藤原豊成

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藤原豊成(『集古十種』より)

藤原 豊成(ふじわら の とよなり、大宝4年(704年) - 天平神護元年11月27日766年1月12日))は、奈良時代貴族藤原南家左大臣藤原武智麻呂長男官位従一位右大臣。別名難波大臣、横佩大臣(よこはぎのおとど)。

経歴

内舎人兵部大丞を経て、神亀元年(724年正六位下から従五位上に昇叙。天平4年(732年)従五位上。

天平9年(737年)における天然痘の猖獗によって父・武智麻呂をはじめとする藤原四兄弟が急死すると、藤原氏氏上藤氏長者の前身)となり、急遽兵部卿に、続いて参議に任命されて官位も従五位上から従四位下まで昇進することとなった。こののち聖武朝で順調に昇進し、天平11年(739年正四位下、天平15年(743年従三位中納言、天平20年(748年従二位天平感宝元年(749年)に右大臣に叙任された。

孝謙朝に入ると、天平勝宝9年(757年)4月に大炊王(のち淳仁天皇)を立太子させた弟の大納言・藤原仲麻呂の急速な台頭により政権の外に押し出され気味となる。同年5月正二位に昇進するものの、同年7月の橘奈良麻呂の乱において普段より橘奈良麻呂と好を通じていた三男・藤原乙縄が乱に与したとみなされ日向に左遷されると、豊成も連座して右大臣を罷免され大宰員外帥に落とされた。

だが、これに抗議の意を込めて「病気」と称して難波にあった自分の別荘に籠ったことから大宰府行きは無期限延期状態となり、豊成はそこで8年間の隠遁生活を送った。天平宝字8年(764年)仲麻呂が道鏡排斥に失敗して失脚し殺害された後(藤原仲麻呂の乱)、豊成は従一位右大臣として政権に復帰した。天平神護元年(766年)11月27日薨去。享年62。最終官位は右大臣従一位。

妻の百能尚侍となり、後宮で絶大な地位を固めた。

系譜

脚注

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  1. 尊卑分脈による。同書には「或本武良自云々」とあり、良因の名は正史に見えないが、藤原武良自または武良士・武良志は『続日本紀』に見える。最高位が従五位下であり、早世したか、良因の名から出家した可能性もある。高島正人「奈良時代中後期の藤原南家」『奈良時代諸氏族の研究』243頁。