脇坂安元

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脇坂 安元(わきざか やすもと)は、江戸時代初期の大名伊予大洲藩第2代藩主、のち信濃飯田藩初代藩主。播磨龍野藩脇坂家2代。

大洲藩初代藩主脇坂安治の次男。名は初め(とおる)。通称甚太郎。兄・脇坂安忠がいたが、若くして病没したために嫡子となる。弟に脇坂安信脇坂安経など。正室は石河光元の娘。実子はなく、嫡養嗣子に下総佐倉藩堀田正盛の次男・脇坂安政。従五位下淡路守。

当時の将軍家光の信任が厚い堀田正盛の次男である安政を養子とすることを願い出て許されたことにより、外様の小藩であった脇坂家は譜代大名となることができた。なお、安元には安政以前に実弟の安経、次いで正盛の弟の脇坂安利を養子としていたが、いずれも早世した。

生涯

天正12年(1584年)3月4日、山城国で生まれる。慶長3年(1598年)には大坂にて徳川家康に謁見した。慶長5年(1600年)に豊臣姓を授けられ、従五位下、淡路守に叙任されている。

家康による会津征伐が起こると、父安治の命で家康の元に参陣しようとしたが、石田三成らに阻まれ断念した。三成らが挙兵すると、大坂に滞在していた脇坂親子は、止むを得ず西軍に加勢した。しかし、小早川秀秋の裏切りを機に東軍に寝返り、大谷吉継隊を壊滅させ、石田三成の居城佐和山城攻めに加わるなど東軍の勝利に貢献した。

慶長11年(1606年)には、江戸城の普請を行っている。大坂の役では先鋒として活躍する。大坂冬の陣が勃発すると、藤堂高虎指揮下で生玉辺りを攻め、大坂夏の陣においては土井利勝と共に天王寺辺りを攻めるなどして活躍した。同年、父の隠居に伴い大洲5万3,500石を襲封した。

元和3年(1617年伊予大洲藩5万3,500石から、信濃飯田藩5万5000石(上総国一宮5000石を含む)に加増移封された。2代安政と共に55年間にわたって飯田の城下町を整備し、飯田城の掘割を完成させ、街道の流通と伝馬を確立し、飯田十八町を完成させ、文化産業振興にも力を注ぐなど、飯田の発展に尽くした。

元和9年(1623年)の秀忠の上洛や寛永3年(1626年)9月の秀忠、家光の上洛、寛永11年(1634年)7月11日の家光の上洛など将軍家の上洛に従っている。また、勅使馳走職として勅使の日光参詣に従ったり、朝鮮通信使を江戸接待役として江戸本誓寺にて接待するなど接待役としても活躍した。寛永9年(1632年)12月に改易された徳川忠長の居城だった駿府城正保元年(1644年)4月1日に下館城などの守衛を務めている。承応2年(1653年)12月3日、信濃飯田にて70歳で死去した。法号は藤亭安元八雲院。墓所は京都市右京区花園の妙心寺隣花院。

教養人

安元は武家第一の歌人といわれ八雲軒と号し、徳川秀忠の談伴衆でもあった教養人で、和漢書籍数千巻を蔵していた。「下館日記」「在昔抄」など著作も多い。林羅山から儒学を学び、逆に歌道を教えるという師弟関係でもあった。また、狩野派の絵師狩野元俊とも親しく、安元が下館城在番中に江戸から訪ねるなど親密な仲だった。他にも土佐派の絵師土佐一得に関する貴重な記録を残している。

安元の教養を知らしめる逸話として、家光の治世「寛永諸家系図伝」が編纂されるにあたり、戦国時代に成り上がった大名諸家が源平藤橘などと名門の出であると取り繕った系図を競うように作る中で、安元は「祖先は藤原氏であるらしい」ということだけしかわからなかったため、祖父脇坂安明からの短い系図のみを作り、冒頭に「北南 それとも知らず この糸の ゆかりばかりの 末の藤原」(北家南家ひいては京家式家いずれかは判りませんが、父祖よりたまたま藤原氏の末裔を名乗っております)という和歌をしたためて提出したという。


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