鬱陵島

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鬱陵島の位置
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鬱陵島の衛星写真(上が北)

鬱陵島(ウルルンとう、울릉도/Ulleungdo/ウルルンド)は日本海に浮かぶ直径10km程度の火山島朝鮮半島から約130km沖合いに位置する。この島の最高峰は聖人峯(ソンインボン、성인봉)で標高984m。平地はほとんどなく、道が悪いので車はほとんどが四輪駆動車である。住民は約1万人で、4割が漁業、2割が農業に従事している。江戸期の日本名は「竹島」または「磯竹島」、明治期1905年までは「松島」。近代になって西洋においては「Dagelet」などと呼ばれていた。最大の付属島は島の北東に位置する竹嶼죽서)で、他に観光地となっている観音島관음도)などがある。

  • 人口:約1万160人(2007年)

歴史

三国史記によると、この島は于山国として独立していたが、512年に朝鮮本土の国(新羅)に服属させられ、11世紀初頭には女真の侵攻によって滅びたと考えられている。やがて女真が滅びると朝鮮の支配下になるが、この島は朝鮮本土より遠隔地の海上にあり監察使が頻繁に来ることができないため、兵役や税を逃れる者が本土より多数移住していた。

倭寇対策としての「空島」政策

13世紀から16世紀にかけて朝鮮本土や中国を荒らしまわっていた「倭寇」と呼ばれる海賊が鬱陵島を拠点に朝鮮本土を襲ったり、鬱陵島の島民までもが倭寇を装って(仮倭という[1])半島本土を襲うことがあったため、1417年、李氏朝鮮太宗はこの対策として、同島の居住者に本土への移住を命じた。いわゆる「空島政策」の発令で、その後460年以上に渡って無人島となった。

竹島一件

日本の江戸幕府の許可を得た隠岐の漁師などが、空島となった鬱陵島へ行き海産物や竹などを採取していたが、このとき朝鮮本土より密漁に来ていた朝鮮人を見つけ日本へ連行、幕府が李氏朝鮮へ抗議する。自国領だとする朝鮮がこれに反発。日朝間で長期間論争が続いたが、17世紀末の徳川5代将軍綱吉の時、日本から渡航させない旨を李氏朝鮮に伝え、日本の漁師達が幕府の許可を得て渡航することはなくなった(竹島一件)。なお、この頃の日本は鬱陵島を「竹島」、現在の竹島を「松島」と呼んでいた。

朝鮮王朝時代の記録によれば、晴れた日には鬱陵島が望洋亭や召公臺など、朝鮮半島の東岸部から見えるとの記載がある。

1745年(英祖21年)に成稿した李孟休の『春官志』には、「蓋しこの島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては、皆、音号転訛して然るなり」とあり、古くは竹島・三峯島・于山・羽陵・蔚陵・武陵・磯竹島などとも呼ばれ、竹を産していたことが分かる。

空島政策の廃止

李氏朝鮮は長期間無人政策をとっていたため人は住んでいなかったが、1882年国王高宗は鬱陵島検察使・李奎遠にこの島の調査を指示し空島政策を廃止、その後再び人が住み始めた。

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1894年にドイツ人が作成した地図。鬱陵島(Matsu-schima)の西側に国境線が引かれている。

近代

日本では近代に入ると鬱陵島の呼称が輻輳し、1840年頃から鬱陵島を「松島」と呼ぶようになった(竹島外一島も参照)。 西洋ではダジュレー島(Dagelet)と呼ばれていた。

日露戦争当時は近海で日本海海戦が行われ、その後日韓併合により日本領となる。

現在

1952年に発効したサンフランシスコ平和条約により、日本は済州島巨文島とともに鬱陵島の領有を放棄した(なお竹島の領有は放棄していない)。同条約で日本政府は朝鮮の独立を認めたため、以降、日本政府は鬱陵島は朝鮮に帰属するものとして扱った。

当初は鬱陵島民の生業は農業が主体であったが、現在は観光と漁業の島になっている。

交通

大韓民国 慶尚北道 浦項市から約217km、船で3時間かかる。他に江原道東海市墨湖からも定期船航路がある。

水陸両用機により、浦項空港などから航空機を就航させる計画がある[2][3]

領有権争いのある竹島との関わり

鬱陵島から東南東へ約90km(船で約2時間)には、日韓で領土問題となっている竹島(韓国名:独島)がある。現在、韓国がこの島を自国領であるとして、鬱陵郡に編入という形で実効支配しているが、これに対して日本は「不法占拠」として抗議している。

鬱陵島の道洞港は竹島航路の発着地で、鬱陵島観光者の多くが竹島を目指す。竹島へは、鬱陵島から大亜高速海運によって毎日船が運航され、日本人を含め外国人も乗船できる。竹島では、観光客は韓国が建設したコンクリート製の埠頭には上陸できるが、領土である岩には韓国人であっても足を踏み入れられない。 鬱陵島への船の発着場でもある道洞の港や船には、独島が韓国領である領土であることをアピールする巨大な看板などが並び、「独島」を冠した店名の食堂や土産物店などが林立している。道洞港から徒歩約15分の道洞薬水公園内には独島博物館があって、ここよりケーブルカーで登った展望台(標高317m)からは、晴天で空気が澄んでいれば、双眼鏡で竹島をかすかに望むことができる。この独島博物館は竹島の韓国領有をアピールするための博物館で、韓国の財閥 サムスン(三星)グループの会長が国に寄付し、鬱陵郡が運営している。

竹島は鬱陵島の標高約200m以下では水平線の下に隠れるため海岸付近からは見ることはできないが、晴天で空気が澄んでいるときに高い山の中腹まで登れば、肉眼でかすかに見ることができる(但し、肉眼で確認できるチャンスは年間に数日と言われている)。竹島(独島)を肉眼で見ることができるので「古来より朝鮮人が日本人より先に独島を発見していた」として、韓国側の竹島領有の根拠の一つとしている。

このように、鬱陵島全体が、「独島」をテーマにした、韓国人にとっての一大愛国教育基地という様相を呈している。

1964年には、江戸時代に発生した竹島一件の原因となった漁民安龍福を顕彰する「安龍福将軍忠魂碑」が鬱陵島に建立される[4]。(安龍福は将軍ではないが韓国では将軍と呼称されることが多い。また、現在の竹島を安龍福がはっきり認知していた証拠もない。)

2005年3月28日より、観光客が竹島へ観光船で行けるようになった。

2011年8月1日、自民党の国会議員である新藤義孝稲田朋美佐藤正久が鬱陵島の独島博物館などを視察するため韓国に行ったが、金浦空港で入国拒否され日本に引き返した[5]。その前日の7月31日には、3人と合流する予定だった下條正男拓殖大教授も仁川空港で入国拒否された[6]

噴火活動

今から約9300年前に鬱陵島は大規模な噴火を起こしたことが明らかになっている。このときの噴火の火山灰は日本各地に降り積もり、広域テフラの一つ(鬱陵隠岐 (U-Oki))として年代測定の材料の一つとして使われている[7]

鬱陵空港建設計画

2012年から鬱陵島に長さ1200メートルの小型の空港を建設予定。建設費は6400億ウォンとみている。2016年に完成予定。

経緯

1970年に朴正煕大統領が最初に空港の妥当性の調査をしていた。

2010年12月20日、KDI(Korea Development Institute 韓国開発研究院)は鬱陵島の空港の経済性がないという結論を下した。鬱陵郡守はこれに対して異議を唱えた。

2011年1月5日、国土海洋部は、第4次空港開発中長期総合計画(2011年〜2015年)を策定し、官報に告示。ここに鬱陵島空港の建設が含まれていた。ボンバルディア社製Q300モデルやATR社のATR42など、50人乗り旅客機が運航できるとみている。2030年になれば、年間100万人程度の航空需要で、経済性は十分だと予測した[8]

脚注

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関連項目

参考文献

外部リンク

  • 下條正男 『竹島は日韓どちらのものか』 文藝春秋〈文春新書〉、2004年
  • 独島‐鬱陵島を結ぶ航空便就航へ
  • 鬱陵島に空の道、水陸両用機が年内にも就航見通し
  • 下條正男 『竹島は日韓どちらのものか』 文藝春秋〈文春新書〉、2004年,21頁
  • 韓国、自民3議員の入国拒否 ロイター 2011年8月1日
  • 自民議員の入国拒否へ=竹島研究の拓大教授も―韓国 朝日新聞 2011年8月1日
  • 日本海とその周辺に分布する鬱陵島起源の完新世テフラ 第四紀研究 Vol.52 (2013) No.5 p.225-236
  • 鬱陵島に小型空港推進...の50人乗り以下の規模の運航 imaeil.com 韓国毎日新聞 2011-01-06テンプレート:Ko icon