アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ

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アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラAntônio Rodrigo Nogueira、男性、1976年6月2日 - )は、ブラジル総合格闘家柔術家バイーア州ヴィトリア・ダ・コンキスタ出身。チーム・ノゲイラ主宰。ブラジリアン柔術黒帯。元PRIDEヘビー級王者、元UFC世界ヘビー級暫定王者

ニックネームは牛頭人身の怪物「ミノタウロ」。さらに、PRIDEでは総合格闘技における柔術の技術の高さや極めの強さから「柔術マジシャン」と称され、PRIDEヘビー級三強の一角を担った。無尽蔵のスタミナと脅威的なタフネス、寝技の極めの強さに定評があり、絶対に折れない精神力は多くのファイターや格闘技ファンからリスペクトされている。一本勝ちの多さからグラップラーのイメージが強いが、柔術出身の総合格闘家としてはトップクラスのボクシングテクニックを誇り、00代半ばには数少なかったコンプリートファイターの一人であった。

一卵性双生児の弟アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラも総合格闘家である。

来歴

幼少期から総合デビューまで

1976年、ヴィトリア・ダ・コンキスタの農場で父アミルトン、母マリーナの間に生まれる。4歳から柔道を始め、10代半ば頃にはブラジルのボクシングオリンピックコーチのルイス・カルロス・ドリアからボクシングを学んでいた[1]。11歳の頃[2]、トラックの下敷きになるという事故で両肺が潰れ、肋骨1本と肝臓の一部を失う大怪我を負い、丸4日間生死の境を彷徨う。当時の医者には2度と歩けなくなるとまで宣告されたが、懸命のリハビリによって回復した。背中の右肩甲骨下に大きく凹んだ傷跡がその事故の名残りである。

1993年、アメリカで開催されたUFCでのホイス・グレイシーの活躍に憧れ、17歳の時ヒカルド・デラヒーバの弟子ギリェルメ・アサッドのもとでブラジリアン柔術を始める。その後はデラヒーバに直接師事して実力を伸ばした。

1999年1月、パンナムに出場し、茶帯ペサディシモ(+97kg)級で優勝、またアブソルート(無差別)級では決勝でジヴァニウド・サンターナを下し2冠を達成し、22歳でデラヒーバからブラジリアン柔術黒帯を授与された。その後アメリカに移住し、パンナムの活躍によりWEF(ワールド・エクストリーム・ファイティング)のプロモーターにスカウトされる[2]。6月12日にデビッド・ドッド戦でプロ総合格闘技デビュー。また7月にはムンジアルに出場し、黒帯無差別級でベスト4に進出するも、準決勝でホベルト・"ホレッタ"・マガリャエスに敗れている。また、この年に柔道の黒帯も取得している[3]

リングス

1999年10月28日、リングス参戦のために初来日。『KING OF KINGS 1999トーナメント』ではヴァレンタイン・オーフレイムコーチキン・ユーリアンドレイ・コピィロフを破るも、準決勝のダン・ヘンダーソンとの対戦では、延長ラウンドで数度のテイクダウンを奪い、かつマウントポジションを何度も取る等、終始優勢に試合を運んだにもかかわらず、審議委員判定という判定によって敗れる[2]。試合後、ノゲイラの部屋にヘンダーソンからビールが1ダース届けられた[2]

2000年1月15日、ジョージア州のロームフォーラム・シビックセンターで行われた「WEF 8」のWEFスーパーヘビー級王者決定戦(8分3R)で、ジェレミー・ホーンを判定で破り、WEFスーパーヘビー級王者となった。試合自体は、両者の猪木アリ状態が見られるなど膠着状態が続き、格闘技雑誌では「見所なき凡戦」と書かれてしまっている[4]。同年3月には第3回アブダビコンバット99kg以上級に出場。1回戦でショーン・アルバレスにポイント勝ちするものの、2回戦でリコ・ロドリゲス膝十字固めで敗退した。『RINGS KING OF KINGS 2000トーナメント』ではラバザノフ・アフメッド田村潔司ヴォルク・ハン金原弘光ヴァレンタイン・オーフレイムを立て続けに破り優勝を果たした。同年、カーウソン・グレイシー柔術アカデミーの分裂に際してマリオ・スペーヒームリーロ・ブスタマンチらと共にブラジリアン・トップチームとして独立する[5]

PRIDE

2001年より総合格闘技イベントPRIDEに参戦。緒戦の相手ゲーリー・グッドリッジ三角絞めで破ると、2戦目には前年のPRIDEグランプリの覇者、マーク・コールマンと対戦。三角絞めでコールマンが立ち上がったのに合わせ腕ひしぎ三角固めに移行し、タップアウト勝利を収めた。PRIDE.17では新設されたヘビー級王座を賭けヒース・ヒーリングと対戦、立ち技・寝技の両方で主導権を握り判定で勝利し、初代PRIDEヘビー級王者となった。

2002年2月24日、PRIDE.19エンセン井上の引退試合の相手を務める。試合はガードからアームロックを極めたが、エンセンがタップしないため三角絞めに切り替え、最後は絞め落とし一本勝ち[6]。8月8日にはUFO LEGENDに出場し菊田早苗と対決、寝技の攻防で一本は奪えなかったものの、スタンドの打撃で攻勢に立ち、最後は右ストレートで失神KO勝ち。8月28日、Dynamite!ボブ・サップと対戦。実に50kg以上にも及ぶ体重差とサップのパワーに苦しめられるが、腕ひしぎ十字固めにより逆転一本勝利を収めた。11月24日、PRIDE.23セーム・シュルト戦ではタックルを切られるなどてこずる場面もあったが、最後はマウントからの三角絞めで勝利した。1か月後のPRIDE.24にも出場、リングス時代に敗北を喫したダン・ヘンダーソンと再戦し、オモプラッタで主導権を握り、腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。

2003年3月16日、PRIDE.25エメリヤーエンコ・ヒョードルとの初防衛戦に挑んだが、ノゲイラの寝技を研究し尽くしたヒョードルの戦略と強烈なパウンドの前に圧倒され、判定で敗れ王座陥落。8月10日、PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦のワンマッチで元UFC世界ヘビー級王者リコ・ロドリゲスと対戦。判定により勝利を収めたが、PRIDEとUFCの判定基準の相違により物議を醸す結果となった。後に英語版公式サイトにて判定に関する説明が行われた[7]。11月9日、ヒョードルの怪我によるミルコ・クロコップとのヘビー級暫定王座をかけた一戦では、テイクダウンを奪えずスタンドで劣勢に立ち、1R終了間際には左ハイキックでダウン、かろうじてゴングに救われた。2Rは開始早々テイクダウンからマウントを奪い、ミルコのブリッジに合わせて腕ひしぎ十字固めを極め、会場が総立ちとなる劇的な大逆転勝利を飾った。

2004年に開催されたPRIDEヘビー級グランプリでは、1回戦横井宏考2回戦ヒース・ヒーリングにいずれも新技スピニングチョークで一本勝ちを収め、ベスト4に進出する。8月15日、グランプリ準決勝セルゲイ・ハリトーノフを判定で下し、決勝では因縁のヒョードルと再戦するも、偶然のバッティングによりヒョードルが出血したため、無効試合に終わる。

2004年大晦日のPRIDE 男祭り 2004のメインイベントでPRIDEヘビー級王座と同ヘビー級GP王座の両タイトルを賭けて再々戦。パウンド対策は実を結んだものの、打撃、寝技の両面において完封され3-0の判定で敗北。リベンジに失敗している。なお、この日は会場入りが大幅に遅れてしまい、オープニングセレモニーに間に合わなかった。そのため、双子の弟のホジェリオに代打でセレモニーに参加してもらっていた[8]

2005年は6月26日のPRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUNDパウエル・ナツラマウントパンチでTKO(テクニカルノックアウト)勝利を収めた。この年は1試合の出場にとどまった。

2006年はPRIDE無差別級GPに出場、順当に勝ち上がる。9月10日、準決勝ジョシュ・バーネット戦ではPRIDE史上に残る寝技対決の末、僅差の判定1-2で敗れるも、12月31日の再戦では3-0の判定勝利を収め、リベンジを果たした。

UFC

2007年4月5日のUFC Fight Night 9をUFCのダナ・ホワイト社長とともに観戦し、続く4月8日のUFC 69でオクタゴンに登場。ダナ・ホワイト社長からUFCに参戦することが正式に発表された[9]。また、これに前後して長年在籍したブラジリアン・トップチームを脱退。アメリカン・トップチームブラック・ハウスでトレーニングを積みながら、アメリカに自身の新しいチーム「チーム・ノゲイラ」を発足[10]。7月7日、UFCデビューとなるUFC 73ヒース・ヒーリングとの3度目の対戦では、1R終盤にヒーリングのハイキックでダウンを奪われるも、それ以外では終始試合を支配して判定勝ちを収めた。

2008年2月2日、UFC 81のUFC世界ヘビー級暫定王者決定戦でティム・シルビアと対戦。1Rにはダウンを奪われるなど劣勢であったが、3Rにスイープからのギロチンチョークで一本勝ちを収め、UFC世界ヘビー級暫定王者となった。また、この試合は同大会のファイト・オブ・ザ・ナイトに選ばれた[11]

2008年12月27日、初の暫定王座防衛戦となるUFC 92フランク・ミアと対戦。左フックで倒されたところにパウンドを連打されTKO負け。UFC世界ヘビー級暫定王座から陥落した。ダナ・ホワイトによると、一週間前まで熱で入院していたと言う。また、この試合を終えてすぐに膝の手術を行った。

2009年8月29日、復帰戦となるUFC 102では、二度のダウンを奪ってランディ・クートゥアに判定勝ちを収め、レスナーへの王座挑戦、ミアとの再戦をアピールした。また、この試合は同大会のファイト・オブ・ザ・ナイトに選ばれた。

2010年2月20日、UFC初進出オーストラリア・シドニーで開催されたUFC 110のメインイベントでケイン・ヴェラスケスと対戦。1R2分20秒、右ストレートからのパウンドでKO負け。

2011年8月28日、母国ブラジルで開催されたUFC134ブレンダン・シャウブと対戦し、1RKO勝ち。ノックアウト・オブ・ザ・ナイトを獲得した。

2011年12月10日、UFC 140フランク・ミアと再戦。パンチでダウンを奪うも、アームロックで逆転の一本負け。キャリア初の一本負けとなった。フィニッシュのアームロックで右腕を骨折する重傷を負った。[12]

2012年10月13日、母国ブラジルで開催されたUFC 153デイブ・ハーマンと対戦し、2Rに腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。サブミッション・オブ・ザ・ナイトを獲得した。

2013年TUF Brazil 2ファブリシオ・ヴェウドゥムとコーチ役を務める。6月8日のUFC on Fuel TV 10でヴェウドゥムと約7年振りに再戦。2Rに腕ひしぎ十字固めを極められて一本負け。

2014年4月11日、UFC Fight Night 39: Nogueira vs. Nelsonロイ・ネルソンと対戦し、失神KO負け。試合後、ダナ・ホワイトに引退勧告を受けた。

人物

  • 親日家で、好きな日本食は寿司、好きな街は六本木とコメントしている。
  • 趣味はサーフィン
  • リングス時代はブラジルのサッカークラブであるCRヴァスコ・ダ・ガマのテーマ「COME WITH ME」を入場曲にしていたが、曲の入ったCDを無くしてしまったらしい。PRIDEでは、ZZの「NO WAY OUT」を入場曲にしていた。これは、PRIDE王者時代に彼を称えるために作られた曲である。また、2002年8月28日、Dynamite!でのボブ・サップ戦ではDragon Ashの「Revolater」を入場曲として使用した。
  • 一卵性双生児の弟アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラも総合格闘家である。2人の外見的な見分け方は、ホドリゴの方が若干体格が大きく、向かって右耳がホジェリオより湧いている点にあり、また背中の傷跡の有無も2人を見分けるポイントである。加えて、スタンドでの構えがホドリゴがオーソドックスであるのに対し、ホジェリオはサウスポーである。
  • 2006年5月頃より右眼の黒い部分に白濁が発見され、眼疾が懸念されていた。治療は完了し、現在はまったく問題はないとノゲイラ自身は雑誌のインタビューで語っている。が、実際には、06年以降の試合で不用意なダウンを喫する回数が増えているのは事実であり、真偽のほどは不明。パンチドランカー症状に陥っているのではないかとの説もある。
  • 母国ブラジルでは自身のニックネームを冠した「Minotauro Fight」を主催しており、後進の育成にも非常に積極的。将来の夢には、恵まれない子供たちを選手と育成する道場を構えることを挙げている。
  • アンデウソン・シウバとの親交が深く、アンデウソンにブラジリアン柔術を教授し、ブラジリアン柔術黒帯を授与している[13]
  • 2004年から2005年にかけて日本テレビで放送されたバラエティ番組「アフリカのツメ」に、旅館に勤める外国人板前「ノゲイラ」役で準レギュラー出演した。

戦績

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獲得タイトル

  • UFC世界ヘビー級暫定王座(2008年)
  • PRIDE GRANDPRIX 2004 準優勝(2004年)
  • PRIDEヘビー級暫定王座(2003年)
  • 初代PRIDEヘビー級王座(2001年)
  • RINGS KOK 2000トーナメント 優勝(2001年)
  • WEFヘビー級王座(2000年)
  • 世界柔術選手権(ムンジアル)黒帯アブソルート級 3位(1999年)
  • ブラジリアン柔術リオデジャネイロ選手権 優勝7回[14]
  • ブラジリアン柔術ノースイースタン選手権 優勝6回[14]

入場テーマ曲

出演映画

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. テンプレート:Cite web
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 「人生で大切なことは全て柔術で学んだ」(ノゲイラへのインタビュー) 『ブラジリアン柔術入門』、ベースボール・マガジン社、2003年、ISBN 4-583-61212-5
  3. UFC 選手データ(英語)
  4. 「ワールド・エクストリーム・ファイティング8」『ゴング格闘技』、日本スポーツ出版社、2000年(平成12年)4月23日発行、第33巻第4号通巻446号、79頁
  5. この時スペーヒーらはヒカルド・デラヒーバに顧問を依頼したが、師であるカーウソンに敵対する行為は出来ないと断られ、代わりに己の全ての技を伝授した愛弟子としてノゲイラが預けられた。
  6. テンプレート:Cite web
  7. テンプレート:Cite web
  8. テンプレート:Cite web
  9. ノゲイラ、UFCと契約。試合は未定。DSE榊原代表は困惑 BoutReview 2007年4月9日
  10. Number 681(2007年7月5日号インタビュー)
  11. テンプレート:Cite web
  12. ノゲイラ骨折の右腕手術「半年後100%」 nikkansports.com 2011年12月21日
  13. テンプレート:Cite web
  14. 14.0 14.1 紙のプロレスRADICAL No.32(2000年10月号)