武家政権
武家政権(ぶけせいけん)は、日本史の平安時代後期から江戸時代にかけて、武家頭領を長とし、地方社会を実効支配する武士層を掌握した中央政権を指す[1]。武士政権(ぶしせいけん)とも呼ぶ。
目次
概要
かつては、12世紀後半の源頼朝による鎌倉幕府の設立から1867年(慶応3年)の徳川慶喜による大政奉還までの約680年間に渡る武家による政権を指していたが、現在はさらにおよそ20年遡る平清盛の平氏政権からとする説が有力である。
武家政権とはかならずしも幕府と同一ではなく、幕府開設以外の方法で武家政権の確立を目指した例もある。それには平氏政権・織豊政権が挙げられる。平氏政権は天皇の外戚として政権確立を指向した。織豊政権は戦国大名の統治機構を母体とする強力な中央集権体制であり、その裏づけに天皇・朝廷の権威を利用するという形式を執った。そもそも幕府が政権を指す名称となったのは、江戸時代中期以降である。つまり成立時点において幕府を自称した武家政権は存在しない。
そのうち源氏、足利、徳川の各武家権力は、政権成立時には武力行使により樹立された。この成立過程は源頼朝が確立したが、いずれも形式上朝廷から任ぜられる征夷大将軍の位に付く形で幕府を開き、封建制とも呼ばれる分権的な統治を行い、地方領主として地域の実効支配権を持つ武士の連合政権の形をとった。武家政権の長は自己の軍事力によって政権を獲得して、封建制度的な土地所有と法律による支配を実施した[2]。だが、その政権及びその長としての公認はいまだ中央権力としての地位を保っていた天皇からの将軍宣下による、現実的な権力と貴種性の承認によって初めて確立しえた[2]。室町、江戸幕府は、征夷大将軍の位を将軍家の男子に代々世襲させる一種の王朝だった。
歴史
武家政権の誕生以前の日本は、天皇親政、摂関政治、院政など、主に皇族や公家から構成される朝廷機構の中枢から、官人身分の国司を全国に派遣して統治が行われていた。
特に律令制に基づいて統治が行われた奈良時代は、古代からの地方首長の末裔である郡司層の首長権に由来する権威を利用しつつ、国司四等官の主催する国衙機構が、戸籍を編纂して朝廷の統治領域全体に個別の人別支配の網を張り巡らしていた。しかし平安時代になるころから地域社会での階層分化が激しく進み、資本となる動産を蓄積し、安定経営を成し遂げた少数の富豪百姓が、経営が破綻して口分田を失った零細百姓層を隷属下に収めていく動きが激しくなっていった。そのため、国衙機構が戸籍に基づく人別支配をし、なおかつ中央政権の維持に必要な税の徴収を行うことは困難となり、現地派遣の筆頭国司(受領)が前代より大幅に権限委譲された上で、富豪百姓層を通じて地域支配、税の徴収を行う王朝国家体制が10世紀に確立した。この新しい体制下で、国衙軍制を担う戦士として、武士身分が成立した。国衙軍制と武士身分が確立する過程で、初期の武士が自分たちの地位確立を目指して行った条件闘争が武装蜂起にまで拡大し、平将門と藤原純友らによる承平天慶の乱に至った。この乱は短期間で鎮圧されたが、この渦中に平将門は坂東諸国の国衙機構を掌握して「新皇」を称しており、これを武家政権の先駆とする見方もある。
さらに11世紀に荘園公領制が成立すると、対等な権利主体となった荘園と公領(国衙領)の間に武力紛争が多発し、荘園の現地管理者である荘官、公領の現地管理者である惣司、郡司、郷司、保司には武芸の家の者たる武士が任命されるようになった。こうして武士は地方領主化して地域の実効支配者としての地位を築いていった。
平安時代末期
平安時代末期、平清盛が武家としては初めての太政大臣に任じられた。清盛は朝廷の内紛に起因する保元の乱と平治の乱で、武功を挙げ政権を獲得したが、平氏政権は平家一門で朝廷の官位を占め、清盛自身は天皇の外戚となるなど、従来の摂関政治と大差は無かった。既存のシステムの中に武家出身者を浸透させる事には成功したものの、武家の政治体制をどうするかが発見できず旧来の政治を行い、その中での平氏一門の贅沢な暮らしや異様な出世、繁栄などを誇示するだけになったのである。そのため、地方の実効支配者としての地位の向上を望む多数の地方武士の利益代表者の位置を十分構築できず、同時多発反乱の中から台頭した源義仲や源頼朝らによって滅ぼされた(ただし、清盛が設置した諸制度の中に後の頼朝政権に引き継がれた組織の萌芽が見られるというのが近年の有力説である→平氏政権)。
鎌倉時代
本格的な武家政権は、源頼朝が鎌倉幕府を開いた事により始まる。頼朝は、当初国衙の主として朝廷公家に追い使われていた東国武士集団反乱の旗手として登場する。しかし平家打倒の治承・寿永の乱を経て、寿永2年/治承7年(1183年)に後白河院から東国における統治権的支配権(東海道・東山道の実質的支配権)を認める寿永二年十月宣旨を与えられる。そして右近衛大将に任じられるがすぐに辞任し鎌倉に戻り翌建久2年(1191年)正月に前右大将として「政所吉書始」を行い家政機関を設置する。これが発展し鎌倉を本拠とした地方政権を樹立し、東国を中心に守護と地頭の設置を朝廷に認めさせる。その武家権力としての独立性を保つ機構を作るために近衛大将より格下の征夷大将軍に任ぜられ、その権力機構として幕府を開いた。この時点ではまだ東国中心の地方政権であったが天皇・上皇と並ぶ武家権力が誕生した。頼朝とその子らの源家は三代で滅びるが、外戚でもあった御家人の北条氏は、摂家から藤原頼経を迎えて将軍へと就任させ以後「宮将軍」を続け、自身は執権として政権を握る。幕府は承久の乱で鎌倉の武家権力が朝廷権力に勝利して、旧平家領にも守護地頭を起き支配権を全国に広げ、ついには初の全国統一の武家政権となった。そして武家政権は次第に朝廷へ介入し、各地で地頭は国衙領や荘園へ浸食し、武家政権は徐々に全国への支配を強めた。
鎌倉時代後期になると有力御家人との権力闘争を勝ち抜いた北条氏の専制が強化される一方で、元寇なども原因となり、多くの御家人が経済的、政治的に没落するようになり、鎌倉幕府に対する不満が高まっていった。これが後醍醐天皇による倒幕と結びつき、鎌倉幕府は有力な御家人などにも離反され、滅亡に至るのである。
南北朝時代
後醍醐天皇らが鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政を開始したことで、武家政権は中断する。しかし新政は武家への恩賞施策と武家領を減らし国衙領の復活を目指す後醍醐天皇の独裁と公家優先の政策で、武家の支持を得られずに混乱した。足利尊氏が反旗を翻すと多くの武家が結集し後醍醐政権を攻め、後醍醐天皇は三種の神器を持って逃げた。直後に尊氏は陸奥の北畠軍に敗北し九州に落ち延びるも、勢力を盛り返し翌年に光厳上皇の院宣を掲げて入京。一時後醍醐帝と和解し持明院統の光明天皇を擁立(北朝)して征夷大将軍に任ぜられ、室町幕府を開いた。そのため後醍醐天皇は再び武家権力との対立を深め、吉野に南朝を開き南北朝二つの勢力に分かれて全国的な争乱の時代となる。南北朝時代である。三代将軍足利義満の頃、南北朝は合一するが、事実上南朝の吸収である。南北朝のせいで混乱はしたが、しかし一説に南朝が一時存在したからその後天皇が継続する力になったという指摘がある。
室町時代
室町時代、三代将軍である足利義満は、朝廷からの権力簒奪による治天の君を目指し策謀を図り、中国の明から「日本国王」に冊封される。さらに義満は叙任権、祭祀権や元号の改元、治罰の綸旨の封印など権限を奪っていき治天の権限を代行して天皇・朝廷の権威は史上最も低下した[3]。その体制化として三男・義嗣の天皇即位を目指したがその前に義満の死亡で挫折する。
また守護は、当初は国司の業務や地頭の権限への介入を禁じられていたが、応仁の乱以後の地方定住と権力の拡張の結果次第に領主化して室町後期には地方支配も進み、この頃の守護は守護大名と呼ばれる。並行して室町幕府は地方政権化し、細川氏や三好氏といった幕臣たちが力を増していった。それにより15世紀中期からの国内統治は幕府・守護体制とよばれる。
その後60年にわたり封印されていた治罰の綸旨は享徳の乱で復活し乱用されることになり天皇の権威復活の端緒となった。
力を増した、守護大名間や幕臣同士の対立が、将軍の後継問題などにも結びつき、大規模な内乱となったのが応仁の乱である。これによって室町幕府の弱体化・形骸化が進行し、明応の政変でそれは決定的になり、戦国時代が本格的に始まることになる。
戦国・安土桃山時代
戦国時代、応仁・文明の乱を契機とする室町幕府や多くの守護は国内統治権を失い、勢力を回復した一部の守護や守護代・国人などから新たに台頭した勢力など多様な出自をもつ戦国大名などの地域権力が一国以上の領域を支配する大名領国を形成した。武家権力は決定的な勢力となるが、その一方で成り上がった戦国大名は中央権門と接触を持ち、朝廷から官位官職を受けて、権威や大義名分を得た。また大内氏の直奏による大宰大弐の獲得に始まる戦国大名の勢力拡大の実利目的の官職任免もされるようになった。例えば、毛利氏が蘭奢待の切屑を天皇から下賜されるだけで狂喜するなど、コンプレックスの中で京風の公家文化も武家に浸透し天皇崇拝が強まった。こうして武家の台頭の中で天皇の権威は新たな形で復興した。
これら戦国大名家のなかで尾張国の織田信長は将軍足利義昭を擁したが元亀4年(1573年)には将軍義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、信長は「天下」の継承者として強力な中央集権の基礎(織田政権)を築いた。信長の後を継いで天下を継承した豊臣秀吉は統一政策を完成し、公家である近衛前久の猶子として関白宣下を受け、政権(豊臣政権)を成立させた。秀吉は忠実な天皇の侍大将として信長より前の室町幕府武家政権としての成果と文書体系をも覆し天皇にひれ伏した[4]。次の徳川家康は吾妻鏡を手本とし清和源氏を称し、征夷大将軍の位に就き、江戸幕府を開いた。
江戸時代
テンプレート:Main 江戸時代は264年間に渡って続いたが、幕府は朝廷を禁中並公家諸法度などにより統制した。地方政治は藩によって行われ、幕府と合わせて幕藩体制と呼ばれる。幕府は儒教の一つである朱子学を盛んにし、それを根拠に自らの権力安定を図った。しかしその一方で鎌倉幕府を模範とした独立型の幕府としたにも関わらず、世の中の安定や儒学の隆盛を背景に大日本史の編纂を契機として、戦国期に復興した天皇の権威は更に上昇し、江戸幕府は朝廷から政権を委任されているとする論(大政委任論)が大きくなる。また武家権力による天下統一のため農地を基礎とする政権となっていたが、商工業の隆盛による前期資本主義的社会の成立に財政徴税などの基本体制が対応できず、幕府各藩とも大商人からの借入が拡大し破綻していく。商人はわずかな街の共益金負担のみで無税であった。御用商人への御用金の納入や大名貸しの踏み倒しなどの軋轢はあったが武家権力が社会の変化に追いついていかない状態になる。やがて江戸時代末期になると幕府の財政的な傾きと共に尊皇思想が広まっていく。
幕末
江戸時代末期になり、諸外国が幕府に開国を求めると、尊皇攘夷などの運動が盛んとなり、政情不安の中で、十五代将軍の徳川慶喜は大政奉還を行い、武家政権は終焉を迎えた。ただし徳川家としての武家権力は残るが、やがて鳥羽・伏見の戦いに始まる徳川家を中心とする勢力と改革により復興した西日本の薩長土肥雄藩との内戦は朝廷による官軍となった薩長土肥側の勝利となる。しかしこれは雄藩側も各藩の実務下級藩士勢力のクーデターという面を持っている。以後の日本は明治政府が統治を行い、大名は華族、他の武士は士族とされ、武家は消滅していった。武家の思想は、教育による家族制度の徹底化や徴兵制による軍事国家など明治近代日本に変化した形で生き残ってその後の日本を生み出す元になった。
政権の一覧
朝廷を支配した政権
間接的に全国を支配した政権
朝廷を庇護した戦国大名の政権
日本を統一した政権
参考文献
- 佐藤進一『日本の中世国家』
- 田中文英『平氏政権の研究』
- 石井 進『鎌倉幕府』
- 大山喬平『鎌倉幕府』
- 上横手雅敬『鎌倉時代政治史研究』
- 佐々木銀弥『室町幕府』
- 三鬼清一郎「織田政権の権力構造」『講座日本近世史』
- 藤木久志『織田・豊臣政権』
- 藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』
- 朝尾直弘『将軍権力の創出』
- 朝尾直弘『天下一統』
- 北島万次「豊臣政権論」『講座日本近世史』
- 藤野 保『幕藩体制成立史の研究』
- 中野 等「文禄・慶長期の豊臣政権」
- 北島正元『江戸幕府の権力構造』
- 藤井譲治「家綱政権論」『講座日本近世史』
- 守屋嘉美「阿部政権論」『講座日本近世史』
- 村川浩平『日本近世武家政権論』