青木重兼

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青木 重兼(あおき しげかね、慶長11年12月29日1607年1月27日) - 天和2年9月14日1682年10月14日))は、摂津麻田藩の第2代藩主。

旗本青木可直(初代藩主・青木一重の四弟)の長男。母は関氏。正室は酒井忠利の養女(酒井忠季の娘)。子は娘・マン(青木重正正室)。養子に青木可一酒井忠勝の三男、早世)、青木重正。官位は従五位下、甲斐守。号は端山。

生涯

慶長11年(1606年)、播磨姫路藩にて生まれる。初代藩主の一重には嗣子がなく、しかも最初に養嗣子として迎えていた正重は病弱で廃嫡されたため、元和5年(1619年)に一重が隠居したとき、その養嗣子となって跡を継いだ。

藩主としては有能で、藩政においては文武を奨励し、民政においても善政を第一とすることに尽力したため、藩政の基礎が固められた。

また、寛永18年(1641年)に徳川家光の上洛に随行し、京都御室仁和寺の造営奉行を務め、功績を挙げている。その10年に及ぶ京都滞在中、花園妙心寺近辺に仮寓した縁で、妙心寺の愚堂禅師に参禅するようになった。

寛文3年(1663年)には、摂津川辺郡多田院の再興の奉行も務めた。

しかし、明暦2年(1656年)に摂津の普門寺隠元という中国より渡来した禅師に出会ってから、彼の人生は大きく変わった。

万治2年(1659年)2月、摩耶山麓に仏日寺を創建し、隠元を開山に迎えた。翌年には、第2代住持として隠元の弟子の慧林性機を招致している。寛文7年には、萬福寺大雄宝殿が造営されたが、この時も重兼は造営奉行を務めている。

重兼は次第に仏門に傾倒し、遂には出家して入門することを決めた。重兼には女児しかなかったため、婿養子の重正に寛文12年(1672年)12月9日、家督を譲って後のことをすべて任せ、自分は仏門の道を歩んだ。延宝7年(1679年)、隠元の弟子で萬福寺第2代住持の木庵の下で出家した。

その後は川辺郡に大覚山方広寺を開き、七堂伽藍を建立し、開山に木庵を招いた後、自らはその2代目住持となって仏門にひたすら尽くした。僧名は端山性正という。天和2年(1682年)9月14日、麻田において77歳で死去した。法名は竹岩院殿端山性正大和尚。墓所は三田市末吉の方広寺。その他、端峰、二木、不二居士などとも号した。


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