閑院宮典仁親王

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テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひとしんのう、享保18年2月17日1733年4月1日) - 寛政6年7月6日1794年8月1日))は、江戸時代の宮家当主で皇族。幼名は「寿宮」(ひさのみや)。世襲親王家閑院宮第二代当主。光格天皇の父。閑院宮典仁親王の呼びかたは江戸期のもので、明治期以後は「慶光天皇」または「慶光院」という。墓所は天皇号が追尊されたため「陵」を名乗っている。陵は廬山寺陵(京都市上京区)。

古今伝授伝承者に名を連ねる和歌の名手で、日野資矩などの公卿に指導した。能書家でもある。

系譜

東山天皇の孫で、閑院宮直仁親王の第二王子。養母は関白近衛基熙の娘、藤原脩子。実母は家女房の讃岐。御息所中御門天皇の第五皇女、成子内親王。

  • 妃:成子内親王(1729-1771)
  • 女房:大中臣祐智女
    • 第一皇子:致宮 のちに美仁親王(第三代閑院宮)(1757-1818)
  • 女房:りて
    • 第二皇子:俊宮 のちに守典親王、仁和寺宮 深仁入道親王(1759-1807)
    • 第三皇子:方宮 のちに保和親王、輪王寺宮 公璋入道親王(1760-1777)
  • 女房:紫雲院
    • 第四皇子:良宮 のちに保業親王、輪王寺宮 公延入道親王(1762-1803)
    • 第一皇女:弥数宮(1765-1768)
    • 第二皇女:孝宮 のちに宗恭女王(1769-1821)
  • 女房:おさ
  • 女房:大江磐代(蓮上院)
    • 第六皇子:致宮 のちに師仁親王、兼仁親王(光格天皇)(1771-1840)
    • 第七皇子:寛宮 のちに嘉種親王、聖護院宮 盈仁法親王(1772-1830)
    • 第十皇子:建宮(1778-1780)
  • 女房:加久
    • 第八皇子:精宮(1774-1779)
  • 女房:交野
    • 第九皇子:鏗宮(1776-1777)

系図

テンプレート:皇室江戸後期

略歴

朝廷では、1779年に後桃園天皇が男子を残さないままに崩御した為、典仁親王の第六皇子として生まれた師仁親王(兼仁親王)が急遽即位した(光格天皇)。光格天皇は、父である典仁親王の宮中での地位が大臣より低い事から、太上天皇の尊号を贈ろうとしたが、江戸幕府老中松平定信などに反対され、贈る事はできなかった(尊号一件)。

1884年(明治17年)になり、明治天皇高祖父にあたるという事で「慶光天皇」の諡号と「太上天皇」の尊号が贈られた(明治以後に「太上天皇」制度が廃止された関係で二重の手続を要した)。以後、閑院宮典仁親王ではなく、慶光天皇または慶光院と称される。

外部リンク

関連項目


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