赤穂藩
赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。『忠臣蔵』で有名な藩である。なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。[1]
目次
略史
播磨一国の太守である池田輝政の5男・政綱は元和元年(1615年)、兄である忠継の死により岡山藩を相続した忠雄より、母・良正院の遺領分のうち3万5000石を分知され、ここに赤穂藩が立藩した。寛永8年(1631年)、政綱は嗣子なく没し、同国佐用郡平福藩で2万5000石を領していた弟の輝興に相続が認められた。しかし、輝興は正保2年(1645年)、突然発狂して正室や侍女数人を斬殺し、本家である岡山藩主池田光政の預かりとなり、改易となった。
同年、代わって常陸国笠間藩より浅野長直が5万3000石で入部した。長直は石高にそぐわない宏壮な赤穂城を旧城の南に13年かけて築城し、更に城下町も造営した。転封と工事により財政は悪化。池田氏の代より始まっていた塩田開発を奨励し整備を行い塩を赤穂の特産品とした。以後、塩は赤穂の特産として藩財政を支えて行くこととなる(当時は通称「赤穂塩」と呼ばれていた。現在の現地遺跡の発掘により、その起源は、弥生時代にまで遡るとする研究結果もある)。
第2代藩主・長友は寛文11年(1671年)、義兄・義弟に分知し、石高は5万石となった。
元禄14年(1701年)、第3代藩主・長矩(内匠頭)は江戸城中で高家旗本・吉良義央に斬りつけ、長矩は切腹、浅野家は改易となった。そして元禄15年(1702年)に家臣による吉良邸討ち入りが起こった。これらは元禄赤穂事件(忠臣蔵)として後世に知られる。
刃傷事件のあった元禄14年(1701年)に、代わって下野国烏山藩より永井直敬が3万2000石で入部する。しかし、5年後の宝永3年(1706年)には信濃国飯山藩へ転封となっている。
同年、備中国西江原藩より森長直が2万石で入部。廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主としては最も長く在封した。森家の在封期間を通じて藩政は困窮しており、時代を追うごとに悪化の一途を辿った。第5代藩主・忠洪は財政改革を断行。藩主自ら質素倹約を行い、貯蓄を奨励した。更に塩田開発や蝋燭の原料となる櫨の植林等殖産興業にも努めた。しかし、財政の再建はままならなかった。第10代藩主・忠徳は文化6年(1809年)、遂に塩を専売制とした。
幕末の安政4年(1857年)になると、藩政の改革をめぐり保守派・革新派の対立が起こり藩内は分裂。革新派の一部は脱藩し長州藩へ奔った。文久2年(1862年)、攘夷派が保守派の家老を暗殺するという事件が起こり、藩論は分裂したまま明治維新を迎えることとなった。
明治4年(1871年)、廃藩置県により赤穂県となる。その後、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入された。森家は明治2年(1869年)の版籍奉還とともに華族に列し、明治17年(1884年)には華族令の施行とともに子爵を授爵した。
歴代藩主
池田家
外様 3万5千石 (1615年 - 1645年)
浅野家
外様 5万3千石→5万石→5万3千石 (1645年 - 1701年)
永井家
譜代 3万2千石 (1701年 - 1706年)
- 直敬(なおひろ)〔従五位下、伊豆守〕
森家
外様 2万石 (1706年 - 1871年)
- 長直(ながなお)〔従五位下、和泉守〕
- 長孝(ながたか)〔従五位下、志摩守〕
- 長生(ながなり)〔従五位下、越中守〕
- 政房(まさふさ)〔従五位下、伊勢守〕
- 忠洪(ただひろ)〔従五位下、和泉守〕
- 忠興(ただおき)〔従五位下、山城守〕
- 忠賛(ただすけ)〔従五位下、大内記〕
- 忠哲(ただあきら)〔従五位下、和泉守〕
- 忠敬(ただたか)〔従五位下、肥後守〕
- (忠貫)(ただつら)
- 忠徳(ただのり)〔従五位下、越中守〕
- 忠典(ただつね)〔従五位下、美作守〕
- 忠儀(ただのり)〔従五位下、越後守〕
- 忠貫については、「森家譜」においてその記述が見られる。それによると、忠貫は在職3年で死去し、藩の策謀により弟の忠徳が身代わりとして擁立されたというものである。
西江原藩
西江原藩(にしえばらはん)は江戸中期の10年間存在した藩。元禄10年(1697年)森成利(蘭丸)の弟・忠政の家系で美作国津山藩主・森家の断絶にともない、津山藩2代藩主であった隠居中の長継が2万石で立藩した。
備中国後月郡西江原(岡山県井原市)周辺を領有し、西江原に陣屋が置かれた。 宝永3年(1706年)2代・長直のとき、赤穂藩に転封し廃藩となった。
歴代藩主
森家
外様 2万石
幕末の領地
参考文献
- 『藩史総覧』 児玉幸多・北島正元/監修 新人物往来社、1977年
- 『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1977年
- 『大名の日本地図』 中嶋繁雄/著 文春新書、2003年
- 『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 八幡和郎/著 光文社新書、2004年
脚注
- ↑ 赤穂は郡名を起源としており、城地・政庁の存在した当地の歴史的固有地名はカリヤ(加里屋・仮屋・苅屋)であった。
関連項目
外部リンク
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