高橋国光

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テンプレート:Infobox 高橋 国光(たかはし くにみつ、1940年1月29日 - )は、日本の元レーシングドライバー、オートバイ評論家。東京都北多摩郡小金井町(現・小金井市)出身。血液型:B型。愛称は国さん

二輪・四輪合わせて489レースに出場、通算71勝を挙げている。二輪では世界グランプリを転戦したが、四輪のレース活動は日本国内を主戦場とした。

華麗なドリフト走法で知られ、黒澤元治に代表されるグリップ走法派のドライバーが台頭した後も、レースでドリフトを多用したことで知られる。そのためドリキン(ドリフト・キング)こと土屋圭市達から、師匠的な扱いを受けている[1]

1999年に59歳で現役を引退。2000年以降は自らのレーシングチームであるチーム国光の監督を務める。以前はSUPER GTを運営するGTアソシエイションの会長も務めていた。 日本カーオブザイヤー選考委員(09-10等)。

経歴

2輪レーサー時代

1958年、2輪の第1回全日本クラブマンレース・ジュニア(350cc)クラスにBSAゴールドスターで出場し、セニア(350cc超)クラスを上回る平均速度で優勝。1959年第2回全日本クラブマンレースのセニアクラスにBSAゴールドスター(500cc)で出場し、500cc以下クラス優勝。同レースと併催の第3回全日本オートバイ耐久ロードレース(第3回浅間火山レース)のセニアクラスに招待されて出場し、BMWに乗る伊藤史朗に続いて2位を獲得。10代の若さで日本を代表するライダーの一人になる。

これをきっかけにホンダワークスライダーとなり、1960年からロードレース世界選手権(世界GP)に出場した。

1961年には西ドイツGP(当時)の250ccクラスで、日本人として初めての世界GPレース優勝を遂げる。当時開園したばかりの多摩テックの初代所長も務めた(ただし実務は行わない名誉職)。

1962年は世界GPの125ccクラスで初戦と2戦で連勝と波に乗る。第3戦であるマン島TTレースでも好調を持続していたが、決勝をスタートして間もなく激しく転倒し、意識不明の重体に陥り一時は生命も危ぶまれた。高橋は事故前後の記憶がないほどだというが、「誰も全開にできないようなコーナーを予選で全開で走れた。世界チャンピオンクラスのライバルから危ないと心配されたのが逆に嬉しくて、マシンも身体も暖まっていない1周目から全開にしたのがいけなかった」と反省している。マン島での事故の後、2輪ライダーとしては以前ほどの速さを取り戻すことはできなかった。

4輪レーサー時代

1964年、ホンダワークスの先輩格である田中健二郎に導かれる形で、同僚の北野元とともに四輪に転向した。日産のワークスチームである追浜ワークスに加入する。R380などのプロトタイプレーシングカーから、市販車改造マシンまで幅広く乗りこなした。スカイラインGT-R(C10型、愛称「箱スカ」)が50勝の記録を達成した時のドライバーでもある。北野元、黒澤元治と並び「追浜ワークス三羽ガラス」と呼ばれ、名実共に日本のトップドライバーと目されていた。

1973年の第1次オイルショックでワークスチームの活動が縮小された後は、富士グランチャンピオンレース(富士GC)、全日本F2選手権全日本F3000選手権などで活躍。1977年にはティレルの中古マシンでF1日本GPにスポット参戦したこともある。

1970年代後半までは長らく「無冠の帝王」と呼ばれていた。日本グランプリなどのビッグレースでたびたびポールポジションを獲得し、実力ナンバーワンと目されながら、決勝ではマシントラブルなどでなかなか優勝できなかったためである。特に1967年第4回日本グランプリで日産・R380に乗り、生沢徹ポルシェ・906を徹底的に追い詰めながら、生沢のスピンに巻き込まれて優勝を逃したことは有名[2]である。

1977年3月6日。鈴鹿サーキットにて開催された全日本F2000選手権の開幕戦。高橋がトップで残り2周の段階に差し掛かった際、周回遅れにしようとしていた竹下憲一がバックストレートで大クラッシュし、ガードレールに完全に突き刺さり、動けなくなった。高橋は優勝目前だったにもかかわらずマシンを急停止させ、竹下の救出に向かった。この姿を見た後続のドライバーも次々にマシンを停止させて高橋に続いた。結局レースは赤旗で終了となり、その直前の順位が正式なレース結果になったため、高橋は他に例を見ない形で優勝した。主催者側とライバルのドライバー全員が、高橋の献身的な行為を高く評価したためと言われ、現在まで語り継がれる美談になっている。

1978年に鈴鹿で開催されたJAFグランプリ(F2)では、F1ドライバーのリカルド・パトレーゼらと競り合った末に優勝、38歳にしてビッグタイトルを獲得し「無冠の帝王」の名を返上した。

ファイル:Kremer 962CK6.jpg
クレマーのポルシェ・962C

1983年以降は全日本耐久選手権に活動の場を移し、1985年から1987年まで、ポルシェ・956および962Cで選手権3連覇を果たし、1989年では4度目の年間タイトルを49歳にして獲得している。またクレマーチームよりル・マン24時間レースにも参戦した。

後年は、自らの名前を冠したチーム国光を立ち上げ、全日本ツーリングカー選手権(JTC)では土屋圭市と組みスカイラインGT-R(R32型)で活躍し、1勝している。1994年より、長年にわたりドライバーとして参加してきたル・マン24時間レースに自チームを率い土屋圭市飯田章ホンダ・NSXでGT2クラスに参戦、55歳となった1995年にはついにクラス優勝(総合8位)を達成した。また全日本GT選手権にも参戦、キャリア晩年は飯田章と組んでRAYBRIG NSXを駆り、通算2勝を挙げている。そのうちの1勝は現役最終年の1999年、実に59歳の時であった。

引退後

1999年にレーシングドライバーとしての引退を表明したが、チーム国光の監督として全日本GT選手権、SUPER GTに参戦を継続しており、2005年ツインリンクもてぎで現役引退以来6年ぶりの優勝を監督として果たした。

1998年にはツインリンクもてぎで開催された第1回もて耐(2輪のアマチュアレース)に長谷見昌弘飯田章と組んで出場し、往年の世界GPライダーの腕を披露。各種イベントで2輪と4輪のヒストリックマシンを走らせている。

第一線を退いたとはいえドライバーの活動も継続しており、ツインリンクもてぎで行なわれるJOY耐セパンサーキットで行われる12時間耐久レースなどに参戦している。また、2010年より行われている富士スプリントカップの「レジェンドカップ」では年齢ハンディの加算もあり3年連続ポールポジションを獲得し、2011年には終盤に中嶋悟をオーバーテイクし長谷見昌弘に次ぐ2位で, 2012年は関谷正徳に次ぐ2位でゴールするなど、70歳代という年齢を感じさせない快走を見せた。

評価

モータージャーナリストの熊倉重春は1993年インターTECのテレビ解説にて「日本のレーサーで職人といえば中子修、天才といえば高橋国光」と高橋国光の実力を高く評価している。

人物

  • ベストレースは、GT2クラス優勝した1995年のル・マン24時間レースと述べている。ル・マン挑戦7回目にして初のドライバー、マシン、スタッフ、メカニック全てにおいてのオール・ジャパン体制での参戦に誇りを持っている[3]

JGTC年度別での成績

色の意味はこちらを参照→key

所属チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 順位 ポイント
1994 チーム国光 ポルシェ・911 GT2 GT1 FUJ
SEN
FUJ
Ret
SUG
1
MIN
2
7位 35
1995 チーム国光 ポルシェ・911 GT2 GT1 SUZ
14
FUJ
3
SEN
4
FUJ
8
SUG
8
MIN
Ret
10位 28
1996 チーム国光 ホンダ・NSX GT500 SUZ
Ret
FUJ
8
SEN
12
MIN
7
SUG
10
MIN
11
17位 8
1997 チーム国光 with MOON CRAFT ホンダ・NSX GT500 SUZ
FUJ
Ret
SEN
16
FUJ
11
MIN
2
SUG
2
9位 30
1998 チーム国光 with MOON CRAFT ホンダ・NSX GT500 SUZ
10
FUJ
C
SEN
12
FUJ
Ret
MOT
7
MIN
1
SUG
Ret
10位 25
1999 チーム国光 with MOON CRAFT ホンダ・NSX GT500 SUZ
Ret
FUJ
1
SUG
13
MIN
15
FUJ
7
TAI
5
MOT
9
11位 34

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 土屋が台頭するまでは高橋がドリフトキングと呼ばれていた。近年は、マシンやタイヤの進化に合わせ、以前ほど派手なドリフトは見せなくなった
  2. 優勝した生沢より、追い上げていた高橋の方が、明らかに速かった。
  3. オートスポーツNO.789 2000年2/3号 62頁「my best race 第3回・高橋国光」より

関連項目

外部リンク

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