高橋亀吉

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高橋 亀吉(たかはし かめきち、古い文書では「髙橋龜吉」とも、1891年(明治24年)1月27日戸籍上では1894年(明治27年)9月23日) - 1977年(昭和52年)2月10日)は、経済評論家・経済史研究者。石橋湛山と並ぶ、日本の民間エコノミストの草分け的存在である。新平価解禁派。文化功労者

生涯

山口県徳山村(現・周南市)に、船大工の長男として生まれる。家業の衰退から高等小学校卒業後に大阪の袋物問屋に丁稚奉公へ出るが、1年で辞めて朝鮮へ渡航。日本人居留民相手の営業や販売、貿易実務・電信局の請負などに従事した。

やがて本格的に商売の勉強を志し、早稲田大学の講義録で旧制中学の内容をマスター。講義録を履修した校外生として優秀な成績を修めた後に、高等予科から早大商科に進み1916年(大正5年)に卒業。恩師の伊藤重次郎から大学に残ることを薦められたが、商科長の田中穂積の同意を得られず断念。久原鉱業(現在のJX日鉱日石エネルギー)へ入社し調査業務に従事するもののサラリーマンの生活には馴染めず、伊藤に再び相談してみたところ先輩の石橋湛山主幹を務めていた東洋経済新報社を紹介され1918年(大正7年)2月19日に入社した[1]。当初、旧平価解禁説だった湛山を購買力平価説で説得したのもニコライ・ブハーリンの『過渡的経済論』と並んでグスタフ・カッセルの『世界の貨幣問題』に影響を受けた亀吉である。

入社直後に欧米視察を経て『前衛』『マルクス主義』『社会主義研究』で資本主義研究を執筆。のちに『東洋経済新報』の「財界要報」欄を担当。処女作の『経済学の実際知識』が好評を得、『東洋経済新報』編集長1924年(大正13年)4月 - 1926年(大正15年)6月[2])や取締役を経て、1926年退社。フリーとして活動を始めて、1932年(昭和7年)10月に高橋経済研究所を創立すると『高橋財界月報』を刊行して経済評論において先鞭をつける[3]

評論活動の傍ら、

等の公職を歴任する。

経済政策の議論でも活躍して、金解禁では勝田貞次堀江帰一らと、日本帝国主義の分析では野呂栄太郎猪俣津南雄らとそれぞれ論争をする。1928年の第一回普通選挙では日本農民党の公認で山梨県から立候補するも落選する。昭和研究会に参加して、企画院参与としてアジア・太平洋戦争下の政府の経済政策にも参画する。

敗戦後には公職追放を受けるも、資本・人員不足を理由に高橋経済研究所を解体して、新たに日本経済研究所の創設にも関わり、通商産業省顧問、産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)等を歴任する。1956年(昭和31年) - 1973年(昭和48年)迄は拓殖大学教授も務めている。1958年(昭和33年)に、拓殖大から経済学博士号を授与される。博士論文は「大正・昭和財界変動史」 1974年(昭和49年)に、文化功労者に選ばれる。主著には、『日本近代経済形成史』『私の実践経済学』等がある。

主な著作

  • 『經濟學の實際知識』、東洋経済新報社、1924年
  • 『日本資本主義發達史』、日本評論社1929年12月改訂増補版
  • 『徳川封建經濟の研究』、先進社、1932年4月
  • 『大正昭和財界変動史』全3巻、東洋経済新報社、1954年1月-1955年9月
  • 『日本近代経済形成史』全3巻、東洋経済新報社、1968年3月
  • 『日本近代経済発達史』全3巻、東洋経済新報社、1973年
  • 『私の実践経済学』、東洋経済新報社、1981年新版
  • 『昭和金融恐慌史』、講談社学術文庫1993年新版

参考文献

関連項目

脚注

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外部リンク

  • 鳥羽欽一郎『生涯現役 エコノミスト高橋亀吉』 第1章 屈折と反発 p46
  • 鳥羽欽一郎『生涯現役 エコノミスト高橋亀吉』 第2章 東洋経済編集長 p72
  • 鳥羽欽一郎『生涯現役 エコノミスト高橋亀吉』 第5章 混迷の中の日本経済 p147~p157