袁煕
袁 煕(えん き、? - 建安12年(207年)9月)は、中国後漢時代末期の武将。字は『三国志』魏書袁紹伝では顕奕[1]、『後漢書』袁紹伝では顕雍。豫州汝南郡汝陽県(河南省商水県)の人。袁紹の次子。袁譚の弟。袁尚の兄。従兄弟に高幹。一族に袁買[2]。
正史の事跡
建安年間(恐らくは公孫瓚が滅亡した建安4年(199年))に、袁煕は幽州刺史に任じられている。袁煕は任地に向かう一方で、その妻の甄氏(後の魏の文昭皇后)は鄴に残って姑を世話していた。
建安7年(202年)、袁紹が後継者を定めないまま病没すると、兄と弟がそれぞれ後継を表明した。家臣団の支持も喰い違い、袁氏の勢力は二分されることになる。しかし実子であるにもかかわらず、袁煕がこの争いに積極的に加わったとされる記載は無い。
建安9年(204年)、弟が曹操および兄に敗れると、これまで曹操と敵対していなかったにも関わらず、袁煕はあえて弟を管轄地の故安に迎え入れて助けた。この行動は幽州の豪族に反感を抱かれ、結果、焦触・張南ら多くの離反を招いてしまう。袁煕は弟とともに遼西の烏桓の大人(単于)楼班を頼って逃れた。建安12年(207年)、遼西に進軍してきた曹操を、袁煕・袁尚は烏桓王蹋頓(楼班の族兄)らと柳城で迎撃した。しかし再び敗れ、最後は遼東の公孫康を頼って落ち延びた。
曹操を恐れた公孫康は、袁煕・袁尚を斬って曹操への手土産にしようと企み、2人を偽って歓迎した。これに袁煕は疑いを抱いた。しかし、むしろ公孫康の軍を奪い取ろうと考えていた弟の強弁もあり、ともに公孫康の下に向かった。結果、やはり2人は公孫康の騙し討ちにより殺害され、その首級は曹操のもとに送られた。なお、『三国志』魏書袁紹伝(付、袁譚・袁尚伝)注に引く『典略』によれば、処刑直前に袁尚は寒がって筵を求めたが、すでに覚悟を決めていた袁煕が「首級が万里の旅に出るのに、なぜ今さら筵がいるのか」と弟をたしなめたとされる[3]。 袁煕自身は殺害されたが、その子孫は生き延びて袁氏の命脈を伝え、唐代において宰相を輩出している。
曹叡の実父説
曹丕の子である魏の明帝曹叡は、景初3年(239年)に36歳で死亡したと『三国志』明帝紀に記されており、逆算すると生年は建安9年(204年)となることから、『三国志集解』の著者盧弼は、曹叡が曹丕から特に冷遇されたことなども傍証に挙げて、曹叡の父は曹丕ではなく、袁煕ではないかと主張している。
ただし一般には『三国志』明帝紀の享年が誤りだと解釈されており、例えば『三国志』の注釈者裴松之は曹叡の享年は34が正しいと主張している。この場合には曹叡の父は曹丕で問題ないことになる。
物語中の袁煕
小説『三国志演義』での字は顕奕。父からは柔弱で物にならないと評されている。官渡の戦いで敗れた父を救うため、幽州の軍を率いて現れる。しかし倉亭の戦いで曹操軍に敗北し、高幹とともに矢傷を負う。袁紹死後の展開は、史実とほぼ同様である。