4]、19世紀末までにはゲーリックフットボールのような地域ごとの独特なフットボール競技が既に発展していた[5]。1888年に、イングランドで最初のプロフェッショナルフットボール競技会であるフットボールリーグが創設された。20世紀の間に、様々なフットボールは世界で最も人気のあるチームスポーツとなった[6]

目次

歴史

起源

今日「フットボール」として総称されるこれら一連の競技の歴史は定かではないが、これに近い競技がローマ帝国の時代に既に行われていたと言われている。また、サッカーに見られる様な「ボールを蹴って運ぶ」という要素は、古代中国蹴鞠(日本の蹴鞠も)に由来するとも言われており、こうした競技が主にイングランドで発展、分化し、その一つとして、中世の「懺悔火曜日のフットボール」のような荒唐無稽な「祭り」としてのフットボールになった。一方、イタリアでは『カルチョ』として発展した。これもまた『蹴る』と名付けられていながら、実態は手によるボールの奪い合いだった。

スポーツへの進化、そして分化

これらに対し、時の権力は度々『フットボール禁止令』を敷いたが、大衆のフットボールへの情熱は消える事を知らなかった。そして、近代イングランドでは、良家の子弟のための全寮制学校、パブリックスクールを中心に、フットボールをスポーツとしてルール化する動きが現れ、これが後のサッカー(アソシエーション・フットボール)としてのフットボールのルール作成、そしてそこからのラグビーの分岐につながった。さらに、このサッカーとラグビーは、当時世界中に存在したイギリスの植民地にも伝わり、アイルランドの旧来のフットボールに影響を与え、またアメリカ、オーストラリアで独自のフットボールが派生して行った。

各ルールの共通要素

フットボールの様々なルールは以下の要素を共有しているテンプレート:Citation needed

  • 2つの「チーム」は大抵11人から18人の選手からなる。人数を少なくした(1チーム5人かそれ以上)ルールも人気がある。
  • 試合を行う領域が明確に決められている。
  • 「点」・「ゴール」は、ボールを相手チームの陣地の端やゴールエリア、あるいはラインを越えて移動させることで得られる。
  • ゴールあるいは点は選手が2つの「ゴールポスト」の間にボールを入れることで得られる。
  • ゴールあるいはラインは相手チームによって「守備」されている。
  • 選手は、—ルールに依るが— キック、ラン、ハンドパスによってボールを移動させる必要がある。
  • 選手はボールを移動させるのに道具を使わず体のみを用いる。

ほとんどのルールにおいて、選手の動きを制限する「オフサイド」ルールが存在し、得点はゴールポスト間のクロスバーの上あるいは下をボールが通過することで得られる。いくつかのフットボールルールの共通点は、ゴールラインを越えてボールを運んだ時に得点が入ること、「マーク」あるいは「フェアキャッチ」の後「フリーキック」が与えられることなどである。

古代から世界中の人々はボールを蹴ったり運んだりする競技を行っていた。しかしながら、現代のフットボールルールのほとんどはイングランドに起源がある[7]

語源

テンプレート:Main 「フットボール」という用語の起源に関しては相反する説明が存在する。「football」(あるいはfoot ball)はボール (ball) を足(foot)で蹴る動作を意味しているという説明は広く受け入れられている。もう一つの説明は、中世ヨーロッパにおいて「徒歩で (on foot)」で行われていた様々な競技を元々意味しているというものである。どちらの説明に関しても決定的な証拠はない。

初期の歴史

古代

ファイル:Ancient Greek Football Player.jpg
ボールの平衡を保つ古代ギリシアのフットボール選手。アッティカレキュトスに描かれている。

古代ギリシア人および古代ローマ人は多くの球技を行っていたことが知られており、そのうちの一部は足を使っていた。ローマの球技「テンプレート:仮リンク」は、"ἐπίσκυρος" (episkyros) [8][9]あるいは "φαινίνδα" (phaininda)[10] として知られている古代ギリシアのチーム競技から作られたと考えられている。この競技はギリシャの劇作家テンプレート:仮リンク(紀元前388年 - 紀元前311年)によって言及され、後にキリスト教神学者 アレクサンドリアのクレメンス(150年頃 - 215年頃)によって参照されている。これらの競技は現在のラグビーフットボールに似ていると思われる[11][12][13][14][15]。ローマの政治家キケロ(紀元前106 - 紀元前43年)は、床屋にボールが蹴り入れられた時にひげをそられていたために死んでしまった男性の事件について記述している。ローマの球技では空気で膨らせたボールが使われていた(テンプレート:仮リンク[16][17]

ファイル:One Hundred Children in the Long Spring.jpg
「蹴鞠」で遊ぶ中国の子供を描いた蘇漢臣による宋代の絵画。

紀元前1世紀から3世紀の間に編纂された中国の『戦国策』にはフットボールに似た球技が記されている[18]。戦国策に記されている「蹴鞠」は地上約9メートルの高さで竹の間に固定された絹布にあいた小さな穴に革製のボールを蹴り入れるといった遊びも描かれている。漢王朝(紀元前206年 - 220年)の時代に、蹴鞠の規則は標準化されたテンプレート:Citation needed。蹴鞠は後に日本および朝鮮半島に伝来した。

日本に伝来した蹴鞠は飛鳥時代に発展したテンプレート:Citation needed。日本の皇室では600年頃から蹴鞠が行われていることが知られている。蹴鞠では、数人が輪になりボールを地面に落さないよう蹴り合う。蹴鞠は19世紀中期以前に一度途絶えたが、1903年に復興されたテンプレート:Citation needed

世界の多くの異なる地域の先住民によって行われていた伝統的球技に関しては多数の文献が存在する。例えば、1586年、イングランドの探検家ジョン・デイヴィスに指揮された船の乗組員は、グリーンランドイヌイット(エスキモー)とある種のフットボールを行うために上陸した[19]Aqsaqtukと呼ばれる氷上で行われるイヌイットの競技に関する後の報告がある。試合は、2つのチームが平行に並んで向かい合った状態から始まり、選手は相手チームのラインを越えてゴールを狙いボールを蹴る。1610年、ジェームズタウンの入植者テンプレート:仮リンクは、Pahsahemanと呼ばれるネイティブ・アメリカンの競技ついて記録しているテンプレート:Citation neededオーストラリア大陸において、オーストラリア先住民のいくつかの部族は、歴史家によって「テンプレート:仮リンク」と一般化された詰め物をしたボールを用いた蹴りおよび捕球の競技を行っていた。これに関する最も初期の歴史的報告は1878年のテンプレート:仮リンクの著作「The Aborigines of Victoria」に書かれた逸話である。この本ではリチャード・トーマスと呼ばれる男性が、1841年頃ビクトリア植民地においてアボリジニの人々が球技を行っているのを目撃したと伝えられている: 「トーマス氏は一番前の選手がどのようにポッサムの皮で作られたボールをドロップキックし、その他の選手が捕球するために空中に飛び上がったかを描写した」。一部の歴史家は、「マーン・グルーク」をオーストラリアン・ルールズ・フットボールの起源の一つであると理論付けている。

ファイル:Marn grook illustration 1857.jpg
1850年代のオーストラリア先住民の狩猟採集民を描いた絵。背景の子供達はフットボール(おそらくテンプレート:Interlang)を行っている[20]

ニュージーランドマオリは、テンプレート:仮リンクと呼ばれる競技を行っていた。試合は陣地が分かれた円形の競技場で1チーム7人で行われ、得点は「pou」(境界の印)に触れるか、中央の標的である'tupu'を打つかで得られるテンプレート:Citation needed

先住民族によって行われていたゴム製ボールを使ったテンプレート:仮リンクは、これ以前から存在していることが十分に証明されているものの、これらはバスケットボールあるいはバレーボールとより類似しており、現代フットボール競技に対する影響はごくわずかであることから、フットボールには分類されていないテンプレート:Citation needed。北東アメリカインディアン、特にイロコイ連邦の人々は、小さなボールを投げたり捕球したりするためのネットラケットを用いる競技を行っていた。しかしながら、ラクロスの起源であるこの競技は通常「フットボール」の一種とは分類されないテンプレート:Citation needed

これら競技やその他の競技の歴史は古代にまで遡る。しかしながら、現代フットボールルールの主要な起源は西ヨーロッパ、特にイングランドにあると思われる。

中世および近世ヨーロッパ

テンプレート:See 中世、ヨーロッパ中、特にイングランドにおいて、一年に一度のシュローブタイド・フットボールが盛んに行われるようになった。ブリテンで行われていた球技については9世紀の『ブリトン人の歴史』で言及されている[21]。ボールを手、足、スティック[22]で扱うテンプレート:仮リンクあるいchouleとして知られるフランス北部において行われていた球技については12世紀に記録がある[23]

テンプレート:仮リンク」と呼ばれることがあるイングランドで行われていたフットボールの初期の形は、近隣の町や村の間で行われていた。モブフットボールは隣の教区との間の開けた場所で行われ[24]、人数は無制限であり[25]、膨らませた動物の膀胱[26]といった物を特定の場所(相手の村の教会など)に移動させることを目的に争われた。この競技は懺悔節クリスマス復活祭[26]といった重要な宗教的祭りの期間に主に行われ、シュローブタイドゲームはイングランドの多くの街で現代まで生き残っている(後述)。

イングランドにけるほとんど確かにフットボールといえるものの初めての詳細な説明は、およそ1174年から1183年の間にテンプレート:仮リンクによってなされた。フィッツスティーブンは、懺悔の火曜日の毎年恒例の祭でのロンドンの若者の活動について記している。: テンプレート:Quote

ごく初期の言及のほとんどは、単純にこの競技を「ball play」あるいは「playing at ball」と呼んでいる。このことは、この時期に行われた競技が必ずしもボールを蹴ることを含んでいない、という考えを補強する。

おそらくフットボールである球技に対する初期の言及は、1280年、イングランドノーサンバーランドテンプレート:仮リンクから来る: 「ヘンリーは...ボールをプレーしている (playing at ball) 時.. デイビッドに向かって走った」[27]。フットボールはアイルランドにおいて1308年に行われており、ダウン州テンプレート:仮リンクでの「フットボールの試合」においてウィリアム・バーナードという名の選手によって偶然に体当りされた観客であるJohn McCrocanに言及した文献が存在する[28]。もう一つのフットボール競技に関する言及は1321年、イングランドノーフォークShouldhamから来る[27]

1314年、ロンドン市長ニコラス・デ・ファーンドンは、フットボールを禁止した法令について当時イングランドの上流階級で使われていたフランス語で記している[29]

1363年、イングランド王エドワード3世は、「...ハンドボール、フットボール、あるいはホッケー; 狩猟、闘鶏、あるいはその他のそういった無駄な遊び」を禁止する声明を出した[30]。ここでは、この時期の「フットボール」がハンドボールといった体の他の部位を使う競技とは区別されていることが見てとれる。

ファイル:Football gravure 1750.jpg
1750年頃のフランス

イングランド王ヘンリー4世もまた、「football」という英単語の最も初期の文書化された使用の一つを示している。ヘンリー4世は「foteball」からの金銭の徴収を禁止する声明を出した[27][31]

ノッティンガムシャーキャウストンでフットボールが行われたとする15世紀末のラテン語の文献もある。これは、「キッキングゲーム」と「ドリブル」についての初めての解説である: 「彼らが共通の楽しみとして行っていた競技はフットボールゲームと呼ばれている。このゲームでは、若者は大きなボールを空中に投げるのではなく打つことによって地面を転がさせて前に進ませる、そして手ではなく足を用いて、相手方向にボールを蹴る」。この筆者はフットボールの競技場に関する最も初期の言及を残している: 「境界線が記され、試合が始まった」[27]

中世および近世におけるその他の初めての事例には以下のものがある。

  • 競技ではなくボールを意味する「a football」という言葉は1486年に初めて言及された[31]。これはデイムテンプレート:仮リンクの『テンプレート:Interlang』に記されている:「遊ぶためのいくらか丸い道具… それは足で使うための道具でラテン語で「pila pedalis」、フットボール (fotebal) と呼ばれる」[27]
  • 1526年、フットボール用の靴一足が、イングランド王ヘンリー8世によって注文された[32]
  • 1580年に女性達がフットボールの一種を行ったと詩人のサー・フィリップ・シドニーが詩に残している[33]
  • 「ゴール (goal)」に関する初めて言及されたのは16世紀末および17世紀初頭である。1584年および1602年に、テンプレート:仮リンクおよびテンプレート:仮リンクはそれぞれテンプレート:仮リンクにおける「ゴール」について言及した。カルーは何如にゴールが決まったかを説明している: 「they pitch two bushes in the ground, some eight or ten foote asunder; and directly against them, ten or twelue [twelve] score off, other twayne in like distance, which they terme their Goales」[34]。彼はまた、ゴールキーパーと選手間のボールのパスについて初めて説明した。
  • 「ゴールを決める」ことに初めて直接言及したのは、テンプレート:仮リンクの戯曲「The Blind Beggar of Bethnal Green」(1600年頃上演、1659年出版)である: "I'll play a gole at テンプレート:仮リンク(極度に暴力的なフットボールの一種であり、イースト・アングリアで人気だった)"。同様に1613年の詩で、テンプレート:仮リンクは「when the Ball to throw, And drive it to the Gole, in squadrons forth they goe」と記している。

カルチョ・フィオレンティノ

ファイル:Calcio fiorentino 1688.jpg
カルチョ・フィオレンティノの競技場と開始位置の絵。Pietro di Lorenzo Biniの1688年の本から。

テンプレート:Main 16世紀、フィレンツェでは公現祭四旬節の間の期間を祝して、テンプレート:仮リンクにおいて今日「カルチョ・ストリーコ calcio storico」(歴史的カルチョ)として知られている競技を行っていた。都市の若い貴族達は立派な絹の衣装で着飾り、暴力的なフットボールの一種に飛び込んでいった。例えば、「カルチョ」の選手は、相手に対してパンチ、ショルダーチャージ、キックをすることが出来た。卑怯な殴打も許されていた。この競技は、軍事演習に起源があると言われている。1580年、Giovanni de' Bardi di Vernio伯爵は、「Discorso sopra 'l giuoco del Calcio Fiorentino(カルチョ・フィオレンティノの試合に関する論文)」を書いた。これは、最も初期のフットボール規則であると言われることがある。この競技は1739年1月以降は(1930年5月に復興されるまで)行われていない。

フットボールに対する公的な非難と禁止の試み

テンプレート:Main フットボール競技、 とりわけ最も乱暴で破壊的なものを禁止する数多くの試みが、特に中世および近世のイングランドおよびその他のヨーロッパで行われてきた。1324年から1667年の間、イングランドにおいてのみフットボールは30以上の国家法と地方法によって禁止されていた。このような法律を繰り返し布告する必要があったことは、人気のある競技を禁止することがいかに困難であったかを証明している。イングランド王エドワード2世は、ロンドンにおけるフットボールの手に負えなさに悩まされ、1314年4月13日にフットボールを禁止する声明を発表した: 「この都市においてやかましい音の原因となっている大きなボールを追い掛け回す行為は神が禁じる邪悪を生じることから、我々は、国王の代理として、今後そのような競技をこの都市で禁止することを命ずる。さもなくば禁固刑」。

エドワード3世が1349年6月12日にフットボールを禁止した理由は明確であり、フットボールやその他の競技が、戦争に必須である弓術の鍛錬から大衆の気を逸らしたたである。1424年、テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクを可決した。この法律でフットボールは違法となり、違反したものは4テンプレート:仮リンクの罰金を課せられた。

1608年までに、マンチェスターの地方自治体はフットボールに関する苦情を述べている: "With the ffotebale...[there] hath beene greate disorder in our towne of Manchester we are told, and glasse windowes broken yearlye and spoyled by a companie of lewd and disordered persons ..."[35]。同年、ウィリアム・シェイクスピアは、とがめるような文脈で「フットボール」という言葉を使用している。シェイクスピアの戯曲『リア王』には以下の一節がある: "Nor tripped neither, you base football player(その上,足を払われ放しでは黙っておれまい。この蹴鞠野郎)[36]"(第1幕第4場)。また、シェイクスピアは『間違いの喜劇』でもフットボールに言及している(第2幕第1場) テンプレート:Quote 「Spurn」は文字通り「蹴飛ばすこと」を意味することから、このフットボールが選手間でボールを蹴る行為を含んでいることが示唆される。

しかしながら、イングランド王ジェームズ1世の著作『Book of Sports』(1618年)では、毎週日曜日の礼拝の後の午後にフットボールを行うようキリスト教徒に説いている[37]。この本の目的は、テンプレート:仮リンクを守るピューリタンの厳格さを弱めようとすることであるように思われる[38]

近代フットボールの成立

イングランドのパブリックスクール

テンプレート:Main フットボールは様々な形でブリテンの至るところで行われ続けていてが、パブリックスクール(その他の国での私立学校にあたる)は近代フットボールの成立において4つの重要な出来事が起こったことで広く認められている。まず初めは、パブリックスクールでそれまでの「群集」によるフットボールが、整理されたチームスポーツへと変化したことである。2つ目は、フットボールに関する初期の説明や言及の多くが、これらのパブリックスクールで学んでいた人物によって記録されたことである。3つ目は、パブリックスクールの教師、生徒、卒業生が、出身校間でフットボールの試合を行うことが出来るように、初めてフットボールの規則を成文化したことである。最後は、これらのパブリックスクールが初めて「キッキング」と「ランニング」(あるいは「キャリング」)を明確に分けたことである。

フットボールに似た競技がイングランドのパブリックスクール(主に上流階級、上位中流階級、知的職業階級の男子が通う)で行われていた最も初期の証拠は、1519年のウィリアム・ハーマンの『Vulgaria』である。ハーマンはイートン・カレッジウィンチェスター・カレッジの校長を務め、彼のラテン語の教科書には翻訳の演習問題として、「"We wyll playe with a ball full of wynde"」という節が出てくる[39]

16世紀初めにイートン・カレッジの生徒であり、後にその他の学校の校長を務めたテンプレート:仮リンクは、「16世紀の最も偉大なフットボールの支持者」と評されてきた[40]。彼の貢献には、整理されたチームフットボールの最も初期の証拠がある。マルカスターの文書は、チーム、ポジション、審判、コーチについて言及している。マルカスターの「フットボール」は無秩序で暴力的な伝統的フットボールから進化した。 テンプレート:Quote

1633年、アバディーン出身の教師テンプレート:仮リンクは、「Vocabula」と呼ばれる短いラテン語の教科書の中で現代フットボールの要素について言及している。ウェッダーバーンは、「ゴールを守る」と翻訳できることやボールをパスすると解釈できることを記している。また、「ボールを手に入れる」ことに言及していることから、いくらかの手で扱うことは許されていたことが示唆される。また、相手選手へのチャージングやホールディングを含むタックルが許されていたことは明らかであるテンプレート:Citation needed

より詳細なフットボールの説明は、1660年頃に書かれたフランシス・ウィラビイの『Book of Games』にある[41]サットン・コールドフィールドテンプレート:仮リンクの生徒であったウィラビイは、初めてゴールと明確な競技フィールドについて説明した人物である: 「a close that has a gate at either end. The gates are called Goals." His book includes a diagram illustrating a football field. He also mentions tactics ("leaving some of their best players to guard the goal"); scoring ("they that can strike the ball through their opponents' goal first win") and the way teams were selected ("the players being equally divided according to their strength and nimbleness"). He is the first to describe a "law" of football: "they must not strike [an opponent's leg] higher than the ball".テンプレート:Citation needed」。

イングラドのパブリックスクールでは、初めてフットボールの規則が成文化された。特に、18世紀末に彼らは初めてオフサイドルールを発明した[42]。最も初期のこれらのルールでは、選手はボールと相手側のゴールの間にいる時は単純に「オフサイド off their side」とされた。選手は、足であろうと手であろうと前方にボールをパスすることは許されなかった。前方にボールを進める方法は足でドリブルするか、「スクラム」あるいは同様の「フォーメーション」の中で進めるかしかなかった。しかしながら、オフサイドルールはそれぞれのスクールで別に分化・発展していった。これは。1810年から1850年の間のウィンチェスター、ラグビーハロウテンプレート:仮リンクのそれぞれのフットボールルールに見ることができる[42]。知られている初めてのルール(ルール一式という意味で)は、1815年のイートン[43]ならびにテンプレート:仮リンク[43]のルールである。

19世紀初頭の間、ブリテンのほとんどの労働者階級の人々は週に6日働いており、しばしば1日12時間以上働いた。彼らは当時、楽しみのためにスポーツに参加したいという時間も意欲もなく、多くの子供達は労働力の一部となっていた。路上で行われる宗教上の祝日のフットボールは衰退の道をたどっていた。働く必要がない自由を享受していたパブリックスクールの少年達は、正式なルール一式 (codes of rules) を持つ整理されたフットボール競技の発案者となった。

フットボールは、多くのパブリックスクールで競争力を養い健康を保つための一手段として採用された。それぞれのスクールは、独自のルールを作成した。このルールは異なるスクール間で大きく異なっており、新しい生徒が入ってくるたびに何度も変化していった。これらのルールは大きく2つに大別された。一方はボールを手で持って運ぶ競技を好み(ラグビー、テンプレート:仮リンク、チェルトナム)、もう一方はキックとドリブルによってボールを進めるやり方を好んだ(イートン、ハロウ、ウェストミンスターチャーターハウス)。このようにルールが分かれていったのは当時フットボールが行われた状況に部分的に原因がある。例えば、当時チャーターハウスとウェストミンスターではフットボールを行う場所が学校の回廊の中に制限されており、この場所ではボールを手で持って走る荒っぽい競技を行うことは困難であったテンプレート:Citation needed

ラグビー校の生徒であったウィリアム・ウェッブ・エリスは、1823年、イングランドの有名なパブリックスクールラグビー校でフットボールの試合中、ボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出した」といわれている。大抵、この行為がラグビー・フットボールの始まりであるとされているが、実際の出来事であったかについてはほとんど証拠がなく、ほとんどのスポーツ歴史学者はこの物語を作り話であると考えている。ラグビーの起源であるボールを持って走った行為の第1号がエリス少年なのかは諸説あるが、起源たる発明者の対象として名前が分かっている人物はウィリアム・ウェッブ・エリスただ一人である。そのことから彼の名はラグビーの歴史を語る上で欠かすことのできないものとなっている。ラグビーワールドカップの優勝記念カップは彼の名にちなみ「ウェブ・エリス・カップ(Webb Ellis Cup)」と名づけられている。この「ボールを手で抱えた」行為は「ボールを拾い上げた」として、ウェブ・エリスの「罪」が現代サッカーで禁じられているボールを手で扱ったことであるとしばしば誤解されるが、当時ボールを手で扱うことは許されていることが多く、ある場合は強制的なものであった[44]。ウェブ・エリスが無視したのは、当時ボールを持って後方に戻るか前方に蹴るかしか許されていなかったのに、「ボールを手で持って前方に走った」ことである。

1849年代のイギリスの鉄道狂時代、人々はより遠くに以前よりも便利に移動できるようになった。このため、スクール間のスポーツ大会が可能となった。しかしながら、パブリックスクールはそれぞれ独自のフットボールのルールで競技を行っていたため、対抗戦を行うことは困難だった。この問題の解決策は大抵、試合を前半後半に分け、一方をそれぞれのルールで行うというものであった(現在もラグビーユニオンラグビーリーグのクラブ間の試合で同様の方法が採られている)。

多くのフットボール競技の「近代的」なルールは19世紀中頃から終わりに策定された。これは、ローン・ボウリングやローン・テニス(芝生のコートで行うテニス)といったその他の競技でも同様である。この主要な推進力は1830年の世界初の芝刈り機の特許であった。これにより、近代的なスポーツ用の競技場を用意することが可能になった[45]

ラグビー・フットボールはさておき、パブリックスクールのルールはそれぞれの学校以外で行われることはこれまでほとんどなかった。しかしながら、それらの多くは現在でもそれぞれのパブリックスクールで行われている。

イギリスのスポーツにおけるパブリックスクールの優勢は、労働者階級の子供達の余暇の時間を大幅に増加させた1850年工場法の後に衰え始めた。1850年より前は、多くのイギリスの子供達は1日12時間以上週6日働かなければならなかった。1850年からは、平日は午前6時より前(冬季は午前7時)と午後6時より後(冬季は午後7時)、土曜日は午後2時に仕事を終えなければならなかった。これらの変化は、労働者階級の子供達が様々なフットボールを含む競技に多くの時間を使えるようになったことを意味している。

初めての事柄

クラブ

テンプレート:Main フットボールをプレーするためのスポーツクラブは18世紀に始まった。例えば18世紀中頃にはロンドンの体育協会が設立された(1796年に試合を停止)[46][47]

スコットランドエディンバラに1824年から1841年の間存在していた「The Foot-Ball Club」が、フットボールクラブの名称で呼ばれた記録に残る最初のクラブである[48][49]。このクラブはトリッピング(足を掛けて転ばす)を禁止していたが、プッシング、ホールディング、ボールを拾い上げる行為は許されていた[49]

学校あるいは大学の一部ではないという意味において世界最古の現存するフットボールクラブであると主張している2つのクラブは、ラグビーフットボールの拠点である。バーンズ・クラブは1839年に、ガイズ病院フットボールクラブは1843年に設立されたと言われている。日付やプレーされていたフットボールの種類についてどちらも十分な証拠書類がないが、こういった主張はそれでもその他の現代ルールが生まれるよりも前にラグビーが人気であったことを示唆している。

1845年、ラグビー校の3人の少年がルールを成文化する役目を負った。これは全てのフットボールの中で初めて成文化された規則である[50]。これによってラグビーの伝播がさらに加速された。例えば、ダブリン大学フットボールクラブ(1854年にダブリン大学トリニティ・カレッジで設立され、後にラグビーの拠点として有名となった)は、世界最古の文書が残るフットボールクラブである。

大会

テンプレート:Main 最も長く続いているフットボール行事の一つが、1858年から毎年メルボルン・グラマー・スクールスコッチ・カレッジとの間で争われるコードナー=エグルストン・カップである。最初の年は実験的なルールの下で開催されたものの、この行事はオーストラリアン・ルールズ・フットボールの最初の試合でもあると多くの人によって信じられている。最初のフットボールのトーナメントは、メルボルン王立カレドニア協会の提供によってメルボルン・ルールの下で1861年に開催されたカレドニアン・チャレンジ・カップであった[51]。最古のフットボールのリーグはラグビーフットボールの大会であるユナイテッド・ホスピタル・チャレンジ・カップであるが、最古のラグビートロフィーは1878年から争われているヨークシャー・カップである。南オーストラリアフットボール協会(1877年4月30日)は、現存する最古のオーストラリアン・ルールズ・フットボールの大会である。現存する最古のサッカートロフィーはユーダン・カップ(1867年)であり、最古の全国的なサッカー大会はイングランドのFAカップ(1871年)である。フットボールリーグ(1888年)は最も長く続いているサッカーリーグでありと認識されている。最初のフットボールの国際試合は、1870年5月5日、FAの権限下でジ・オーバルにおいてイングランドスコットランドの間で行われた。最初のラグビーの国際試合は1871年に開催された。

現代的なボール

テンプレート:Main

ファイル:Richard Lindon (1816-1887).jpg
リチャード・リンドン(1880年撮影)は、ゴム製の初のフットボールを発明したと考えられている。

ヨーロッパにおいて、初期のフットボールは動物の膀胱、具体的には豚の膀胱を膨らませて作られていた。後に、製カバーが用いられるようになり、ボールの形状を保つことができるようになった[52]。しかし、1851年、リチャード・リンドンウィリアム・ギルバート(両者ともラグビー出身の靴職人)が、ロンドン万国博覧会において円型と楕円型のボールを展示した。リチャード・リンドンの妻は、豚の膀胱を膨らませる作業が原因の肺の病気で死んだと言われている[53]。リンドンはまた、「ゴム製空気注入式膀胱」と「真鍮製ハンドポンプ」の発明でメダルを受賞した。

1855年、アメリカ合衆国の発明家チャールズ・グッドイヤー加硫ゴムの特許を取得した)がパリ万国博覧会において、加硫ゴムパネルの外装で覆われた球形のフットボールを展示した。このボールはアメリカ合衆国における初期フットボールにおいて人気となった[54]

現代的なパス戦術

テンプレート:Main ボールを前方にパスし、ゴールキーパーを越えて得点しようと試みる選手を含むフットボールの試合に関する最も初期の資料は、1633年にスコットランドアバディーンの詩人・教師であったDavid Wedderburnによって書かれた[55]

「科学的」なフットボールは1839年にランカシャー[56]、現代ラグビーでは1862年に[57]、シェフィールドFCでは早ければ1865年[58][59]に初めて記録されている。

チームが協調して動くパスサッカーを見せた初めてのチームは、1869/70のロイヤル・エンジニアーズAFCであった[60][61]。1869年までには、彼らは「共によく動き」、「バックアップし」、「協調」によって利益を得ていた[62]。1870年までには、エンジニアーズはボールをパスしていた[63]。1872年初頭には、エンジニアーズは「共に美しくプレーする」と賞賛された初めてのフットボールチームであった[64]。続けざまのダブルパスは、1872年3月のダービー校とノッティンガム・フォレストとの試合で初めて報告された[65]。現代的なフォーメーションを初めて完成させたのはケンブリッジ大学AFCであり[66][67][68]、2-3-5の「ピラミッド」フォーメーションを導入した[69][70]

ケンブリッジ・ルール

テンプレート:Main 1848年、共にシュルーズベリー校の卒業生であったケンブリッジ大学のH. de WindonとJ. C. Thringは、ハーローイートンラグビーウィンチェスター、シュルーズベリーのその他12名の代表者と共にトリニティ・カレッジにおいて会合を開いた。8時間の会合により「ケンブリッジ・ルール」として知られている最初の現代フットボール規則が作られた。これらの規則の写しは現存していないが、1856年頃の改訂版がシュルーズベリー校の図書館に保管されている[71]。この規則では明らかにキッキングゲームが好まれていた。ボールを手で扱うことは「足で蹴ったボールを直接キャッチした時」のみ許されており(フリーキックが与えられる)、相手のゴール前でウロウロすることを禁じる原始的なオフサイドルールも存在した。ケンブリッジ・ルールはイングランドのパブリックスクールや大学以外では広く採用されなかった(しかし、協会式フットボールの規則を制定するフットボール・アソシエーションの委員会にはほぼ間違いなく最も重要な影響を与えた)。

シェフィールド・ルール

テンプレート:Main 1850年代後期までには、様々なフットボールをプレーするための多くのフットボールクラブが英語圏の至るところで作られた。イングランドのシェフィールドでNathaniel CreswickとWilliam Prestによって設立されたシェフィールド・フットボール・クラブは、後にサッカーをプレーした世界最古のクラブと認識された[72]。しかし、シェフィールドFCは当初は「シェフィールド・ルール」による独自のフットボールをプレーしていた。この規則はパブリックスクールの規則から大きく離れており、最も重要な差異は「オフサイド」ルールの欠如である。

フリーキックコーナーキック、ハンドボール、スローイン、クロスバーなど多くの要素がこのルールで発明され、後にアソシエーション・フットボール(サッカー)にも広がっていった[73]。1870年代までには、シェフィールド・ルールはイングランド北部およに中部で主要なルールとなった。この時期、ロンドンシェフィールドのFAによる一連の変更によって、徐々に両者の規則の差が減っていき、1877年に共通の規則が採用された。

オーストラリアン・ルール

テンプレート:Main

ビクトリアゴールドラッシュの間、オーストラリアでは様々なフットボールがプレーされていた。これらの起源は今だに大きな議論のテーマであるが、今日オーストラリアンフットボールとして知られているコードの普及はトム・ウィルズによるものであると現在されている。

1858年7月10日、ウィルズは冬季にクリケット選手の健康を保つための「競技規則」を持つ「foot-ball club」を呼び掛ける手紙をBell's Life in Victoria & Sporting Chronicleに書いた[74]。これが新しいスポーツが作られた瞬間であると歴史家によって考えられている。広報と個人的な交流により、ウィルズは様々なルールを実験するフットボールの試合をメルボルンで調整することができ[75]、記録が残る最初の試合は1858年7月31日に開催された。1858年8月7日、ウィルズは比較的確かな証拠があるメルボルン・グラマー・スクールスコッチ・カレッジとの試合の審判を務めた。これらの試合の後、整理されたフットボールの試合は急速に人気を広げていった。

これらの初期の試合に関わったウィルズとその他の人々は、1859年5月14日にメルボルン・フットボール・クラブ(現存する最古のオーストラリアのフットボールクラブ)を結成した。最初のメンバーはウィルズ、ウィリアム・ハマースリー、J・B・トンプソン、トーマス・H・スミスなどであった。

この最初のルールを作った人々の背景は、ルールに与えた影響に関する興味深い推察につながる。囚人を祖先とするウィルズはイングランドで教育を受けた。ウィルズはラグビーフトボールやクリケットの選手であり、オーストラリア先住民と強いつながりを持っていた。ウィルズは最初はラグビー校のルールを導入することを望んだ。ハマースリーは、イングランドから移住したクリケット選手・ジャーナリストであった。トーマス・スミスはアイルランドから移住した教師であった。委員会のメンバーはイングランドのパブリックスクールのフットボールのルールを含むいくつかのルールについて議論した。その他のフットボールと同様の特徴を含むにもかかわらず、いかなる影響を示す決定的な証拠も存在しない。代わりに、委員会はオーストラリアの状況により適したスポーツとすることを決定し、ウィルズが「いや、我々は我々自身のスポーツを持つべきである」と宣言したと文書化されている[76]。このルール体系(コード)は、マークフリーキック、タックルの存在、オフサイドルールの欠如、選手がボールを投げることについて明確に反則とされることが独特である。

このメルボルン・フットボール・ルールは広く普及し、その他のビクトリア植民地のクラブにも徐々に採用されていった。彼らは、その他の影響力のあるビクトリアのフットボールクラブのルールに対応するため、1860年代までに数度ルールを書き直している。ジーロング・フットボール・クラブのルールに対応するためにH. C. A. ハリソンの委員会によって1866年に行われた重要なルールの書き直しによって、「ヴィクトリアン・ルールズ」として知られるようになっていたこのゲームは、その他のルール体系からますます離れたものなっていった。このルールではクリケット競技場、ラグビーボール、特殊化したゴールと背後のポスト、走っている間のボールをバウンドさせること、ハイジャンプによるマークなどがある。このルールはその他のオーストラリアの植民地にすばやく広がった。第一次世界大戦後、中心地の南部オーストラリア以外では、このルール体系は衰退期を迎えたが、アマチュアレベルでは世界中に広がっており、主要なプロ大会としてオーストラリアン・フットボール・リーグが生まれた。

フットボール・アソシエーション

テンプレート:Main

1860年代初期、イングランドにおいて様々なパブリックスクールのゲームを統合・調和させる試みが進められていた。1862年、後にテンプレート:仮リンクの教師となるJ. C. Thringは、彼が「The Simplest Game」と呼ぶ新たなルールを考案した。これらは「アッピンガム・ルールズ」としても知られている。Thringのルールは通常ケンブリッジ・ルールズとは見做されていない。1863年10月初頭に、ハロー、シュルーズベリー、イートン、ラグビー、マールバラ、ウェストミンスターの卒業生を代表する7名の委員会によってケンブリッジ・ルールズの新たな改訂版が策定された。

1863年10月26日の夜、ロンドン、グレート・クイーン通りのフリーメーソンズ酒場において、ロンドン大都市圏のいくつかのフットボールクラブの代表が、フットボール・アソシエーション (FA) の設立会合に集った。この協会の目的は、単一の統一ルール体系を確立し、会員間での試合のプレーを規制することであった。初会合に続いて、パブリックスクールが協会への加盟を要請された。チャーターハウスとアッピンガム以外のパブリックスクールはこの誘いを辞退した。1863年10月から12月の間に合計6回のFAの会合が行われた。3回目の会合の後、ルールの草稿が発表された。しかしながら、4回目の会合の始めに、直近に発表された1863年版のケンブリッジ・ルールズに注目が集った。ケンブリッジ・ルールズはFAのルールの草稿とは、ボールを持って走ることとハッキング(相手の脛を蹴ること)の2つの点で大きな違いがあった。

議論を引き起こしたFAのルールは以下の2つである。

テンプレート:Quote

5回目の会合において、これら2つのルールを削除する提案が成された。代表者のほとんどがこれを支持したが、ブラックヒースの代表でFAの初代会計係であったF・M・キャンベルが異議を唱えた。キャンベルは「ハッキングこそが真のフットボールである」と述べた。しかしながら、ボールを手に持って走ることとハッキングの禁止の動議が可決され、ブラックヒースはFAを脱退した。12月8日の最後の会合の後、FAは後にアソシエーション・フットボールとして知られるスポーツの最初の包括的な一連の規則である「フットボールの規則 Laws of Football」を発表した。19世紀末から使われている「サッカー soccer」という用語は「Association」の省略形に由来する[77]

最初のFAのルールはもはや現在のサッカーでは見られない要素をまだ含んでいたが、それらはオーストラリアンフットボールやラグビーフットボールといったその他のゲームにおいて今でも見ることができる。例えば、選手はフェアキャッチを行い「マーク」を主張することができ、フリーキックの権利を得ることができた。また、相手のゴールラインの後ろのボールにタッチした場合、タッチした側がゴールライン手前15ヤード(13メートル)からのゴールに向かってのフリーキックの権利を得た。

ラグビーフットボール

テンプレート:Main ブリテンでは、1870年までに、ラグビー校のゲームの変種をプレーする約75のクラブがあった。アイルランド、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドにも「ラグビー」クラブがあった。しかしながら、1871年にロンドンの21のクラブが集まりラグビー・フットボール・ユニオン (RFU) を結成するまでは、一般的に受け入れられたラグビーのルールはなかった。これらのルールではボールをパスすることが許されている。また、ラインを越えてボールを地面に触れさせるとゴールへの試みが許されるトライも含まれていたが、マークからのドロップゴールやペナルティーコンバージョンがまだ戦いの主な形であった。

北米のフットボール競技

テンプレート:Refimprove テンプレート:Main

ブリテンでの事例と同様に、19世紀初頭までに、北米の学校および大学では生徒によるチーム間で独自のゲームがプレーされていた。ニューハンプシャー州にあるダートマス大学では、早くも1820年代にはサッカーの変種であるオールド・ディビジョン・フットボールと呼ばれるゲームがプレーされていた。

ファイル:The Tigers of Hamilton football team.jpg
オンタリオ州ハミルトンの「タイガース」(1906年頃)。タイガースは1869年にハミルトン・フット・ボール・クラブとして創立され、1950年にハミルトン・フライング・ワイルドキャッツと合併してハミルトン・タイガーキャッツとなった。このチームは現在もカナディアン・フットボール・リーグに参加している[78]

カナダにおけるラグビーの初の試合は1865年にモントリオールで開催されたと一般的に言われている。この試合ではイギリス陸軍将校が地元の住民と対戦した。ラグビーは次第に支持者を増やし、1868年にカナダで記録が残る初のフットボールクラブであるモントリオール・フットボール・クラブが結成された。

1869年、FAの体系を基にしたルールの下、アメリカ合衆国での初の試合がプリンストンラトガースとの間で行われた。これは大学間での試合という意味において、アメリカ合衆国初のカレッジフットボールの試合でもあるとしばしば見なされている(しかし、アメリカンフットボールの最終形はサッカーではなくラグビーから来ている)。

現代アメリカンフットボールは1874年のモントリオールマギル大学ハーバード大学との試合から生まれた。当時、ハーバードの学生はアメリカの大学で好まれていたFAの体系に基づく「キッキング」ゲームではなくボストン・ゲーム(ランニングが許された体系)をプレーしていたと報告されている。そのため、ハーバードはマギルでプレーされていたラグビーの基づくゲームに適応することが容易であり、2つのチームはそれぞれのルールを交互に行っていた。しかしながら、数年の内に、ハーバードはマギルのラグビールールを採用し、その他の米国の大学にも同じく採用するよう説得した。1876年、マサソイト会議において、これらの大学がラグビー・フットボール・ユニオンのルールの大半を採用することが合意された。プリンストンやラトガースなどはサッカーを基にしたルールを数年間採用し続けていたが、その後にハーバードらのラグビーを基にしたルールに転向した。一般的に米国の大学は20世紀初頭までサッカーに戻ることはなった。

ファイル:1882RutgersFootballTeam.jpg
ラトガース大学フットボールチーム(1882年)

1880年、エール大学のコーチウォルター・キャンプは、アメリカのゲーム形式への多くの主要な変化を考案した。アメリカンフットボールをラグビーフットボールと異なるスポーツに確立させたキャンプが考案した2つの最も重要なルールの革新は、「スクリメージ」と「ダウン・アンド・ディスタンス」ルールである。

スクリメージは、グラウンドからボールを他の選手の手に渡すための開始動作の慣習を意味する。キャンプの最初のルールでは、この渡す動作は足のみで許されていたが、程なくして手でボールをパスすることも許されるようルールが変更された。ルールでは、2つのチームを互いに隔てる固有のスクリメージラインを定めた。ある選手がタックルされた時、その選手はダウンしたと判定されプレーは止まり、両チームはスクリメージラインの両側で再整列する。次に、ボールがグラウンドからスナップされ、プレーが再開する。チームは、ある距離(ヤードで測定される)を獲得する(進む)ために限られた回数のダウンを与えられる。アメリカンフットボールでは、ボールの保持権が移った後、10ヤード進むために4回のダウン(攻撃権)が与えられる。カナディアンフットボールでは、10ヤード進むために3回のダウンが許される。これらのルールは北米のルール体系とラグビーとの間に根本的な区別を作り出した。ラグビーは今でも根本的に連続動作のゲームであるが、北米のルール体系は「スクリメージ」からのデリバリーによって開始し「ダウン」によって終わる個別の「プレー」によって整理される。

批判と部分調整

初期のアメリカンフットボールは、過剰に暴力的な試合であり、毎年数件死亡事故や人生を左右する大怪我などに悩まされていた。暴力が非常に極端となったため、セオドア・ルーズベルト大統領は1905年に、暴力を最小化するようルールを変更しない限りアメリカンフットボールを禁止すると脅かした。この年にいくつかのルール変更が実施されたが、最も持続したのはフォワードパスの許可の導入であり、これは1880年代のキャンプのルール変更のように、このスポーツの性質を根本的に変化させた。ボールを前方へ投げることが反則でなくなると、ボールを前進させる全く新たな手段が生まれた。その結果、選手はそれぞれの役割により特化するようになり、異なるポジションの選手は異なる技術が必要とされるようになった。したがって、ある選手は主にボールを持って走ること(ランニング)に関与する(ランニングバック)が、その他にスローイング(クォーターバック)、キャッチング(ワイドレシーバー)、ブロッキング(オフェンシブライン)に特化した選手もいる。1940年代および1950年代に選手交代が自由になったことで、攻撃と守備の「小隊(プラトーン)」をそれぞれ配置できるようになり、さらなるポジションの特殊化が進んだ(ツー・プラトーン・システム)。

長年にわたって、カナディアンフットボールはアメリカンフットボールの進展の一部を吸収したが、多くの独自の特徴を保ってもいる。そのうちの一つは、カナディアンフットボールが長年、自身をラグビーと公式に区別していなかったことである。例えば、1884年に設立されたカナダ・ラグビーフットボール・ユニオンは、ラグビーユニオンの団体ではなくカナディアン・フットボール・リーグの前身だった(今日ラグビーカナダとして知られるカナダ・ラグビー・ユニオンは1965年まで結成されなかった)。アメリカンフットボールも1880年代にはしばしば「ラグビー」と言い表された。

ゲーリックフットボール

テンプレート:Main 19世紀半ば、様々な伝統的フットボール(総称してケイド caidと呼ばれる)がアイルランド、特にケリー州で人気を保っていた。司祭のW. Ferrisはこの時期の「ケイド」の主要な2つの形式につして描写している: 「フィールド・ゲーム」における目的は2本の木の大枝によって作られたアーチのようなゴールにボールを入れることであった; 大規模な「クロスカントリーゲーム」は日曜日の日中の時間の大半を使って行われ、ボールを教区の境界を越えることで勝敗がついた。敵の選手への「レスリング」や「ホールディング」、ボールを持って走ることは全て許されていた。

1870年代までには、ラグビーおよびサッカーがアイルランドでも人気を得始めていた。ダブリン大学トリニティ・カレッジはラグビーの初期の拠点であった。イングランドのFAのルールは広く普及していた。伝統的なケイドの形式はトリッピングが許される「しっちゃかめっちゃかな」ゲームに取って代わられ始めていた。

1884年にゲーリック体育協会 (GAA) が設立されるまでは、アイルランドの様々なフットボールを統一し体系化しようという真剣な試みはなされなかった。GAAはハーリングといった伝統的なアイルランドのスポーツを振興し、ラグビーやサッカーのような輸入されたスポーツを拒絶しようとした。最初のゲーリックフットボールのルールはモーリス・デイヴィンによって起草され、『United Ireland』誌上で1887年2月7日に発表された。デイヴィンのルールは、ハーリングといったスポーツの影響やアイルランド固有のフットボールの体系を形式化しようという切望が見られた。この差別化の主な例は、オフサイドルールの欠如であった(長年ハーリングといったアイリッシュゲームやオーストラリアン・ルールズ・フットボールにのみ見られた要素である)。

ラグビーフットボールの分裂

ファイル:Reverend marshall.jpg
ラグビーリーグの結成につながったラグビーフットボールの分裂を風刺した1890年代のイングランドの風刺画。風刺的に描写されているのは選手への支払の主な反対者であるフランク・マーシャル牧師とマーシャルの長年の対抗者であるジェームズ・ミラーである。

テンプレート:See 国際ラグビー評議会 (IRFB) は1886年に設立されたが、亀裂が生じ始めていた。プロフェッショナリズムが様々なフットボール競技に忍び寄り始めていた。

イングランドでは、1890年代までに、長年続くラグビー・フットボール・ユニオンの「プロ」選手の禁止がラグビーフットボール内での地域間の対立の原因となった。これはイングランド北部の多くの選手が労働者階級であり、トレーニングや遠征、試合、怪我からの回復のための休みを取ることができなかったためである。これは、この10年前にイングランド北部においてサッカーで起こったこととほとんど変わらなかったが、サッカーの場合、統括団体はイングランド北部の労働者階級の支持を遠ざけようとしたRFUとは大きく異なる対処をした。1895年、ラグビーをプレーすることによる賃金の損失を補うための休業補償が支払われている選手に関する論争の後に、北部のクラブの代表者らはハダースフィールドで集い、ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン (NRFU) を結成した。この新たな団体は当初は選手への様々な休業補償のみを認めていた。しかし、2年のうちに、NRFUの選手への支払が認められた(しかしスポーツ以外の職に就いている必要はまだあった)。

プロリーグへの要求は、ラグビーがよりよい「観客」のためのスポーツとなることを決定付けた。数年以内に、NRFUのルールはRFUのルールから分化していった。特に「ラインアウト」の廃止は重大な変更であった。その後、「ラック」がタックラーとタックルされた選手との間で争われる2人の選手によるラックが許される「プレー=ザ=ボール・ラック」に置き換えられた。「モール」はボール保持者がつかまると停止され、プレー=ザ=ボール=ラックに置き換えられた。NRFUのランカシャーとヨークシャーの競技会が1901年に合併し、「ノーザン・ラグビー・リーグ」が結成され、イングランドにおいてラグビーリーグの名称が初めて公式に使用された。

そのうちに、クラブによってプレーされるRFU版のラグビーはラグビーユニオンとして知られるようになった。

サッカーのグローバル化

テンプレート:Main 国際試合の人気が高まった20世紀の始めには、サッカーを監督する単一の団体に対する必要性が明らかとなっていた。イングランドのフットボール・アソシエーションは国際団体設置のための多くの話し合いの議長を務めたが、進展は見られなかった。その後、イングランド以外のヨーロッパの七カ国(フランス、ベルギー、デンマーク、オランダ、スペイン、スウェーデン、スイス)によって1904年5月21日にパリにおいて「Fédération Internationale de Football Association」 (FIFA) が設立された。初代会長はロベール・ゲランであった。現在もフランス語の名称および略称がフランス語圏以外の地域でも使用されている。

2つのラグビーの更なる分岐

ラグビーリーグのルールは、1906年に1チームの選手数が15名から13名に減ったことでラグビーユニオンから大きく分かれた。1907年、ニュージーランドのプロラグビーチームがオーストラリアおよびブリテンに遠征を行い熱狂的な反響受け、翌年にはオーストラリアにおいてプロラグビーリーグが開始された。しかし、プロの試合のルールは国ごとに異なっており、国際試合を行う度に厳密なルールの摺り合わせのための交渉が必要であった。この状況は、1948年にボルドーにおける会合でラグビーリーグ国際連盟 (RLIF) が結成されるまで続いた。

20世紀後半の間、ルールはさらに変化した。1966年、ラグビーリーグはアメリカンフットボールから「ダウン」の概念を借用した。これにより、4回以上タックルを受けるまでボールのポゼッションを維持できることとなった。タックルの最大数は後に6回まで増加し(1971年)、ラグビーリーグにおいてこれは「シックス・タックル・ルール」として知られるようになった。

1990年代初頭にフルタイムのプロ選手が誕生し、結果として試合がスピードアップすると、2チーム間の5メートルオフサイド距離が10メートルとなり、交代ルールは様々な入替ルールに取って代わられた。

ラグビーユニオンの規則もまた20世紀の間に大きく変化した。特に、「マーク」からのゴールが廃止され、「22メートル」ラインの外側からのタッチへの直接のキックが不利になり、不確定な「ラック」あるいは「モール」の後のボールの保持圏を決定するための新たな規則が導入され、ラインアウトにおける選手のリフティングが合法化された。

1995年、ラグビーユニオンではプロ選手が解禁された。これによって、2種類のラグビー間の元々の対立点は無くなり、双方の団体の役員が再統合の可能性について言及することもあるが、近い将来においてそのような出来事があり得ない程に双方のルールおよび文化は異なっている。

ファイル:Shunsuke1 20080622.jpg
サッカーにおいて相手チームが作る「壁」に向かってフリーキックを蹴る選手。

「フットボール」という語句の使用

「フットボール」またはその派生語は、しばしばサッカーを指す(フランス語football や、ドイツ語で「フットボール」を意味する Fußball は、いずれも「サッカー」(ア式蹴球)のことである)が、国によって事情はかなり異なっている。例えば、アメリカ合衆国では、ほぼアメリカン・フットボールを意味し、カナダでは カナディアン・フットボールも表し、オーストラリアでは、地域によってラグビーまたはオーストラリアン・ルールズ・フットボールを表す。つまり、その国で一番人気のあるフットボール競技が「フットボール」と呼ばれる。

ファイル:Football cross.jpg
アメリカンフットボールの試合でスクリメージラインに集まる選手。

アソシエーション・フットボールは、その他のフットボール競技が支配的な地域(アメリカ合衆国、カナダ、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド等)では一般形に「サッカー」として知られている。アメリカ合衆国においてアメリカンフットボールは常に「フットボール」である。カナディアンフットボールがより人気のあるフランス語圏ケベック州では、カナディアン・フットボールが「フットボール」として知られ、アソシエーション・フットボールはle soccerとして知られている[79]。英語が公用語あるいは主要な言語であるFIFAに加盟する45の協会のうち、ほとんどは現在組織の公式名称に「フットボール Football」の語を使用している。カナダおよびアメリカ合衆国は名称に「Soccer」を使用している。

いくつかのFIFA加盟協会は最近「Football」を使用するように標準化している。

  • オーストラリアのサッカーの統括団体は2007年に名称をサッカーからフットボールに変更した[80]
  • ニュージーランドもまた、「国際的な競技がフットボールと呼ばれる」と述べ、名称を変更した[81]
  • サモアは2009年に名称を「Samoa Football (Soccer) Federation」から「Football Federation Samoa」に変更した[82][83]

フットボールの分化

フットボール ケンブリッジ・ルール(1848年) アソシエーション・フットボール(サッカー)
(1863年)
7人制
ビーチ(1992年)
フットサル(1930年)
シェフィールド・ルール(1857年)
室内
パラリンピック
ストリート
ラグビー・ルール(1845年)
ラグビーユニオン(1871年)
ラグビーセブンズ(1883年)
ラグビーリーグ(1875年)
ラグビーナインズ
ビーチラグビー
タッチラグビー
アメリカンフットボール(1869年) アリーナフットボール(1987年)
カナディアンフットボール(1861年) フラッグフットボール
ゲーリック(1887年)
オーストラリアン・ルールズ(1859年)

現在のフットボール競技とその派生競技

の使用 前方へ投げる 前方へ落とす
サッカー 不可 - -
インドア・サッカー 不可 - -
フットサル 不可 - -
ラグビー 不可 不可
タッチ
フットボール
不可 不可
ゲーリック
フットボール
不可
オージー
フットボール
不可
アメリカン
フットボール
カナディアン
フットボール
スーパー
フットボール

サッカーおよびその派生競技

ファイル:Indoor Soccer Game in Mexico.JPG
メキシコの屋外で行われているインドアサッカーの試合。審判が赤チームにフリーキックを与えている。

また、モータースポーツ版サッカーも存在する。

ラグビー校のフットボールおよびその子孫

アイルランドおよびオーストラリアのフットボール

ファイル:International rules.jpg
ドックランズ・スタジアムメルボルン)で行われたオーストラリとアイルランドの2005インターナショナル・ルールズ・シリーズにおけるテストマッチ。

これらのルール体系は共通してオフサイドルールがなく、ボールを持って走る間にボールをバウンドあるいはトーキックする必要があり、スローイングではなくパンチングあるいはタッピングによってハンドパスが行われる。

現存する中世の球技

イギリス

イギリス外

現存するイギリスのパブリックスクールのフットボール

イギリスのパブリックスクールでは今でも以下のフットボールが行われている。

近年考案された競技

FAのルールを基にした競技

  • Cubbies
  • Three sided football
  • Triskelion

ラグビーを基にした競技

  • Force ’em backs

混成競技

卓上競技およびその他の遊戯

サッカーを基にしたもの

アメリカンフットボールを基にしたもの

オーストラリアン・ルールズを基にしたもの

ラグビーリーグを基にしたもの

  • Rugby Leagueシリーズ
  • Australian Rugby League

「フットボール」の意味する競技

スポーツ以外の用例

スポーツ以外では、あらゆる種類の核攻撃を発動できる核兵器発射コード等の重要な軍事機密が収納されているブリーフケースのことを俗に「核のフットボール」と呼ぶことがある。これは初期の核攻撃計画のコードネームが「ドロップキック」で有ることに由来する。主に映画等でアメリカ合衆国大統領がフットボールと呼ばれるブリーフケースを常に携帯している描写があるが、現実の米国大統領が常に携行しているかは不明である。ただ、2009年1月に米放送局のABC Newsは、オバマ大統領が、宣誓式の際軍事機密引継ぎ会議内で、核のフットボールを引き継いだという報道をした。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister


テンプレート:チームスポーツ
  1. テンプレート:Cite journal
  2. テンプレート:Cite web
  3. テンプレート:Cite journal
  4. テンプレート:Cite journal
  5. テンプレート:Cite journal
  6. テンプレート:Cite book
  7. Marples, M (1954). A History of Football. Secker and Warburg, London
  8. ἐπίσκυρος, Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon, on Perseus Digital Library
  9. The New Encyclopaedia Britannica, 2007 Edition: "In ancient Greece a game with elements of football, episkuros, or harpaston, was played, and it had migrated to Rome as harpastum by the 2nd century BC".
  10. φαινίνδα, Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon, on Perseus Digital Library
  11. Nigel Wilson, Encyclopedia of Ancient Greece, Routledge, 2005, p. 310
  12. Nigel M. Kennell, The Gymnasium of Virtue: Education and Culture in Ancient Sparta (Studies in the History of Greece and Rome), The University of North Carolina Press, 1995, on Google Books
  13. Steve Craig, Sports and Games of the Ancients: (Sports and Games Through History), Greenwood, 2002, on Google Books
  14. Don Nardo, Greek and Roman Sport, Greenhaven Press, 1999, p. 83
  15. Sally E. D. Wilkins, Sports and games of medieval cultures, Greenwood, 2002, on Google books
  16. E. Norman Gardiner: "Athletics in the Ancient World", Courier Dover Publications, 2002, ISBN 0-486-42486-3, p.229
  17. William Smith: "Dictionary of Greek and Roman Antiquities", 1857, p.777
  18. He, Jin (2001). An Analysis of Zhan Guo Ce. Beijing: Peking University Press. ISBN 7-301-05101-8, p. 59-82
  19. Richard Hakluyt, Voyages in Search of The North-West Passage, University of Adelaide, December 29, 2003
  20. From William Blandowski's Australien in 142 Photographischen Abbildungen, 1857, (Haddon Library, Faculty of Archaeology and Anthropology, Cambridge)
  21. Historia Brittonum at the Medieval Sourcebook.
  22. テンプレート:Cite book
  23. Jusserand, Jean-Jules. (1901). Le sport et les jeux d'exercice dans l'ancienne France. Retrieved January 11, 2008, from http://agora.qc.ca/reftext.nsf/Documents/Football--Le_sport_et_les_jeux_dexercice_dans_lancienne_France__La_soule_par_Jean-Jules_Jusserand テンプレート:Fr icon
  24. テンプレート:Cite book
  25. テンプレート:Cite book
  26. 26.0 26.1 テンプレート:Cite book
  27. 27.0 27.1 27.2 27.3 27.4 Francis Peabody Magoun, 1929, "Football in Medieval England and Middle-English literature" (The American Historical Review, v. 35, No. 1).
  28. テンプレート:Cite web
  29. Derek Birley (Sport and The Making of Britain). 1993. Manchester University Press. p. 32. 978-0719037597
  30. Derek Baker (England in the Later Middle Ages). 1995. Boydell & Brewer. p. 187. ISBN 978-0851156484
  31. 31.0 31.1 テンプレート:Cite web
  32. Vivek Chaudhary, “Who's the fat bloke in the number eight shirt?” (The Guardian, February 18, 2004.)
  33. Anniina Jokinen, Sir Philip Sidney. "A Dialogue Between Two Shepherds" (Luminarium.org, July 2006)
  34. テンプレート:Cite web
  35. International Olympic Academy (I.O.A.) (no date), “Minutes 7th International Post Graduate Seminar on Olympic Studies”
  36. テンプレート:Cite book
  37. テンプレート:Cite book
  38. テンプレート:Cite web
  39. A history of Winchester College. by Arthur F Leach. Duckworth, 1899 ISBN 1-4446-5884-0
  40. テンプレート:Cite web
  41. テンプレート:Cite book
  42. 42.0 42.1 テンプレート:Cite web
  43. 43.0 43.1 テンプレート:Cite book
  44. example of ball handling in early football from English writer William Hone, writing in 1825 or 1826, quotes the social commentator Sir Frederick Morton Eden, regarding "Foot-Ball", as played at Scone, Scotland:
    The game was this: he who at any time got the ball into his hands, run [sic] with it till overtaken by one of the opposite part; and then, if he could shake himself loose from those on the opposite side who seized him, he run on; if not, he threw the ball from him, unless it was wrested from him by the other party, but no person was allowed to kick it. (William Hone, 1825–26, The Every-Day Book, "February 15." Access date: March 15, 2007.)
  45. ABC Radio National Ockham's Razor, first broadcast 6 June 2010.
  46. THE SURREY CLUB Bell's Life in London and Sporting Chronicle (London, England), Sunday, October 07, 1849; pg. 6.New Readerships
  47. Football: The First Hundred Years. The Untold Story. Adrian Harvey. 2005. Routledge, London
  48. John Hope, Accounts and papers of the football club kept by John Hope, WS, and some Hope Correspondence 1787–1886 (National Archives of Scotland, GD253/183)
  49. 49.0 49.1 テンプレート:Cite web
  50. テンプレート:Cite web
  51. テンプレート:Cite web
  52. Soccer Ball World – Early History . Retrieved June 9, 2006. テンプレート:Wayback
  53. The exact name of Mr Lindon is in dispute, as well as the exact timing of the creation of the inflatable bladder. It is known that he created this for both association and rugby footballs. However, sites devoted to football indicate he was known as HJ Lindon, who was actually Richards Lindon's son, and created the ball in 1862 (ref: Soccer Ball World), whereas rugby sites refer to him as Richard Lindon creating the ball in 1870 (ref: Guardian article). Both agree that his wife died when inflating pig's bladders. This information originated from web sites which may be unreliable, and the answer may only be found in researching books in central libraries.
  54. soccerballworld.com, (no date) "Charles Goodyear's Soccer Ball" Downloaded 30/11/06.
  55. Scots invented beautiful game The Scotsman, 14 June 2006
  56. Bell's Life in London and Sporting Chronicle (London, England), Sunday, January 13, 1839.New Readerships
  57. Blackwood's Magazine, Published by W. Blackwood, 1862, page 563
  58. Bell's Life in London and Sporting Chronicle (London, England), Saturday, January 07, 1865; Issue 2,229: "The Sheffield party, however, eventually took a lead, and through some scientific movements of Mr J Wild, scored a goal amid great cheering"
  59. Bell's life in london, November 26th 1865, issue 2275: "We cannot help recording the really scientific play with which the Sheffield men backed each other up
  60. テンプレート:Cite book
  61. [Cox, Richard (2002) The encyclopaedia of British Football, Routledge, United Kingdom]
  62. Bell's Life in London and Sporting Chronicle, 18 December 1869
  63. Bell's Life in London and Sporting Chronicle, 5 November 1870,issue 2
  64. Bell's Life in London and Sporting Chronicle, 17 February 1872,issue 2694
  65. The Derby Mercury (Derby, England), Wednesday, March 20, 1872; Issue 8226
  66. テンプレート:Cite book
  67. Association Football, chapter by CW Alcock, The English Illustrated Magazine 1891, page 287
  68. テンプレート:Cite book
  69. Csanadi Arpad, Hungerian coaching manual "Soccer", Corvina, Budapest 1965
  70. Wilson Jonathon, Inverting the pyramid: a History of Football Tactics , Orion, 2008
  71. テンプレート:Cite web
  72. テンプレート:Cite book
  73. テンプレート:Cite book
  74. テンプレート:Cite web
  75. テンプレート:Cite web
  76. Sport: Touchstone of Australian Life from the Australian Broadcasting Commission. First broadcast on Thursday 17/05/01
  77. テンプレート:Cite journal
  78. テンプレート:Cite web
  79. テンプレート:Cite web
  80. Stories Soccer to become football in Australia (SMH.com.au. December 17, 2004) "ASA chairman Frank Lowy said the symbolic move would bring Australia into line with the vast majority of other countries which call the sport football."
  81. NZ Football – The Local Name Of The Global Game (NZFootball.co.nz. April 27, 2006) "The international game is called football and were part of the international game so the game in New Zealand should be called football"
  82. テンプレート:Cite web
  83. テンプレート:Cite web
  84. テンプレート:Cite web
  85. Sean Fagan, Breaking The Codes, RL1908.com, 2006 (2006年5月11日時点のアーカイブ