Altair 8800

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Altair 8800(アルテア はちはちまるまる)とは、1974年12月アメリカMITS (Micro Instrumentation and Telemetry Systems) が開発し、一般消費者向けに販売された、世界初の個人向けコンピュータである。


概要

Altair8800が登場した1970年代半ば、コンピュータはまだ研究所や企業などで一室を占有したり、小型のものでもシステム一式で壁面のラックにそびえ立つような、巨大で高価な代物であり、高価かつ貴重な演算資源を個人が所有し占有すること(1人で1台のコンピュータを扱うこと)は、経済的に困難と考えられていた。

このような状況で個人向けに発売されたコンピューターキットのうちの1つが、Altair8800である。

Altair8800は、発売後まもなくポピュラーエレクロトニクス誌1975年1月号で紹介された[1]。開発元の MITS社のEd Roberts(エド・ロバーツ)自身が「World's First Minicomputer Kit to Rival Commercial Models(商業モデルに匹敵しうる世界初のミニコンピュータキット)」と紹介し、またBIT誌上においては personal computer と絶賛された。このようなマイクロプロセッサを利用したコンピュータキットは既にいくつか販売されていたが[2]、最新の i8080 CPU を採用しながら、組み立てキットで $397、組立済み $498 という破格の安さ[3]と拡張性で、最初の2〜3週間で4000台を超える注文が殺到した。[4]

ミニコンピュータと自称してはいるが、Altair単体では、現在では一般的なCRTモニタはおろか、キーボードマウスなども使えず、パネルについているトグルスイッチをON/OFFして二進数で直接僅かなメモリを操作し、結果をLED等に表示させるといった、単純な計算をさせることしかできない原始的なコンピュータであった。

しかし当初から、4KB のメモリも拡張ボードとして用意されており、それらを拡張スロットに増設することを前提に、マイクロソフトの創業者であるビル・ゲイツポール・アレンが移植[5]した BASIC言語が Altair BASIC としてリリース[6]され、高級言語によるプログラミングも可能となった。

また、その後一般向けに発売されたオペレーティングシステムである CP/M とともに、中古市場に出回りつつありあったリースバックのテレタイプ端末ASR-33やビデオターミナルVT-100およびそれらの互換機などと、他の拡張機器類とあわせて接続することで、フルキーボードで入力しCRT上で結果を得るという、現在のコンソール環境とほぼ同等の環境で使うこともできるようになった。

Altair8800は、一般に知られている組み立てキットだけではなく、完成品もカタログのラインナップには存在していた。しかしMITSでは市場の要求に応えられるだけの完成品を量産製造する能力がなく(また当初は、組み立て済み製品のほとんどに何らかの不良があったとされる)、納期の遅れは購入者とのトラブルを生み出し、訴訟問題にまで発展した(例えば、送金時には1000ドルの製品が、納期の遅れによってようやく送られてきた時には、市価における実勢価格が600ドルにまで下がっている等したため、差額返却を要求された)。

実際の販売数ではキットの方がはるかに多く、電子工作の経験や素養のないユーザーが組み立てキットを購入してしまうことで完成させられない人間が続出し、その対処や苦情への対応も大きな負担になっていた。

MITSが経営に失敗した理由は、この生産効率の悪さとクレームの対処のまずさにあったと言われている。また、キット販売が主流のAltairを、組み立てなどの煩雑な作業は飛ばして実務に応用したいユーザーのニーズにもMITSは満足に応えることができず、これらの事情から完成した(消費者向け製品としてはより洗練された)互換機や拡張機器類を販売するサードパーティーが活動する余地を見出し、Altairを中核とした互換機市場に発展してゆくことになる。

Altairの系譜

Altairのラインナップには、CPUにi8080を使用したAltair8800以外に、モトローラMC6800を採用したAltair680がある。

Altair8800は更に初期型 (Altair8800)、中期型 (Altair8800a) と後期型 (Altair8800b) が存在し、さらにパネルスイッチによるブートストラップを必要とはせず、電源を入れるだけでフロッピーディスクから起動する、TURN-Key(Altair8800bT)という派生モデルも存在した。TURN-Keyモデルは、CP/M上のデータベースソフトなどのビジネスアプリを走らせて事務処理をしたい非電子技術者系ユーザーのニーズに応えるための製品であり、フロントパネルからメモリ操作用のトグルスイッチなどは省かれている。

なお、ここで言うブートストラップとは、コンピュータの起動時にOS等のソフトウェアをブートさせる最初のプログラムを読み込み実行させる仕組みであり、現在のAT互換機で例えるならBIOSの機能の一部に相当する。Altairは、標準ではBIOSやIPLなどもROMとして搭載していなかったため、最小構成では起動やリセットのたびに手作業で数十バイトのプログラムを二進数で入力する“儀式”が必要であった。

名前の由来

Altairという名前は、MITSの社長Ed Robertの友人Les Solomon(ポピュラーエレクトロニクスのテクニカルディレクター)の、当時12歳の娘Laurenの発案に由来する。彼女は『スタートレック』のファンであり、新製品の名前を何にしようかとEdがLes家に相談しにきた時に、たまたまその夜放送予定だった[7]『スタートレック』のエピソードにおいてエンタープライズ号が赴く先から取った名前を提案したのである。その目的地はアルタイル星系の第6惑星(Altair VI、日本語吹き替えではアルター6号)であった。エピソードは(作品の放送時期と、アルタイル星系が出てくる話が他に無いことから)スタートレックのオリジナルシリーズ(いわゆるTOS、日本では『宇宙大作戦』として知られる)のシリーズ2・エピソード1「バルカン星人の秘密」("Amok Time")である。

アーキテクチャ

標準構成(最小構成)では、CPUはインテル8080(2MHz)、メモリはわずか256バイトであった。また、拡張バスとしてAltaur bus(S-100バス)を搭載していた。

フロントのパネルには、アドレスおよびメモリ表示用のLEDと、アドレスバス・データバスの各ビット操作用のトグルスイッチなどを装備していた。

最小構成におけるオペレーションおよびプログラミングには、以下のような方法をとる。

  1. パネルのHALTスイッチでCPUにHALT(停止)信号を加え停止させる。
  2. パネルのスイッチ群でメモリアドレスと書き込むデータ(バイナリコード)をビット単位で設定し、書き込みスイッチで当該アドレスのメモリに設定したデータを書き込む。
  3. 2の作業を繰り返して必要なコードを書き込んだのち、HALTスイッチを開放する。
  4. 0番地からプログラムを読んで実行される。

TK-80などのように、ROMによって搭載されたモニタプログラム(現在のBIOSの機能の一部)が無かった頃のマイコンや、近年までのCPU評価ボードなどは、皆このような動かし方をしていた。

S-100バス

S-100バスとは、Altairに搭載された拡張バス規格の名称であり、後に互換機市場において名付けられた。StandardのS、バスのピン数(100ピン構成)が名称の由来である。

MITSではAltairの拡張バスをAltair busと呼称しており、当初から機能の拡張が主目的であった訳ではなく、Altairの機能を複数のカードに分散して開発する目的で仕様規定された。

Altair busは、当初はi8080 CPUの動作タイミングに完全に依存した2MHzの非同期バスとして開発され、後にAltair680を発表する際に、M6800バスのような同期バスCPUにも流用出来るように改版された。8ビットバスであり、8ビット幅のデータバスと16ビット幅のアドレスバスを持つ。

当時は、最大で20数本ものスロットに5Vおよび12Vの電圧を安定して供給可能、かつ数アンペアもの電力消費に追従可能で安価なレギュレータは存在せず、バス上では電源として8Vおよび18Vを供給し、各カード上のローカルレギュレータで12Vと5Vを作り出していた。筐体容積の1/3近い体積を占める巨大なトランスとコンデンサを電源として搭載していることも、Altairおよびその互換機の特徴といえる。

S-100バスの名は、正しくはこのAltair busの互換バスとして、サードパーティが互換製品を出す際に名乗ったものである。互換機ビジネスは現在ではサードパーティビジネスとして成立しているが、当時は日本語で「コバンザメ商法」とも呼ばれ、MITSではS-100バスはAltairBUSではないとして、これらの互換メーカーを非難した。

より高品質な互換製品が市場に流通するようになってもMITSは自社製品の改良を行えず、経営危機に陥ったMITSは自社製品の正当性と保護を主張し、(現在で言うところの)“知的所有権の侵害”に当たるとして、販売店にIMSAIや他社の互換製品を排除させようとした。しかしこれにはユーザーや販売店側の反発があり、皮肉にもMITS自身がこの市場から放逐される事になってしまう。

デファクトスタンダード(事実上の標準)となったS-100バスは、のちに正式にIEEE-696として標準化されることにより、MITSやAltair消滅後もS-100バス互換機および互換市場は存続してゆく。AT互換機における、IBMによる標準規格PC(IBM-PC/AT)バスに対する、互換機メーカー主導による標準化パス名称ISAバスと同様の構図であった。

1970年代の「互換機市場」

Altairの最小機能モデルは現在のCPU評価キット程度の機能しか持たず、それ単体では具体的な業務に従事させることは困難であった。しかしながらAltairBUS(S-100バス)で各種基板を接続する方式をとっていたため、拡張ボードで機能をグレードアップすることが可能であった。

このような用途にパーツを供給したり、互換機を発売するメーカーも現れ、「S-100バス互換機」市場が形成された。

ユーザーにとって、Altairは具体的にはS-100バスによって自在な拡張を可能とする「自作コンピュータ」の中核コンポーネントとして存在していた。これは、現在のPC-AT互換機に例えるなら、本体(筐体)とマザーボード、CPUのみの状態に近い。

ユーザーはこれにメモリやシリアルカード(音響カプラプリンタ以外にも、シリアルコンソールを接続して対話的に操作する)の他、ST-506等の各種インタフェースを増設、フロッピーディスクドライブやハードディスクドライブ等を接続し、CP/MBASICなどを利用して実務や開発などを行っていた。

また、AltairのCPUやメモリも単にS-100バス上のカードとして実装されているため、CPUをより高速・高機能なZ80に交換したり、メモリを64KBまでフル増設する等して、自在に拡張することができた。

Altair8800の互換機

上述のように、Altair8800には多数の互換機(クローン)が存在し、S100バス互換機として、現在のPC/AT互換機のような互換機市場を形成していた。これらは単純にAltairをコピーした粗悪なものから、基板や回路の品質、筐体や電源の品質などでAltairを上回る高級品や、性能や機能を拡張したもの、各種の拡張カード類をあらかじめ内蔵(増設)してスイッチONでCP/Mが起動するものなど、コアとなるAltairの至らない部分を補完・拡張する形で存在していた。

Cromemco SystemI/II

米Cromemco社が1976年に販売したS100バス互換機で、S100バスマシンとしては満艦飾仕様とも言える「全部入り」のハイエンド仕様として、当時は高級品の一角を占めていた。

4MHzのZ80A CPUと64KBのメインRAMを搭載し、2基の5インチ2Dフロッピーディスクドライブを搭載したものがSystem I、FDD1基に5メガバイトの5インチHDDを搭載したものがSystem IIである。

8インチFDDを2基搭載し、CP/Mのマルチユーザー環境MP/Mシステムに対応した、Cromemco System IIIも存在する。

IMSAI 8080

米IMS Associates Inc.の組立てキットで完成品もあったコンピュータで、Altairの完全互換機。CPUはAltairと同じ2MHz駆動の8080でありながら、基板の設計や筐体の組み付け、デザインはより洗練され、電源の容量にも余裕があり、フロントパネルのスイッチ類にもAltairより視認しやすく信頼性の高いものが使われている。

また、内部のS100バススロットも最大で22基搭載しており、メモリカード(当時のメモリは高価であり、ホビイストや学生などの経済的に余裕のない個人ユーザーは、8KBや16KB単位で増設することが多かった)やSIO(シリアルポート)、PIO(パラレルポート)、FDD、CMT(テープ)、ビデオカード等の増設にも耐えたこと、またこれらのペリフェラル類が最初からオプションとして揃っていることなど、CP/M環境を組み立てるコアとしてはAltairよりも評価が高く、Altairの欠点を潰した「Altairの本来あるべき姿」といった評価もあった。

Northstar Horizon

日本でも昭和50年代の月刊アスキーI/Oなどのマイコン雑誌(当時)の最終ページの広告で目にした人も多いだろう。米Northstar社の2FDD内蔵のフレームタイプコンピュータである。なお、当時の取り扱い代理店であった工人舎は、後にソーテックと社名変更しPC事業を続けた(現在はオンキヨーに吸収合併)。

SOL-20

米Processor Technology製で、S-100バス互換機でありながらキーボード一体型の製品。スロット数は4本で横置き。最初期のS-100カードに比べて集積率が上がったコンボカードや、メモリ容量が格段に増えたメモリカード等が市場に登場したことにより、スロット数が少なくても実用に足る製品構成が可能になったために登場した製品である。本来SOL-20自身がAltairの互換製品であるが、このSOL-20用のZ80プロセッサアップグレードキットZOLがさらにサードパーティによって発売されていた。

その他

ファイル:Altair BASIC Paper Tape.jpg
マイクロソフト製アルテア用BASICインタプリタの穿孔テープ
  • 現在パソコンのOS市場を事実上独占しているマイクロソフトのサクセスストーリーは、元々ビル・ゲイツポール・アレンがこのAltairのメモリを4KBに拡張してBASICインタプリタを移植するところから始まっている(BASICの移植自体はマイクロソフトの初仕事ではない)。
  • ハリウッド映画『ウォー・ゲーム』で主人公が自宅で扱っていたコンピュータは、Altair8800の互換機IMSAI8080であった(ノベライズ版ではAltair8800を使用している)。

脚注

  1. 製品の紹介というよりも、部品リストや回路図を掲載し、コンピュータを組み立てることを同誌が読者に提案する企画として扱われた。しかし実際にはポピュラーエレクロトニクス誌宛に送られた完動品のAltair8800は輸送途中で行方不明となり、ポピュラーエレクロトニクスの表紙には代わりに急遽作成された中身のない筐体にランプをつけただけのダミーの写真が掲載された。
  2. The Scelbi-8H(1974年 i8008)や Jonathan Titus' Mark 8 kit computer(1974年 i8008)など
  3. 当時の i8080 の単体価格は $350 であった。発売直後(3月)に組み立てキット $439、組立済み $621に値上げ。
  4. しかし、後述する生産体制等の問題により、1975年に実際に販売できたのは 2000台程度と言われている。
  5. マイクロソフトとMITSの関係は複雑で、ポール・アレンは MITSのソフトウェア部長となるとほぼ同時にビル・ゲイツと共にマイクロソフトも設立している。
  6. この Altair BASIC は紙テープ($350)で供給されたが、売れ残ったメモリボードと組み合わせて廉価販売する手法も取られた。
  7. アメリカのテレビ放送では、新作と再放送のエピソードをいくつか混ぜて放送したりする。日本のように「再放送」として全部を元の順番通り放送するようなことはあまりなかった。