第一次ポエニ戦争

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戦争:第一次ポエニ戦争
年月日紀元前264年-紀元前241年
場所地中海シチリア北アフリカ
結果:ローマの勝利、ローマのシチリア獲得
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 共和政ローマ カルタゴ
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | マルクス・アティリウス・レグルス
ガイウス・ルタティウス・カトゥルス
ガイウス・ドゥイリウス
ハミルカル・バルカ
大ハンノ
クサンティッポス
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第一次ポエニ戦争 (テンプレート:Lang-la-short, テンプレート:Lang-en-short, 紀元前264年 - 紀元前241年) は、カルタゴ共和政ローマの間で戦われた三度にわたるポエニ戦争の初めのものである。

この戦争で二つの勢力は、地中海の西側の覇権(その場所絵尾所有する権利)をめぐって 23 年間にわたって争った。 カルタゴは、アフリカ大陸の現チュニジアの場所に位置し、戦闘が始まった頃は地中海を支配する国だった。戦争の結果、ローマ軍が勝利し、ローマはカルタゴに厳しい講和条項と多額の賠償金を課した。第一次ポエニ戦争を出発点として、ローマは 60 年間にわたって勢力を拡大し、地中海海域のほぼ全てを支配するに至る。ローマ軍の勝利は、古代地中海の文明がアフリカに依存する時代から、ヨーロッパ社会に委ねられる時代に変わる転換点となった。

日本語でのポエニに当たるローマ側の Punici とは、カルタゴを建設したフェニキア人を意味する Phoenici (ポエニキ)から派生した語である。

背景

紀元前3世紀の半ば、ローマの勢力が拡大してきた。内乱や騒乱の数世紀を経て、ローマは全イタリア半島をしっかりと手中に収めた。ローマはラテン同盟サムニウム人のような全ての敵を征服し、エペイロスピュッロスの侵入を撃退した。ローマ人は、自らの政治制度と軍事力に確信を抱くようになった。

ティレニア海と現チュニジアの領土の一部にあるシチリア海峡を挟んで、カルタゴが既に地中海における商業航路の大部分を統制し、海軍力と商業力を支配していた。アフリカ大陸の現チュニジアの場所に位置するこの都市は、元来はフェニキア人の入植地として生まれたが、北アフリカ沿岸からヨーロッパのイベリア半島までを支配する大国の首都となっていた。カルタゴのハンニバルによる侵攻を含めたローマとの一連の戦争は、もう少しでローマ帝国の誕生を阻むところだった。ローマの勝利は、古代地中海の文明化がアフリカではなくヨーロッパに渡される、記念的な転換点となった。

発端

ファイル:Siracusa e Cartagine mod.jpg
カルタゴとシラクサ

紀元前288年、カンパニア人の傭兵部隊マメルティニが、シチリアの北東にあるメッシーナの町を占領した。彼らは男を殺害し、女を妻として連れ去った。彼らはメッシーナを拠点に国境を荒らし回り、自治都市シラクサにとっても問題となった。シラクサの僭主ヒエロン2世は、紀元前265年にその座につくと、マメルティニと対決しメッシーナを取り戻そうと決断した。

マメルティニはローマとカルタゴの両方に助けを求めた。はじめローマ人は、マメルティニ軍がメッシーナの町を本来の所有者から不正に奪ったと考え、助力する意欲がなかった。さらに、ローマはエペイロスピュッロス王(レギウム、紀元前271年)を破った後に起きた傭兵の暴動を鎮圧したばかりだったので、この紛争に介入することを渋っていた。このため、嘆願に応えてこの地に軍団を送ったのは、カルタゴの方が早かった。それを見てローマはカルタゴ勢力がシチリアに広がるとイタリアに近づき過ぎると考え、それを避けるため、マメルティニと同盟を結んだ。

紀元前264年、ローマはシチリアに外征した。これはローマ軍団がイタリア半島の外に出た初の事例となる。翌紀元前263年にシラクサを攻略し、ローマとの同盟を強要した。まもなく、紛争の主役はローマとカルタゴの対立に代わり、それがシチリアの所有権をめぐる争いにまで発展した。

第一次ポエニ戦争の発端となったのはカンパニア人の傭兵部隊マメルティニである。この傭兵集団はメッシーナの政権を不当に奪取し、カルタゴとローマとの間を立ち回り二枚舌外交を行っていた。ローマが何故このような素性のよくないマメルティニの肩を持ったのかという理由は現在でも歴史家で意見が分かれており、

  • イタリア半島の諸部族を制圧したばかりのローマの国制には、軍事を尊び攻撃的な気風が残っていたとするもの。
  • イタリア半島の同盟市を束ねたばかりのローマは、自らの威信を強国カルタゴにも見せる必要があった。
  • カルタゴと結んでいた不平等条約を是正する好機と考えた。
  • イタリア半島統一後、成長著しい平民階級の多くが従事していた交易摩擦の利害がカルタゴとの間に生じた。また、平民階級の多くはさらなる成長を期待し、対外侵略に肯定的だったので、民会の意思に抗う事は元老院でもできなかった。
  • シチリア島をカルタゴに制圧されることは、イタリア半島南部の安全保障が揺らぐという地政学的な理由。

などが挙げられている。

陸上戦

シチリアは丘陵が多い島で、地理的な障害や通信路を保持しにくい地形が多い。それが原因で、第一次ポエニ戦争では陸上戦は重要な役割は担っていない。 陸上行動は小規模な奇襲と軍隊間の小競り合いに限られ、大きな会戦はほとんどなかった。正規軍が最も多用した作戦は攻城戦と陸上封鎖だった。陸上封鎖の最たる標的は重要な海港である。というのも、交戦中の両陣営はどちらもシチリアには本拠がなく、本土からの補給と情報交換を続ける必要があったためである。

俯瞰的にはこのような状況だったが、第一次ポエニ戦争の間に大規模な陸上戦闘が少なくとも二回は行われた。紀元前262年、ローマはアグリゲントゥム(現アグリジェント)を攻囲した。この戦闘には執政官二名の軍団を両方(ローマ軍四個軍団)が投入され、終結までに数ヶ月を必要とした。アグリゲントゥムの守備隊はなんとか援軍を求め、ハンノに率いられたカルタゴの救援軍が救出に来た。ローマ軍はシラクサからの補給を遮断され、攻囲中のローマ軍自身が取り囲まれ、包囲網を築かれていることに気付いた。しかし、数回の小競り合いの末、アグリゲントゥムの町は落ち、戦いはローマの勝利に終わった。

この勝利に発奮し、ローマは新たな大規模陸上戦を挑んだ(紀元前255年 / 256年)が、この度は結果が違った。何度かの海戦の後でローマは早い終戦を願った。このため、カルタゴに講和を押し付けるために、アフリカにあるカルタゴの植民地を侵攻しようと決めた。そして、兵士と機材を運ぶ輸送船と艦隊防御のための戦艦からなる大艦隊を建造した。カルタゴは阻止しようとしたが、エクノモス岬の戦いで敗戦した。この結果、執政官マルクス・アティリウス・レグルス (en:Marcus Atilius Regulus) に率いられたローマ軍がアフリカに上陸し、カルタゴ辺境の侵略を始めた。レグルスは当初は勝利続きで、アディスの戦いにも勝利し、カルタゴに対して講和を強要した。しかし、その条件が大変厳しかったために交渉は失敗し、返答の代わりに、カルタゴはスパルタ人傭兵のクサンティッポス (Ξάνθιππος, Xanthippus, en) を雇って軍隊を再編した。 クサンティッポスはカルタゴの海上の優位性を取り戻し、ローマ軍を本拠から切り離すことに成功して、チュニスの戦い (en) でローマ軍を破ってレグルスを捕らえた。

紀元前249年、戦争が終結に近づいたころ、カルタゴはハミルカル・バルカ将軍(ハンニバルの父)をシチリアに送った。ハミルカルはほぼシチリア島全土の支配を獲得した。ローマはこの状況を打開するために必死になって、独裁官の選出まで行った。しかし、陸上戦よりも海戦の戦果の方が決定力を持つようになり、シチリアにおけるカルタゴの成功は意味を失っていった。ハミルカルは無敗を続けたが、紀元前241年アエガテス諸島沖の海戦におけるローマ軍の勝利の後では無意味だった。

海戦

シチリア島内の行動が難しかったため、第一次ポエニ戦争の舞台はほとんどが海上で、戦況を決める重大な戦いもまた海戦だった。また、海戦によって敵の港を効率的に封鎖すれば、島内の軍への増援と補給を封鎖できた。 両陣営ともに、艦隊は市民の資金で建造されていた。このため、カルタゴとローマの戦力は資本力の許す範囲に限られ、それがついには戦争の行方を決めることになった。

第一次ポエニ戦争の開戦当時、ローマは海戦の経験を実質的には持っていなかった。一方、カルタゴは過去何世紀にもわたる海上貿易のおかげで、豊富な経験を持っていた。しかし、発展を続ける共和政ローマは、戦果を上げるためには地中海の支配権が重要だとすぐに看破した。

ローマは 紀元前261年アグリゲントゥムの勝利後、最初の大艦隊を建造した。一部の歴史家は、ローマの持つ船舶技術力は低かったと考え、戦艦の設計は捕らえたカルタゴの三段櫂船五段櫂船が嵐でローマの海岸に打ち寄せられた船をそのまま真似たのであろうと推測している。また、他の一部の歴史家は、海賊から沿岸を警備するため、ローマは既に船舶技術を持っていただろうとも指摘している。開戦当時の船舶技術の程度がどうあれ、ローマは急速に適応していった。つまり、短期間で数百隻もの艦隊を就航させるようになっていったのである。

おそらく、少ない経験を補って、標準化された陸上戦術を海上でも使うために、ローマ軍は新しい船に特殊な乗船器具カラス装置コルウス)を装備した。当時、海戦では尖った船先をぶつける方法が常識だったが、カラス装置を装備した船は、船体を敵船の横側につけ、船橋を渡して先端に付けた爪で敵船を捉え、乗船隊(いわば海兵隊)として軍団(レギオー)を送った。

新兵器の効果は、海戦においてローマが初めて勝利したミレ沖の戦いで証明された。その後、数年間この装置は活躍を続け、特にエクノムス岬の海戦において大きな役割を果たす。カラス装置の出現によって、カルタゴは軍事戦術を立て直す必要に迫られた。しかし、カルタゴは有効な戦術を見つけられず、海上ではローマが優勢になった。しかし、カラス装置は軍船の操作性を悪くしたので、後年、ローマの海戦経験が増えるにつれ装置は使われなくなっていった。

共和政ローマは多くの海戦で勝利したものの、嵐と戦闘によってほとんどの船と船員を失っていった。少なくとも二回(紀元前255年 / 253年)も全艦隊を悪天候で失う事件が発生した。

船首のカラス装置が重いために船は不安定になり、悪天候に遭うと沈没していった。戦争の終盤になると、ローマは高価な艦隊を新しく建造する資金を出し渋るようになり、カルタゴが海上で優勢になった。ところが、カルタゴには戦争に反対する一派があり、紀元前244年に大地主の貴族大ハンノがその党首の座につくと、戦争は間もなく終結すると考えて、艦隊を解散し始めてしまった。これにより、ローマ軍は海上の優位性を奪い返す機会を得た。ローマは裕福な市民からの寄進によって新たな艦隊を建造し、アエガテス諸島沖の海戦(紀元前241年3月10日)で第一次ポエニ戦争の決着をつけた。この海戦では、執政官ガイウス・ルタティウス・カトゥルス率いる新しいローマ艦隊が勝利を挙げた。カルタゴは艦隊の大半を失い、新船を建造する経済的余力もなく、船員の人手を探す力も失った。ハミルカル・バルカも艦隊が無くてはカルタゴから切り離されてしまい、降伏せざるを得なかった。

戦争の影響

23年間続いた戦争の末、ローマが第一次ポエニ戦争に勝利し、カルタゴに代わって地中海を支配する国になった。戦争の直後は、両陣営共に財政も民力も疲弊した状態だった。領土の境界線は、地中海を結ぶ直線と彼らが考えた境界線をひいて最終確定した。ヒスパニアコルシカ島サルデーニャ島アフリカはカルタゴのものとして残されて、その線の北側は全てローマに引き渡された。ローマが勝利した要因は、敗北を断固として拒否し続け、完全な勝利だけを受け入れたことが大きい。さらに、共和政ローマは戦費のために個人的投資を集める力が高く、市民の愛国心を呼び起こして船と船員の資金を供給させたが、この能力も戦争の行方を決定付けた要素の一つである。カルタゴと比較すると違いは明確で、カルタゴの貴族達は、公の利益のために私有財産を危険にさらすことに対しては明らかに及び腰だった。また、第一次ポエニ戦争の結果としてローマ海軍が正式に誕生したが、それは、この後ローマが属州を拡張するために大きな力となった。

戦死者数

歴史の情報源には偏りがあり、多くはローマ側を持ち上げて書かれているので、両陣営の戦死者の正確な数は判断し難い。

いくつかの資料によると(地上戦の戦死者数を除く)

  • ローマは 700 隻の船を失い、少なくとも乗組員の一部を失った(主に悪天候と未熟な船長が原因)。
  • カルタゴは 500 隻の船を失い、少なくとも乗組員の一部を失った。
  • 各船の乗組員はおよそ 100 名だった。

これもまた不確実だが、両陣営ともに戦死者数は甚大だったとされる。ポリュビオスの記述によると、 アレクサンドロス3世の戦闘をはじめとする当時の戦争の中でも、死傷者数においてはこの戦争が最も破壊的だった。エイドリアン・ゴールズワーシー (en) は、紀元前3世紀に行われたローマの人口調査結果を分析し、戦争中にローマは5万人の市民を失ったと述べている。この数字には、他国の援軍や市民権を持たない兵士は含まれていない。

講和条約

講和条約はローマが起草したもので、交渉できる立場に無いカルタゴにとって重く厳しいものだった。以下にローマの要求を示す:

  • カルタゴはシチリア島から撤退する。
  • カルタゴは身代金なしで捕虜を解放し、一方、自国の捕虜には重い身代金を支払う。
  • カルタゴはシラクサとその同盟国を攻撃しない。
  • カルタゴはシチリア島の北の諸島をローマに譲渡する。
  • カルタゴは 2200 タレントの賠償金を 10 年分割で支払い、その上、1000 タレントの賠償金を即刻支払う。

さらに、両陣営の同盟国は互いに攻撃しないことと、相手領土内で軍隊を組織しないことを決定した。これによってカルタゴはローマ人傭兵の兵力を入手できなくなった。

政治的な結果

戦争の後、カルタゴは資力を事実上失った。ハンノ・ボミルカルは解散した軍隊への支払いを拒否したので、傭兵の乱とよばれる内戦が勃発した。激しい戦闘の末、ハミルカル・バルカとハンノ・ボミルカルが協力して傭兵軍を破った。しかし、ローマは好機を逃さず、この闘争のすきにカルタゴからコルシカ島サルデーニャ島を奪い取った。

第一次ポエニ戦争におそらく最も直結した政治的な結果は、カルタゴの大きな海上支配力が失われたことである。講和条約で締結させられた条項のため、カルタゴの経済的立場は弱められ、都市の復興は難しくなった。そのうえ、ローマが課した賠償金はカルタゴの資金に更なる負担となったので、カルタゴは、ローマに支払う資金を得るために、勢力のおよぶ他の地域に目を向けざるをえなくなった。

これに関して、第一次世界大戦で敗れたドイツ帝国に対し、連合軍はヴェルサイユ条約で過酷な賠償を要求したことがよく言及される。

ローマにとって第一次ポエニ戦争は、イタリア半島を越えて領土拡張を始めた記念碑となった。シチリアは、同盟国ではなくプロコンスルが支配する初めてのローマ属州となった。シチリアはまたローマにとって重要な穀物産地となった。

著名な指導者

年表

  • 紀元前264年 - マメルティニシラクサのヒエロン2世の攻撃を受け、ローマカルタゴの両方に助力を求める。カルタゴが求めに応えた後でローマも対応した。
  • 紀元前263年 - ヒエロン2世は執政官マニウス・ウァレリウス・メッサラに敗れ、シラクサとローマの同盟を強要される。
  • 紀元前262年 - シチリアにローマが干渉。 カルタゴが占領するアグリゲントゥムの町をローマが包囲した。
  • 紀元前261年 - アグリゲントゥムでローマが勝利した。ローマはカルタゴの海上支配を揺るがすために艦隊の建造を決定した。.
  • 紀元前260年 - 初めての海上の戦闘(リーパリ島沖の戦い)でローマが大敗したが、間もなく、カラス装置も手伝い、ガイウス・ドゥイリウスがミレ沖の海戦で勝利した。
  • 紀元前259年 - 陸上戦がサルディニアコルシカに拡大した。
  • 紀元前258年 - スルキ沖 (Sulci) の海戦:ローマ軍が勝利
  • 紀元前257年 - テュンダリス沖の海戦:ローマ軍が勝利.
  • 紀元前256年 - ローマ軍がアフリカ侵攻をもくろみ、カルタゴが輸送艦隊を阻止しようとして、 エクノモス岬の戦いで衝突した。ローマ軍が大勝利をはたし、アフリカに上陸してカルタゴに兵を向けた。アディスの戦いで、ローマ軍はアフリカの地で初めて勝利をあげた。カルタゴは和睦を希望したが、交渉は決裂し、戦争は続いた。
  • 紀元前255年 - カルタゴはスパルタ人傭兵クサンティッポス将軍を雇って守備を建て直し、チュニスの戦いでローマ軍を破った。生き残ったローマ兵は艦隊で撤退したが、シチリアへの帰路の途中で撃沈された。
  • 紀元前254年 - ローマは、嵐で失われた艦隊を補うため、140 隻からなる新しい艦隊を建造し、兵士も新たに徴集した。ローマ軍はシチリアのパノルマスでは勝利したものの、それ以上の戦果はなかった。シチリア島にあるギリシャ人の五つの町が、カルタゴからローマに離脱した。
  • 紀元前253年 - ローマ軍は、カルタゴの東にあたるアフリカの沿岸地を襲撃する作戦にでた。この年は成功が無いまま艦隊は帰国しようとしたが、イタリアに向かう帰路で再び嵐に遭って 150 隻の船が失われた。
  • 紀元前251年 - ローマ軍はパノルマスでハスドルバル率いるカルタゴ軍を再び破った。重なる敗戦をみて、カルタゴはシチリアの駐屯軍を補強し、アグリゲントゥムを奪還しようと試みた。ローマ軍はリリュバエウムの包囲戦を始めた。
  • 紀元前249年 - ローマ軍はドレパナの海戦で艦隊がほぼ全滅した。同年、ハミルカル・バルカはシチリアの襲撃に成功を収め、さらに、残されたローマの船は別の嵐で破壊された。アウルス・アティリウス・カラティヌスが独裁官に任命され、シチリアに送られる。
  • 紀元前248年 - これ以後の期間、シチリア島の戦闘は海戦を除き少なくなる。小康状態は終戦(紀元前241年)まで続く。
  • 紀元前244年 - 海軍従事経験がないにもかかわらず、カルタゴのハンノ・ボミルカル は財力を蓄えるため、カルタゴ海軍の大部分の動員解除を主張した。カルタゴはその主張に従った。
  • 紀元前242年 - ローマは新たな戦闘艦隊を建造した。
  • 紀元前241年3月10日 - アエガテス諸島沖の海戦が起こり、ローマが決定的な勝利をあげた。カルタゴは講和条約を締結せざるをえず、第一次ポエニ戦争は終戦した。

参考文献

  • The Punic Wars, by Adrian Goldsworthy, Cassel
  • The First Punic War by J.F. Lazenby, 1996, UCLPress
  • World History by Polybius, 1.7 - 1.60

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