関税及び貿易に関する一般協定
テンプレート:条約 関税及び貿易に関する一般協定(かんぜいおよびぼうえきにかんするいっぱんきょうてい、英語:General Agreement on Tariffs and Trade、フランス語:Accord Général sur les Tarifs Douaniers et le Commerce)は、1947年10月30日にジュネーヴにおいて署名開放された条約、またはこれに基づいて事実上国際組織として活動した締約国団をさす[1][2]。GATT(ガット)の略称で呼ばれる[1]。1995年にガットの規定を事実上吸収したWTO協定が発効するまで128カ国が署名したが[3]、正式には発効せず暫定適用議定書に基づいて適用され続けた[1]。この、1947年に署名開放されたGATTを改正した1994年の関税及び貿易に関する一般協定は、WTO協定と不可分の一部とされているが(WTO協定第2条第2項)、この1947年のGATTと、WTO協定や1994年のGATTは、別個の条約である(WTO協定第2条第4項)[1]。改正前のGATTのことを「1947年のGATT」、改正後のGATTのことを「1994年のGATT」と言い、区別される[1]。
目次
沿革
経緯
テンプレート:Bar box 今日のWTO体制は、アメリカ合衆国が1934年に制定したテンプレート:仮リンクに基づき、諸外国と二国間通商協定を締結していったことに歴史的起源をもつ[4]。アメリカは協定の締結に基づき交渉によって相手国と互いに関税を引き下げ合い、協定の無条件最恵国条項によって通商の自由化を推し進めたのである[4]。第二次世界大戦後の1948年3月24日、1930年代の世界恐慌やブロック経済が諸国の経済的対立を激化させこれが第二次世界大戦発生の一因にもなったとの反省から、1944年のブレトン・ウッズ会議で設立された国際通貨基金 (IMF) や国際復興開発銀行 (IBRD、世界銀行) と並ぶ戦後の国際経済組織の支柱として、国際貿易機関(ITO)を設立するための国際貿易機関憲章(通称ハバナ憲章)が採択され、53カ国が署名した[5][6]。本来ガットはハバナ憲章に従属するものとして作成されたものであり、1947年10月30日にジュネーヴにて採択された[1]。ハバナ憲章の一部は後にガットに取り入れられ実施されていくことになった[6]。しかしガットは効力発生の要件としてガットを批准した国の貿易額がガット加盟国の貿易額の85パーセントを超えることを正式な発効要件としていたため[注 1]、当時はこの効力発生要件を満たす見込みがなかった[7]。またアメリカの互恵通商協定法が1948年に失効するなどといった事情からアメリカを含む多くの国々がハバナ憲章の批准を見送ったためガットだけを先に成立させる必要が生じた[1]。そのため、特にアメリカ議会の審議を受けることを避ける目的で「暫定適用議定書」を作成し、ガットを正式には発効させないまま1948年1月1日から「暫定適用議定書」に基づくガットの暫定適用が始まった[1]。「暫定適用議定書」もまたガットとは別個の法的拘束力を有する条約であり、ガットは同議定書を通じて実質的に各国に対する拘束力をもつものとなったが、この議定書には「現行の法令に反しない最大限度において」のみガットが適用される旨を定めた条項(通称「祖父条項」)が含まれていたほか[8]、このようにして成立したガット体制においては各国は関税譲許率のみを約束するのみとされ[9]、またガット第25条第5項にはアメリカの農産物13品目を貿易自由化の義務対象外とする、いわゆるウェーバー条項と呼ばれる条項がおかれた[9][10]。これらに加えて各国のガット規定上の義務違反も頻発し、大きな制約を受けることになったガットの規律は極めて弱いものとならざるを得なかった[1][9]。このようにして適用が開始されたガットは、雇用問題、労働基準、開発、国際投資ルール、国際カルテルや制限的商慣行といった競争法上の幅広い分野について規定していたハバナ憲章から、貿易関連規定だけを抜き出したものとなった[5]。ハバナ憲章の一部を暫定的に適用する形で開始された戦後のガットは、その後約50年間にわたり世界の多角的貿易体制を支えていくことになる[5]。
多角的貿易交渉
ガットは、国内の産業保護の手段として関税のみを認めていたが、ガット締約国はその関税引き下げのためには二国間で交渉するよりも多数国間で交渉するほうが効率的であるとして、多角的貿易交渉を行い関税水準を引き下げてきた[11]。これは1947年のガットを一部改正した1994年のガットを含むWTO協定が発効した後も継続されている[11]。第1回からディロン・ラウンドまでの計五回にわたる交渉では関税の引き下げについて交渉が行われたが、ケネディ・ラウンドでは関税引き下げのみではなく非関税障壁であるアンチダンピング問題についても検討された[12]。東京ラウンドではダンピング防止や政府調達のような非関税障壁の問題に加えて発展途上国が関心を持っていた熱帯産品に関する交渉が開始された[12]。1986年から1994年に行われた、ウルグアイ・ラウンドでは世界貿易機関を発足が決定され、本来国際貿易機関発足までの暫定的な体制あったはずのガットが実質的に国際組織として活動している異例的な状況を解消した[13]。ガット体制下で行われた8回の多角的貿易交渉を通じて、先進諸国の平均関税率はガット以前の10分の1以下の4パーセントにまで低下した[12]。
第1-4回
期間 | 参加 国数 |
関税引き下げ 対象品目数 | |
---|---|---|---|
第1回 (ジュネーヴ) | 1947 | 23 | 45,000 |
第2回 (アヌシー) | 1949 | 13 | 5,000 |
第3回 (トーキー) | 1950-1951 | 38 | 8,700 |
第4回 (ジュネーヴ) | 1956 | 26 | 3,000 |
ディロン・ラウンド | 1960-1961 | 26 | 4,400 |
ケネディ・ラウンド | 1964-1967 | 62 | 30,300 |
東京ラウンド | 1973-1979 | 102 | 33,000 |
ウルグアイ・ラウンド | 1986-1994 | 123 | 305,000 |
WTO発足(1995年) | |||
ドーハ開発ラウンド | 2001- | 149 | 鉱工業品の関 税について |
最初の多角的貿易交渉は1947年の4月から10月、1948年の2月から3月、同年8月から9月の3回にわけて、スイスのジュネーヴにて行われた[18]。23カ国が交渉に参加し1947年10月30日にはガットの署名がなされ[1]、またこのときには国際貿易機関設立に向けた交渉がなされたほか[18]、45,000品目の関税引き下げについて合意に至った[17]。こうして行われた関税引き下げによって100億ドルの貿易に影響を及ぼしたといわれる[15][18]。1947年11月21日、国際貿易機関を設立するための本格的な交渉がキューバのハバナで開始され、1948年3月には国際貿易機関憲章(ハバナ憲章)の採択に至ったが前記のとおり(#経緯参照)国際貿易機関が設立されることはなかった[1]。そのかわりに1948年1月1日には、後にハバナ憲章の一部として採択される予定であったガットの適用を暫定的に開始することを定めた「暫定適用議定書」の適用が23カ国の間で開始され、これにより様々な制約つきではあったがガットの適用が開始されることとなった[1][15]。
2回目の多角的貿易交渉は1949年4月から8月にかけてフランスのアヌシーで行われた[18]。13カ国が参加した[15]。主な議題は関税の引き下げであり、5,000品目の関税引き下げについて合意されたほか[17]、さらに10カ国のガットへの参加が決定した[18]。しかしこの会期中にアメリカがハバナ憲章を批准しないことを宣言し、そのためこのとき国際貿易機関の設立が不可能であることが決定的となった[18]。
3回目の多角的貿易交渉は1950年9月から翌年4月までイギリスのトーキーで、38カ国の参加によって行われた[15][18]。このときには8,700品目が関税引き下げの対象となった[17]。
4回目の多角的貿易交渉は第1回と同じジュネーヴで1956年1月から5月にかけて行われ、26カ国が交渉に参加した[18]。3,000品目の関税引き下げが決定された[17]。
既に述べたようにガットはITOの設立を予定したものであったため組織に関する規定が不足しており、これを解消するため1955年に貿易協力機構を設立してガットに組織的な基盤を設けようとしたが、やはりこれもアメリカが加盟しなかったために成立することはなかった[1]。ガットに唯一規定されていた組織はガット全加盟国からなる「締約国団」のみであり、次第にこの「締約国団」が通常の国際組織で言うところの総会としての役割を事実上果たしていくことになる[1]。1960年には「締約国団」が理事会の設置を決議し、また本来ITOを設立するための準備的機関であったITO中間委員会が事実上の事務局としての役割を担いはじめた[1]。こうして本来ハバナ憲章の一部にしか過ぎなかったガットは総会、理事会、事務局という国際組織に特徴的な三部構造を備えることになり、ガットは実質的に国際組織としての機能を果たしていくことになる[1]。
ディロン・ラウンド
テンプレート:See also 1958年、アメリカ経済担当国務次官ダグラス・ディロンが5度目の多角的貿易交渉の開催を提唱した[19][20]。これは1958年1月1日に欧州経済共同体(EEC)が発足し[21]、EEC内で10パーセントの関税引き下げと20パーセントの数量制限緩和が行われることが決定され、このときEEC内の一部に当時EEC非加盟国であったイギリスなど欧州経済協力機構(OEEC)にまで貿易自由化を拡大すべきとする考え方があったのに対して、そのような対米貿易格差は許容できず貿易自由化はガットの枠内で進められるべきと主張しアメリカが反発する立場をとったためである[20]。このような背景から1960年9月1日からスイスのジュネーヴで開催された多角的貿易交渉は、ダグラス・ディロンの名を冠してディロン・ラウンドと呼ばれる[22]。このディロン・ラウンド以降、多角的貿易交渉は交渉の開催を提唱した人や提唱された地名にちなんで「XXXXラウンド」と呼ばれるようになる[11][14][注 2]。ディロン・ラウンドでは、特にEEC加盟諸国が個別に定めていた関税率をEEC加盟国で共通域外関税に移行するかどうか、EEC加盟国間で共通農業政策を導入するか、などが主な議題として取り上げられた[19]。
ケネディ・ラウンド
テンプレート:See also 1962年10月、アメリカで既存の関税を50パーセント削減するための交渉権限と、アメリカと欧州経済共同体(EEC)が世界全体の80パーセント以上を占める品目の関税を削減または廃止するための交渉権限を、議会から大統領に授権することを定めたテンプレート:仮リンクが制定された[23]。このときアメリカ大統領であったジョン・F・ケネディにちなみ、1964年5月4日からジュネーヴで開催された多角的貿易交渉はケネディ・ラウンドと呼ばれる[24]。このケネディ・ラウンドでは、二国間交渉の成果を最恵国待遇原則に基づきガット全加盟国に適用するというそれまでの交渉方式を改め、ガット全加盟国が関税譲許表を示しそれらを一括で検討するという一括交渉方式が採用された[25][26]。それまでの二国間方式では各国が自国への不利益を避けるために効果を縮小化しようとする傾向があり、これを避けるためこのような交渉方式の変更がなされた[25]。このようにして行われた関税引き下げ交渉では、工業製品に付加される関税を平均で35パーセント以上引き下げることに成功した[23]。これはディロン・ラウンドの約8倍にも相当する成果であった[23]。
東京ラウンド
テンプレート:See also 1973年9月にガット閣僚会議が東京が行われ、このとき採択された「東京宣言」に従い7回目の多角的貿易交渉決定され[27]、1973年9月から1979年11月までジュネーヴで東京ラウンドが開催された[18][15]。交渉参加国が増加したことから合意を早めるためにアメリカ、EC、日本、カナダが合意した内容をガット全締約国がコンセンサスにより承認する方式が慣行的に取り入れられるようになった[28]。東京ラウンドでは、補助金、製品の規格などといった貿易の技術的障害、輸入許可手続きといった関税以外の貿易障壁について規律する協定が締結された[28]。また東京ラウンドでもケネディ・ラウンドと同じように関税引き下げ交渉は一括交渉方式がとられたが、ECが既存の関税率が高い国と低い国に同率の関税引き下げを求めるべきではないと主張したため、以下のように交渉開始前の関税率を国ごとに反映した関税引き下げが行われた[28][29]。
<math>z=\frac{ax}{a+x}</math> z:引き下げ後の関税率、x:既存税率、a:国別定数(例:ECは16、アメリカ・日本は14)
ケネディ・ラウンドと同様に東京ラウンドでも工業製品の関税引き下げについては大きな成果を上げたが、農産品貿易の自由化交渉については成果を上げることができなかった[30]。
ウルグアイ・ラウンド
1986年9月15日から20日にかけてウルグアイのプンタ・デル・エステで行われたガット閣僚会談において、増加するサービスの貿易や知的所有権の国際移転に対応するため次の多角的貿易交渉開催が採択された[31]。そのためそれまでの7回の多角的貿易交渉では関税引き下げのための一括交渉が主なテーマであったが、ウルグアイ・ラウンドではサービスや知的所有権などそれまでの多角的貿易交渉では議題とならなかった交渉項目が追加され、また非関税障壁についても交渉されるなど市場開放のあり方についてより広く交渉が行われた[32]。その結果ウルグアイラウンドでは広範にわたるテーマが交渉されることになり、交渉妥結までそれまでの多角的貿易交渉よりもはるかに長い8年もの歳月を要することとなった[33]。また、このようにガット加盟国間同士の多角的貿易交渉が積極的に進められていく傍らで、このころ先進工業国間では二国間の貿易摩擦問題が多発していた[34]。これをきっかけにしてガット規定の適用を受けない二国間の貿易取り決めが数多く締結されていくこととなり、ガットは次第に形骸化・後退していくことになる[34]。例えばアメリカは1984年に大統領のファスト・トラック権限をガットの多国間交渉から二国間自由貿易協定交渉まで広げる通商関税法を制定し[35][36]、これに基づきアメリカ・イスラエル間の自由貿易協定が締結された[35]。これはアメリカが多角的貿易交渉から離れていく象徴的な出来事であったと言える[35]。こうした二国間貿易取り決めが広まっていったことに加えて、1980年代には第二次オイルショックの影響から世界景気の後退により先進諸国が農業補助金や輸出自主規制等といった形で保護主義的政策を強めていったことや[12][35][37]、ガットが規律対象としていたモノ(財)貿易には該当しないサービスや直接投資の国際経済活動の活発化といった状況にさらされ[12]、それまで国際貿易システムを支えてきたガットシステムの維持が次第に困難なものとなっていったのである[37]。こうした流れは暫定的なガット体制を解消して新たな国際組織を設立することにつながっていく[35]。またこれは、他国の貿易政策を「不正的貿易慣行」と一方的に認定し、他国に貿易制裁を科すアメリカのテンプレート:仮リンク第301条の濫用を防ぎたいとする各国の思惑とも一致するものであった[35]。全ての交渉テーマについてようやく合意がまとまったのは1993年12月であり、その後1994年4月15日にモロッコのマラケシュにてウルグアイ・ラウンド最終合意文書の調印式が行われた[38]。ガットは一部改正され1994年のガットとしてWTO協定の附属書1Aに組み込まれた[39]。WTO協定には祖父条項もなく、結局正式には発効することがなかった1947年のガットと違い正規の条約で、各国の法的関係もより明確なものとなった[1]。そしてウルグアイ・ラウンドの終結とともに、もともと国際貿易機関が設立されるまでの暫定的な組織であったガットを引き継ぐ国際組織として世界貿易機関が設立されたのである[40]。
基本的原則
テンプレート:See also ガットの設立目的は自由貿易の促進である[41]。これはデヴィッド・リカードが提唱した比較優位の理論に基づくものである[41]。つまりリカードの理論によれば、各国が他国と比較して生産効率の良い(これを比較優位という)分野での生産に特化し互いに自由貿易を行うことで、そのような貿易を行った国々がより大きな利益を得ることができるというものである[41]。本節ではこうした考え方に基づくガット規定の基本的原則について述べる。
無差別
「無差別」はガットの基本的原則とされ、これには最恵国待遇という側面と、内国民待遇という側面とがある[1]。これらはWTOの中核的なルールとしても引き継がれている[42]。
最恵国待遇は、貿易の相手国とその他の国とを差別せずに貿易相手国に対しそれ以外の国々に与える待遇の中で最も有利な待遇を与えるというもので、多国間条約の中でガットは初めてこの最恵国待遇の原則を定めた(第1条第1項)[43][44]。他国に最恵国待遇を与えるための条件として、その相手国に対し自国の産品に対し特定の有利な待遇を保証することを要求してはならない[44]。1947年のガットとりまとめ交渉の中で、この最恵国待遇を盛り込むにあたってアメリカとイギリスの間で対立があった[44][45]。1941年以降国務長官コーデル・ハルのもとで国務省を中心に貿易自由化を志し国際的貿易体制の検討を続けてきたアメリカに対し[46]、1932年以来イギリス帝国内の植民地で適用されてきた排他的帝国特恵関税制度の存続を求めたイギリスが反発したのである[44][45]。最終的に帝国特恵関税制度のような地域的特恵制度が最恵国待遇原則の例外として認められることとなり、また帝国特恵関税制度以外に一定の条件下で地域経済統合のような地域的特恵制度を新たに締結することもこの最恵国待遇に対する例外として認められた(第24条)[43][44]。
内国民待遇とは他国や他国産品を自国や自国産品と差別することなく待遇することをいい、ガットでは輸入品に対する税金や国内法令について規定した(第3条)[47]。輸入品が輸入国の国内で輸入品と同種の国産品目より不利に扱われれば貿易自由化の妨げになるとされたのである[48]。
最恵国待遇は特定の国の輸入品がそれ以外の国からの同種の輸入品と差別されないことを、内国民待遇は輸入品が国内産の同種の産品と差別されないことを定める原則である[44][48]。最恵国待遇・内国民待遇いずれの原則においても、同種の品目に該当するかどうかは、産品の用途、産品の性質・属性、消費者の選好、関税分類、という4つの基準に照らし判断される[44][48]。
数量制限禁止
数量制限禁止もガットの基本的原則のひとつである[1]。国内産業を保護するための手段としては関税以外は認めず、この関税についても多角的貿易交渉により引き下げを目指した(#多角的貿易交渉を参照)[1]。WTOが発足するまでこの多角的貿易交渉は8度開催され、そのたびに関税引き下げを実現してきた[14]。しかし貿易自由化を妨げるのは関税だけではなく、特定の産品を輸入することを禁じたり制限するといった輸入の数量制限措置が行われると外国産品は国内市場に参入すること自体ができなくなるという点で関税以上に貿易制限効果が高いとされ、そうした数量制限は原則として禁止されることとなった(第11条第1項)[49]。
セーフガード
セーフガードとは、特定の品目輸入が急増することによって国内産業が打撃を受けることを予防するため、関税賦課や輸入数量制限といった形で行われる措置であり[50]、ガット第19条に規定された[51]。これは特定の国からの輸入が一時的に急増することで国内産業に被害が発生した場合に、セーフガードとして緊急避難的に一時的な輸入制限措置を発動することを認めたものである[52]。しかしセーフガードを発動するために国内産業が被害を受けたことを立証することは容易なことではなく[52]、また無差別原則にのとった多角的セーフガードの発動はできても[51]、特定の国の輸入に対してだけセーフガードを発動することは認められず[52]。セーフガードとして関税を引き上げる場合には他の品目で同等程度の関税引き下げを行わなければならないなど一定の制約があり、ガットの規定上認められた権利であったにもかかわらず実際にセーフガードが発動された件数はそれほど多くはなかった[52]。セーフガード発動の権利を行使するためには輸入国側が自らに貿易摩擦の原因があることを認めなければならないため、自由貿易を標榜する先進国としてはセーフガードの権利を行使することがためらわれたのである[52]。こうした理由から、ガットの規定上は必ずしも明確に定められていない輸出自主規制のような、保護主義的な政策が横行していくことになる[52][35]。これはガット体制見直しの大きな一因となった(#ウルグアイ・ラウンド参照)[35]。
紛争解決
ガットは締約国間の紛争解決に関して、締約国は他の締約国に対して紛争に関する協議を要請でいることとし(第22条)、また締約国がガット上の利益を無効にされた場合、または侵害された場合の救済について定めた(第23条)[53]。これらの規定に基づき紛争当事国間で解決できなかったガット上の利益に関する国際紛争の処理は、ガット締約国団の検討に付される[53]。第23条によれば、相手国がガット協定に違反した場合に締約国団に申し立てることができる(違反申立て)だけでなく、相手国の協定に違反しない措置により本来であれば協定上保障されていたはずの利益が無効になっている場合にも申し立てをすることができる(無違反申立て)とされた[54]。この無違反申立ての制度はWTOのもとに設置されたテンプレート:仮リンクにも引き継がれていく[54]。ガットの初期においては作業部会によって紛争についての検討がなされ解決案が紛争当事国に提示されたが、後に締約国団はパネルを設置し、このパネルが理事会に紛争解決に関する報告書を提出するようになった[53]。こうしたガットにおける紛争解決に関する決定を得るためには、締約国団のコンセンサスを得なければならないとされていた[53]。つまり自国にとってパネルの紛争解決が不利なものであれば、その締約国はパネルの決定に反対しパネルによる紛争解決を妨げることが可能となっていたのである[53][55]。WTO紛争解決機関はこのガット紛争解決手続きの不備を改善し、全ての締約国が一致して紛争解決に反対しない限り紛争解決手続きを進行させることができると定められた(逆コンセンサス方式)[54]。
脚注
注釈
出典
参考文献
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関連項目
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