閻錫山

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閻 錫山(えん しゃくざん、1883年10月8日 - 1960年5月23日)は中華民国台湾)の軍人・政治家。中国同盟会に加わり、辛亥革命では山西省での蜂起を主導した。中華民国成立後、北京政府から山西督軍に任じられると、軍政を握る一方で省内の近代化を推進した。1927年、中国国民党北伐が本格化すると、蒋介石と同盟し、国民政府内で重鎮となった。しかし、権力の拡大とともに蒋と次第に対立、反蒋戦争の中原大戦で敗北し、一時下野している。復帰後も山西省に拠り、日中戦争期には中国共産党や日本軍と交渉・対立した。最後は国共内戦で共産党に敗北し、台湾へ逃亡している。伯川。号は龍池

事績

辛亥革命から山西派指導者へ

1883年光緒9年)に山西省五台県河辺村で高利貸を兼ねた地主の家に生まれた。1902年光緒28年)、19歳のときに太原にある国立山西武備学堂に入学している。1907年(光緒30年)7月に日本へ留学し、東京振武学校(士官学校の予備校)を経て陸軍士官学校で学ぶ。日本留学中に孫文(孫中山)と知り合い、中国同盟会に加入した。弘前歩兵第31連隊勤務などを経て、1909年(宣統元年)に陸軍士官学校を卒業して帰国している。[1][2][3]

帰国後[4]1910年(宣統2年)に朝廷から新軍第43混成協[5]第86標標統[6]に任命された。しかし、その一方で、同盟会の構成員として秘密裏に革命派の活動を行っている。そして、1911年(宣統3年)の辛亥革命の際に革命派を率いて挙兵、山西省内の清軍を撃破すると、山西軍政府大都督として推戴された。中華民国成立後の1912年民国元年)3月、袁世凱から正式に山西都督に任命されている。[7][2][3]

都督に就任すると閻錫山は山西省の軍政両権を握る。当初の閻は孫文ら革命派ではなく、袁世凱らの北京政府を支持した[8]。しかし、1917年護法運動勃発後、湖南に派遣した商震率いる山西軍(晋軍)が護法運動派に殲滅されると、北京政府とは不即不離の関係をとるようになる。[3]また、「保境安民」(山西モンロー主義)を唱えて内政に力を入れ、豊富な資源を利用して工業化を進め、山西省を模範省に育てた。[9]こうして閻は山西派(晋系)の指導者として、中華人民共和国成立直前まで山西省をほぼ掌握し続けた。[10][11]

国民革命軍への易幟、反蒋戦争での敗北

1924年(民国13年)、馮玉祥北京政変(首都革命)を発動した際には、当初中立の姿勢をとったが、最終的に馮を支持した。しかし、1925年(民国15年)末頃に張作霖呉佩孚が「討赤」を唱えて対馮包囲網を形成すると、閻は馮を見限って討伐する側に転じている。[3]馮の国民軍が西北へ退却すると、閻は綏遠省も掌握し、自軍を「晋綏軍」と称した。その一方で部下の趙丕廉武漢に派遣し、密かに国民政府との連携も確立させ始めている。[12]

1927年(民国16年)4月、閻錫山は国民政府から国民革命軍第3集団軍総司令に任命され、6月に易幟を公式に宣言した。[13]また、中国国民党第3期中央執行委員にも選出された。[14]翌年2月からは北京天津方面へ出兵して奉天派の軍を駆逐し、平津衛戌総司令に任命された。同年10月には国民政府内政部長に任じられている。[15][2][3]これにより閻は、従来の根拠地山西省だけでなく、綏遠察哈爾河北、北平、天津へと勢力圏を広げたのである。[16]

国民政府の北伐完成後から間もなく、反蒋介石派の軍閥らが次々と挙兵し、各地で戦争が頻発した。閻錫山は初め親蒋の姿勢を保っていた。[17]しかし、1930年4月、ついに他の反蒋派と連合して4月に陸海空軍総司令を自称し、中原大戦を発動した。[18]ところが、張学良が蒋を支持して関内に進軍したため、反蒋連合軍は瓦解、閻は大連に逃れ、日本の庇護を受けた。[19][2][3]

復帰後、山西派壊滅まで

1931年(民国20年)8月、山西に戻り、翌1932年(民国21年)3月に太原綏靖公署主任に任命されて復権した。1935年(民国24年)4月に陸軍一級上将銜を授与され、12月には軍事委員会副委員長に任じられている。しかし、翌1936年(民国25年)2月、陝西省から「東征」してきた紅軍中国共産党)に晋綏軍は惨敗を喫する。これに危機感を覚えた閻は反共から「連共抗日」路線への転換を表明して共産党と和解し、9月には犠牲救国同盟会を成立させた。[20][21][2][3]

翌年、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、第2戦区司令長官兼山西省政府主席として日本軍に対峙する。閻錫山の地盤は、日本軍、国民党中央軍、共産党軍の進出で動揺した。1939年(民国28年)には、勢力を増大させた共産党軍との間で衝突(晋西事件)も起きる。1941年(民国30年)9月には日本の「対伯工作」を利用して現地日本軍と停戦協定を締結し、兵力を温存した。[22][23]

1946年(民国35年)から始まった国共内戦では、山西軍に加え、残留した日本兵(中国山西省日本軍残留問題を参照)の部隊(暫編独立第十総隊)を使い、中国人民解放軍と戦った。しかし、閻は次第に劣勢に追い込まれて省会(省都)太原を人民解放軍に包囲されてしまう。1949年(民国38年)3月、代理総統李宗仁が閻を召還したことも理由となり、飛行機で太原を脱出、南京に逃れた。太原では娘婿の王靖国らが残留して抗戦を継続したが、4月24日に陥落、37年もの間続いた山西派の勢力はここに消滅した。[24][3]

晩年

1949年6月に行政院長国防部長に任じられたが、内戦の劣勢により広州を経て台湾に逃れた。1950年(民国39年)3月までに各職を辞任する。台湾では総統府資政や国民党第7期・第8期中央評議委員を務め、その傍ら反共主義の著述に専念した。1960年(民国49年)5月23日、台北北部陽明山にある居宅で死去。享年78(満76歳)。[25][26][3]

著作

  • 『閻錫山の防共政策』(統治問題研究所, 1928年
  • 『世界平和のために』(文川堂書房、1950年)
  • 『共産主義の何に反対するか?何に依って反共するのか?』(大同学社, 1951年
  • 『大同の路』(大同学社、1952年
  • 『大同国際宣言草案』(閻錫山、1955年

脚注

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参考文献

関連

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 テンプレート:CHN1912北京政府
先代:
(創設)
山西都督
1912年3月 - 1914年6月
次代:
(将軍に改称)
先代:
(都督から改称)
山西将軍
1914年6月 - 1916年7月
次代:
(督軍に改称)
先代:
(将軍から改称)
山西督軍
1916年7月 - 1925年1月
次代:
(督弁に改称)
先代:
(督軍から改称)
山西督弁
1925年1月 - 1927年6月
次代:
(廃止)
 テンプレート:CHN1928国民政府
先代:
(創設)
山西省政府主席
1927年6月 - 1929年8月
次代:
商震
先代:
薛篤弼
内政部長
1928年10月 - 1929年9月
趙戴文が代理)
次代:
楊兆泰
先代:
(創設)
蒙蔵委員会委員長
1928年12月 - 1930年4月
次代:
馬福祥
先代:
趙戴文
山西省政府主席
1943年12月 - 1949年
次代:
(廃止)
先代:
何応欽
行政院長
1949年6月 - 1950年3月
次代:
陳誠
先代:
何応欽
国防部長
1949年6月 - 1950年1月
次代:
顧祝同
先代:
何応欽
美援会主任
1949年6月 - 1950年3月
次代:
陳誠
  1. 徐珌鴻(1999)、369-370頁。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 徐友春主編(2007)、2647頁。
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 3.8 劉国銘主編(2005)、2030頁。
  4. 一時、山西陸軍小学の教官や監督を務める。
  5. 「協」は、清末の新軍の編成単位。旅団に相当。
  6. 「標」は、清末の新軍の編成単位。「標」は連隊に、「標統」は連隊長に相当。
  7. 徐珌鴻(1999)、370-373頁。
  8. 1915年(民国4年)に袁が皇帝に即位した際にもこれに賛同し、閻は一等侯に封じられている。
  9. 鉄道建設、教育機関の充実などの功績は高く、現在でも山西庶民の間で評価されている。
  10. 1930年11月に下野してから1932年3月に復権するまでの期間を除く
  11. 徐珌鴻(1999)、376-377頁。
  12. 徐珌鴻(1999)、377-378頁。
  13. 中国国民党中央政治会議常務委員、党政治会議太原分会主席、国民政府軍事委員会委員等にも任命されている。
  14. 以後第4期でも中央執行委員、第5期・第6期では中央常務委員にそれぞれ選出。
  15. 代理として趙戴文を派遣した。
  16. 徐珌鴻(1999)、379-380頁。
  17. 一時、馮玉祥に与して反蒋に転じる動きも見せたが、1930年(民国19年)1月に陸海空軍副総司令に任命されたため、親蒋に留まった。
  18. 蒋が、自分の権力剥奪を狙っていると確信したためという。
  19. 徐珌鴻(1999)、380-381頁。
  20. 同時期に起こった綏遠事件では、傅作義率いる晋綏軍が日本の支援を受けた内蒙軍を撃退している
  21. 徐珌鴻(1999)、381-384頁。
  22. 日本軍が傀儡政権として樹立した汪兆銘政権(南京国民政府)の山西省政府は、蘇体仁ら閻の腹心が長を務めており、戦争中も密かに閻と提携している。
  23. 徐珌鴻(1999)、384-391頁。
  24. 徐珌鴻(1999)、391-394頁。
  25. 徐珌鴻(1999)、394頁。
  26. 徐友春主編(2007)、2647-2648頁。